――!

……♪

(あっ……)

 晴れない気持ちのまま、登校した翌日。
 朝のホームルーム前に見かけた、その姿。
 窓際の席へ近寄って、わたしは想わず言っていた。

また、本ばかり読んでるのね

 言ってから、嫌みっぽいのに気づいて、少し顔を下げる。
 けれど、独りでも問題ないようなその姿が、気にいらないのも事実だった。
 視線に気づいたのか、このままだと本をとりあげられると知っているからか、相手は本を閉じる。

 困ったような眼と、やせた身体。
 細かいことを気にしそうな雰囲気が、見た目からわかる。
 そんな彼は、わたしを見上げながら言った。

今は自由時間だろ。
なにをしててもいいんじゃないか

いつ見ても本を読んでいるから、あんまり良くないんじゃないかって想うだけよ

それこそ、俺の勝手だろう

 確かにそうだけれど、と想いながらも、わたしはいつも想っていることをまた口にする。

少しは、運動くらいしなさいよ。
いくら頭が良くても、身体が悪くちゃおしまいでしょ

 見た目通り、こいつは頭がいい。
 でも、弱々しく見える身体は、見た目もそのまま。
 幼なじみとして子供の頃から知っているから、心配なのが理由だった。
 ……別に、倒れたとか、そういうことも聞いてはいないけれど。

これから暑くなるし。
身体が大切よね、やっぱり

 頭の中に、初心者用の練習メニューが、いくつか想い浮かぶ。
 だから、一緒にやらない……と、言おうとしたら。

 眼の前のこいつは、片手をひらひらさせて、とってもイヤそう。

いいんだよ、体育で動いてるだろ

 むっとして、言い返す。

習慣化しておかないと、大人になってから大変だっていうじゃない

そういうお前こそ、次の試験は大丈夫なのか

うっ……

 変な声を出して、眼をそらしてしまう。
 いつもそう返されているのに、またやられた。
 いつもこうしてやられてから、失敗したとわかる。
 だって、仕方ない。
 わたしががんばっているのは、それじゃないのだから。

この前も、先生が苦い顔してたじゃないか

わたしはいいのよ!
次の大会に出られるように結果を出すのが、一番望まれてることなんだから

 スカートの上から右足を軽く叩く。
 そう、わたしが望まれているのは、学力じゃなくて脚力なんだ。
 この間参加した地区予選だって、いい結果を出せていたし。
 それが、わたしのためでも、部活のためでも、みんなのためにもなる。
 ……自分では、そう、想っているんだけれど。

最低限の知識はないと、生きていくのはつらいぞ

大丈夫よ、体力には自信があるから

今の消費税が何パーセントで、千円でいくらになるか言ってみろ

……百円以下

こうして一人の少女の未来は、暗闇に閉ざされていくのだった

なっ……! 失礼なヤツね!

でも事実だろ。
練習もわかるけど、試験を突破しないと、うちの学校はまずいだろ

それは、そうだけれど……

 間違ってはいないけれど、ってことばかり言う、眼の前のこいつ。
 名前は、伊佐木 学(いさき まなぶ)。わたしの、幼なじみ。
 子供の頃から本ばかり読んで、あまり自分から周りには話さない。
 自分の考えを言うことも少なくて、ちょっと地味なところもある。
 その上、運動とか外出をするのが苦手なのか、こうして教室にいたり帰宅部っぽかったりする行動が目立つ。
 なのに……不思議と周囲を見てるのか、イジメられたりもなく、グループ活動の時も独りになっている様子はない。
 ――見方によっては大人びているらしくて、クラスの一部の女子にも、気になっている子がいるみたい。

柔(やわら)、お前……

 突然、名字を呼ばれて驚く。
 昔は、名前呼びで『さきちゃん』なんて、呼ばれていたけれど。

な、なによ

勉強すれば、良い線いけると想うんだけれどなぁ

 その言葉が意外すぎて、想わず身を乗り出して聞き返す。

ほ、本当!?

と、言って上げていこうかなって

……ふん、信用してないんだ

 からかわれたことが、想った以上にむかっとくる。
 ――今日は、機嫌があまり良くない。

いろいろ勉強しろとは言わないけどな……少しは本くらい読んだらどうだ?

