綺麗事、とは塗り固められた建前、いわゆる偽善と呼ばれるものなのかもしれない。
しかし、むしろ偽善でない善行など、あるのだろうか



時たま、人は己を優しいと評価する者がいる。
果たして、優しいとは本当に「優しくしている」で収まっているのだろうか。
それは、「優しくしてやっている」へと変化してしまっているのではないだろうか



優しさの押しつけは、何よりも痛く、刺さる
言霊は、人を酷く傷つけ、また進ませる



これは少し違うかもしれないが、、激励の言葉として「みんなの期待を背負い、頑張ってこい」ということがあるだろう。
それは、言葉を送られる側とすれば、どうしようもないプレッシャーを押し付けられているとも言えるだろう。しかし、送る側はそれを言うことを「良いこと」として言葉を吐いたのかもしれない。



人は、汚れを知らずしては生きれないだろう
そして自分にはかけた純粋な白であるそれを、語る
心の中のどす黒く汚れたものを隠しながら。
それは、世の中で「綺麗事」と言われ嘲笑われるかもしれない



しかし、建前としてそれを吐かなくなったら、世界はトゲで溢れ、刺し合いのみで構成されてしまう



となれば、綺麗事、というのは、蝕む毒であり甘美な薬でもあるのだろう。
それは私にはわからない。




私の言葉は矛盾だらけだ。
私は自分がわからない
だからこそ、こうして答えの出ないことばかりを考えて



世界への反感を小さく持ち
それを吐き捨てる
もう、白にはなれない私ではあるが
語るくらいは許されるだろう

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