人の価値観とは、常に違いを抱えているものなのである。
例えば、「君は神を信じているか」という問を10人にぶつけよう。
それは、同じような年同じような日々を送っている10人だったとしても、同じになることは無いだろう。



ひとりは神を信じるといえば、ひとりは場合によるとでもいうかもしれない。ひとりは信じないといえば、ひとりは神によるというかもしれない。



価値観とはつまりそういうものである。
しかし世間は、「正義」や「平和」という言葉でそれを縛る。

あなたは今が平和だと言えますか

という問いを投げかければ、大半は

言えます

と、こたえるだろう。
それは、各々の平和の価値観の中での話である。
私は平和かと言われれば、首を縦には振らないだろう
それは、私の中の平和の価値観が「今の日本を、平和などと呼べるのか」という疑念を持つからだ。



戦争がなければ、平和なのか
国が豊かであれば、一部の民が豊かであるなら、平和なのか
偽りの平和に固められた現実を、私たちは受け入れ飲み込み、主張するのか



醜さでいえば人は皆同じである。
それなのに、人は自分の価値観で悪と決めつけた者に対して己の正義を振るう



子供のいじめなどがいい例だろう。
異端を排除しようとする。受け入れようとはしない。
それもひとつの価値観である。認められざる、それである




唐突だが、私は「優しくする」という言葉を聞くと、虫唾が走る。
それは、いつしかその言葉が「優しくしてあげる」となるからだ。己の慈愛深さを振りかざしている、それをお前のためだと主張する



なんと愚かな
こういえばいいのだ。
「私がやりたいからやっているのだ」と。
なぜそれが出来ない。優しさという言葉で着飾り、己の自己愛を隠そうとする。
人とは本来自己愛の塊であるのに



これは、私の価値観だ。
認めてもらおうとも、共感を得ようとも反感を得ようともしている訳では無い


これは、私のためのものだ

価値観というものについての戯言

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