あんたまで、お母さんみたいなことを言うのね

あぁ、本を読むのは良いぞ。
知らない知識が増えていくのは、嬉しいものだからな

 本の表紙を見ながら呟くこいつの顔は、違うなにかを考えている顔だった。
 わたしにとっては、よく知っている顔。
 こうして、たまに夢見がちになるクセが、学(まなぶ)にはある。
 わたしといるのに、ここじゃないどこかを見ているような視線をする。

 ――だからわたしは、本を読まない。

 ただでさえ、違う世界を本から見ているのに。
 わたしまで読んでしまったら、こっちを見てくれなくなるんじゃないかって、想っちゃうから。

ただ、本当に少しは勉強しとけよ。
運動だけじゃ、なにかあった時に大変だろ

 そうしてわたしへ向ける視線は、その夢見るようなものとは逆のもの。
 心配してくれているのはわかっているけれど、イラッとわいた感情に従って、口が開いてしまう。

大変って、そうかもしれないけれど。
今、できることをしたいの。
それって、おかしいかな

 にらみつけるようになってしまう自分の態度に気づきながらも、引きたくはなかった。
 わたしは、こいつとは真逆。
 運動大好きで、部活の陸上活動に今は夢中。
 だけれど、勉強は苦手。
 試験も近いけれど、次の大会で結果を出すことばっかり考えている。
 だから、学(まなぶ)の言葉に対して、怒っているわけじゃなかった。
 でも、気になることがあって……わたしは、ちょっと怒りっぽくなっているのを、わかってもいた。
 わたしには、それしかない。
 身体を動かして、記録を伸ばす、それが一番大切なこと。

ふぅ……

 ため息を一つ吐いて、学(まなぶ)はわたしになにかを言いかける。

なに

……いや。なんでもない

 また本を開き、自分の世界に戻ろうとする学(まなぶ)。

ちょっと、戻らないでよ

お、おい

 手に持った本を目隠しして、学(まなぶ)の視線を受け止める。
 邪魔するのは、確かによくないんだろうけれど、無視されるのもちょっとイヤ。
 話す話題も合わないし、行く場所や遊ぶ相手も全然違う。
 なのに、いつも心配で、気にしてばっかりだった。
 じっと本ばかり読んでいる時や、一人でいる時、知らずこいつに話しかけてしまう。
 学(まなぶ)も、積極的ではないけれど、わたしへ声をかけてくる。
 無理してそうな時、まず気づくのは、なぜかこいつ。
 調子が悪くていい成績がでない時、ただ黙って聞いてくれることもあった。
 ……今はちょっと、部活の話はしないようにしているけれど。

(……話題、変えなきゃ)

 想わず、前のように部活での話をしそうになって、頭のなかをぐるっと変える。

 わたしはぐいっと腕を横に伸ばし、ストレッチ。
 合わせるように、口を開いて誘ってみる。

ねえ、たまには一緒に走ってみない?

走る? なんで

本ばっかり読んでても、しかたないじゃない。
今をエンジョイしなきゃ!

 わたしのその言葉に、学(まなぶ)の雰囲気が少し変わった。

(あ、あれ……?)

 その眼が、いつもの冷めた視線とちょっと違うものだと、わたしにも気づけてしまう。

(怒ってる、のかな)

本ばっかり、か。
確かに、否定できないけどな

 ちょっと笑うような、鼻を鳴らす話し方。
 でも、楽しむような笑い方じゃない。
 どっちかと言えば、あれは、あんまり機嫌がよくないんだと想う。
 学(まなぶ)は、自分のすぐ横の窓へ顔を動かして、グラウンドの方を見ながら呟いた。

……俺だから、まぁ、いいけどな

えっ?

お前の部活での活躍、聞いてるから

そ、そうなの?

 わたしから話しても、うんうんとうなずくばかりだから、そう言われたのが意外で驚く。
 ……今日は、なんだか意外なことがいっぱい。
 そういったことには、全然無関心だと想っていたから、正直……嬉しい。
 去年よりも順調に記録を伸ばして、先生からも好タイムを期待されている。
 部活の練習も、休日の自主練も、自分を鍛えているみたいで、充実している。

(そう、そうなのよ)

 とても……とっても、充実している。
 目標もあるし、がんばって、走っている。

 ――わたしは、まっすぐに、充実しているの。

 言い聞かせるわたしに、でも、学(まなぶ)はグラウンドに眼を向けたまま言った。

あぁ。
だから逆に、不思議なんだよ。
どうして、俺なんか、かまうのかなって

えっ……

 その言葉に、わたしの頭は真っ白になってしまった。
 だって今まで、こいつから、そんな言葉を聞いたことはなかったから。
 イヤそうにしても、避けるようにしても、どこかで少し振り返ってくれるのを知っていた。
 こんな、本当に、わからないって顔は……わたしの方こそ、わからない気分になってしまった。

どうして、かまうかって……どういう、意味よ

 気持ちが落ち着かなくて、言い返すように聞いてしまう。
 学(まなぶ)は右の頬をかきながら、言いにくそうに口を開く。

その……俺が言うことじゃ、ないけどな

 はっきりしない声で、眼はこっちを見ずに言う。

 そのはっきりしない態度が、よりわたしをイライラさせる。

あんたが言うことじゃないのに、どうしてかまうかって、どういう意味!?
話がつながらないじゃない

落ち着けよ。
……みんな、見てるぞ

 冷静な学(まなぶ)の言葉に、はっとなって周りを見る。

……!

……

(あっ……)

 クラスメイト達の視線が、わたしと学(まなぶ)の二人に向けられている。
 どうしたんだろうという顔から、あきれたような顔を浮かべている子もいる。

 『あなたが本当だって言って考えていること……』

(……また、やっちゃったの?)

 周囲の顔を見て、あの日の言葉を想いだす。
 つい最近、やってしまったばかり。
 しかもそれは、まだ解決していない苦い記憶。

 ――まっすぐに、走っているつもりだったのに。

 苦いコーヒーを飲んでしまったような、そんな気分。
 胸が重いわたしに、学(まなぶ)は言葉を続ける。

お前の頑張りも、聞いてるけれど……やり方は、それぞれあると想う

……なに、それ。
なにを聞いてる、っていうの

 わたしの胸に広がる、解決できていない苦さ。
 その理由を、学(まなぶ)には、まだ話していない。
 その悩みは……今までみたいに、自分の記録が伸びなかったり、目標が高すぎて悔しい、っていうような悩みじゃなかったから。
 だから、その苦みに、触れて欲しくはなかった。
 なのに。
 こいつから、話しかけてくれた話題が……わたしが、つまずいていることだなんて。

いきなり走ろうって言われても、さ。
ついていけるやつばかりじゃ、ないんだから

 なにを言われているのか、ちゃんとはわからなかった。
 わたしの頭は、よくない。
 わかりたく、ない。
 でも直感的に、わたしは不愉快になった。
 そしてそれは、次の一言で爆発してしまった。

周りを見て走らないと……ぶつかる、だろ

 ――こいつのこういうところが、とっても嫌だ。

余計なお世話よ!
この、お節介!

おせっか、って……おい!?

 わたしは怒鳴ってから、背を向けて歩き出す。
 顔が、歪んでいるのがわかる。見える周りと同じくらい、ぐらぐらになっていると想う。

お、おい!?

 背中越しに学(まなぶ)の声が聞こえるけれど、足を止めることはない。
 ――なにを注意するように言われたか、わかっている。
 だから、怒りと悲しさで、ふりかえれない。
 近づこうとする足音も聞こえたけれど、途中で止まる。

 チャイムの音と、先生がドアを開けて入ってくる音が、同時に響いたからだ。
 席へ戻り、黒板を見る。

 先生はなにも知らないように、いつもどおりのホームルームを始めた。
 教室の後ろの方にあるわたしの席。
 少しだけ、黒板から眼を離して周りを見る。
 そこには、ちらりとこちらを見る、クラスメイトの視線がわかった。
 みんな、すぐに黒板に眼を戻しちゃったけれど。
 ……わかってる。
 怒っているわたしの方が、おかしいんだってことは。

『最近の咲希、ちょっとおかしくない?』
『気が立ってるのかなぁ、どうしたんだろ』
『ほら、あの話が本当ならさ……』
『咲希、まじめというか、引かないからね』

 ぐっと、右手で、左手を強くつかむ。
 声が出ない程度に息を吐いて、眼を閉じる。

(……妄想よ)

 聞こえた気がした声は、ただの自分の想像。
 でも、そう言われてても仕方ないかって想うくらい、自分の今の態度がよくないってのも、わかる。
 落ち込みもする。
 でも……と、強く自分の手を握ってもしまう。
 クラスメイトから向けられる目線は、とてもよく似ていた。
 わたしが今、抱えている、悩みの始まりに。
 この間、自分の意見を部活のみんなへ求めて、否定されてしまった時に。

(わかるけれど……)

 今、学(まなぶ)へ言ってしまった言葉が、良くないんだろうなってことくらい、そんな眼をされなくてもわかっている。
 わかるから……重ならない。
 謝りたい自分と、譲れない自分。
 二人の自分が、ぶつかって、うまく走ってくれない。

(ぶつかる、か。横に並んで、欲しいだけなのに)

 さっきの学(まなぶ)の言葉を想い出しながら、そんなことを考える。
 ……自分のなかでも、周囲との間でも、今、わたしはぶつかってばかりでちゃんと進めていない。

え~、それでは授業を始める。
集中するように……

 のんびりした先生の声が、遠くに聞こえた。
 それからは授業が始まり、静かな時間が過ぎていく。

 わたしは、見慣れない単語の並ぶ教科書の文字を、ぼんやりと見つめる。
 それは、集中するためじゃなかった。
 ……クラスメイトから向けられる視線も、あいつが浮かべている顔も、すぐに見たいとは想えなかったから。
 特に、あいつの顔は意地でも見ないようにした。
 怒っていようが、申し訳なさそうにしていようが、気持ちを抑えきれないから。
 ――隣に並んでほしいのが誰か、気づいてくれない感情を。
 そして、気づいて欲しくない部分までちゃんと見ているのに、その気持ちには気づかない悔しさを。

(なら……さ、って、想っちゃうじゃない)

 自分のわがままで、はっきりしないのが悪いとも気づいているけれど、折れたくはなかった。
 あいつのことも、部活のことも、わたしは自分の目指す目標を叶えたかった。

 ――折れたくなかったから、どうすればいいのか、わからなかった。

 そんな心境のまま、授業の時間は過ぎていって。

――ではみなさん、また明日

 あっという間に、帰宅時間。
 だけど放課後は、部活の練習時間でいっぱい。
 誰とも眼を会わさず、急いで部活へと足を向ける。

咲希……

ごめん、今日は忙しいから!

 仲の良い友達が、心配そうに声をかけてくるけれど、そう言って振り切る。
 ……半分は本当で、半分は嘘。
 でも、その半分の本当は、とっても申し訳ない気分にもなった。

(……だめだ)

 練習にも、身が入らない。
 とにかく身体を動かして、考えるのをやめようとしたけれど……結果は、今一つ。
 そのまま陽は暮れて、終了時間まであっという間だった。

(これで、今日は、いいのかな)

 練習メニューと身体の具合をふりかえりながら、心の不安を落ち着ける。
 先生に相談すれば、問題はないと言われたけれど。
 ……今日も、うまく話しかけられなかった。
 あいつにも、部活のみんなにも。

……お疲れさまでした

 みんなに合わせて、ぽつりと言う。
 独り、学校を後にして、帰り道へ。
 陽は落ちているから、自宅の近くまでバスに乗っていく。

 家に帰ると、汗でべっとりした身体をきれいにするために、まずはお風呂へ。
 出たら食事をとって、居間で休憩。時間になったら、部屋のベッドへゴロンと横になる。

 ――一日の終わり。
 そして、考えることを、しちゃう時間。

……あぁ……

 昼間のことを想い出す、余裕が出来てしまう。

視界の広がるあの場所で・02

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