38│先輩も私も
38│先輩も私も
家族と、もう一度一緒に暮らせたら、私はどんなに幸せだろう。
一人ぼっちの一年間と少しで、考えたこと。
お母さんが、私に、手を差しのべている。
その手を、でも、私はすぐにとることができなかった。
脳裏に浮かぶ、舞、先生、昂太郎君、皆の猫。
レイン、それと、光先輩。
……嬉しい、けど
学校もあるし、友達もいるし、すぐにってわけにはいかない、とか、なんとか。
私は何を言ったっけ。
……そうよね、急にごめんね
お母さんに寂しそうな顔をさせてしまった。
ぎゅっと、胸の奥が痛くなる。
お母さん、いつまでいられるの?
明後日の朝には、出るわ。
でも、今はそんなに離れたところにはいないから、すぐに戻ってくるわよ
じゃあどうして、今まで顔を出してくれなかったの。
お父さんも心配だしね
私は心配じゃなかったの?
お父さんが治ったら、少し遠くに行こうと思ってるの
いろんなところ、行ってるんだね
そうね、日本中、ぐるぐるしてたのよ
私がついていったら、私、学校とかどうするの?
……わからないなあ
ん?
にこっと笑って、なんでもないと言って、部屋に戻って、私はぐつぐつと考える。
夜、お母さんと他愛ない話をして、今までお母さんがどんな人達を助けたかを聞いて、私の話は、それでもあまりしなくって、私はそれでも幸せで……ひたすらに、混乱していた。
明日までに、答えを出さなければならないような気がして、焦りながら、考えに考えた。
でないと、お母さんはまた、どこかに行ったっきり、帰ってこないような気がしたから。
せんせえ
どうしました、力の抜けた声を出して
次の日の昼休み、私は一人で美術室にむかった。
先生しかいない美術室の机に手を伸ばし、あごを机の上にのせる。
私は悩んでいるんです
みたいですねえ、雨音君とのことですか?
先輩も、関係あります
大きな問題のようですねえ
どうしてわかるんですか?
雨音君も、ってことは、他の人も関係しているんでしょう。複雑、ですね
そうなんです……友達に話したら、悩みすぎだって言われて
それでも悩んでしまうんですね。
よっぽど大切なことなんですね
確信をつかない話に、それでも先生は優しく相づちをうってくれる。
困りました
私も、困ってました
ふいと顔をあげると、先生は歯を見せて笑ったあと、ひとつの絵を差し出してきた。
……わ
それは、真っ青な、空の絵だった。
雲ひとつない空を見上げる男性と女性が、絵の右端で手を広げている。
後ろ姿だったから、表情は見えないけれど、笑っているのだろうと思った。
幸せな絵だった。
綺麗な青……すごい
新しい絵です。いい青色の絵が描けました
蒼さんに、あげるんですか?
違いますよ。晴華さんに、と思って
びっくりして、えっ、と変な声がもれる。
先生は笑って、あなたにですよ、とうなずいた。
困っていた私を、助けてくれたお礼です。
川越さんの今の悩みは、詳しく話せないようなことなのかもしれません。
だから、具体的なアドバイスはできませんけれど、ひとつだけ確実なのは、私はあなたの味方だということです
……先生
先生は、窓の外を見上げて、微笑んだ。
青い空が、遠くまで澄みわたっている。
なんて、幸せなことだろう。
ありがとうございます、と私は頭を下げた。
こちらこそ、と先生は、少し照れたようにはにかんだ。
ん、にゃあー
先生の猫が、嬉しそうにのどをならした。
放課後、屋上に行くと、昂太郎君がフェンスによりかかって空を見上げていた。
私を見るなり、子犬のような笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。
川越せんぱぁい! 会えてよかった!
心配してたんですよ、元気ないって、舞が言ってたので
呼び捨てなんだ……
………………
硬直する昂太郎君。かわいい。
……幸谷先輩は、一緒じゃないんですか
提出物提出してから来るって。
すぐに来ると思うよ
そっすか、と微笑む昂太郎君は、ひとつ学年が下なだけなのに、とても幼く見えて、やっぱりかわいい。
あと、私はそれなりに元気だよ
にゃん
嘘だって。ばればれですにゃあ
昂太郎君の猫はそう言って首をかしげたけれど、昂太郎君は笑顔のまま、よかったとつぶやくだけだった。
幸谷先輩と話すと、川越先輩のことばっかですよ。妬いちゃうぐらい
そんなに?
そうっすよ。川越先輩のいろんなこと、知ってますよ
にや、と笑う昂太郎君。
うう、何を知られているんだ。
それと、光先輩も、川越先輩のことばっかりです
光先輩も?
超にゃいんしますからね、俺ら。
妬きますよ、川越先輩
仲良しだなあ! 知らなかった
夢みたいですよ
昂太郎君は、くしゃりと笑った。
数週間前まで、こんなこと、想像もしてませんでした。
全部、川越先輩のおかげです
何なの急に
前ふりです。川越先輩には感謝してるんですよってことを伝えて、そして、せめてものお礼で
今度は、にやりと笑う昂太郎君。
少しだけ、舞に似ていた。
先輩が、会いたいそうですよ
……へ?
ふっふっふ、と昂太郎君は笑って、携帯を取りだし、読み上げた。
今風邪引いてて学校休んでるんだ。
晴華に会いたいんだけど、会いたいっていうの、うざいかな? だそうです
……先輩が?
はい
にやにやと昂太郎君は笑っている。
私も、思わず笑ってしまう。
いい情報でしょう?
昂太郎君、舞に似てきてる気がする
ほんとっすか! わーい!
ナイス情報ありがとう。
先輩のとこ、行ってくる
きびすを返した私の背中に、先輩、と昂太郎君の声があたる。
本当に感謝してます!
私はくるんと回って、にやりと笑ってみせる。
私もだよ!
マジすかあ!
やったー! と叫ぶ昂太郎君の声を背中に、私は走る。
走って、走って、先輩の家について、息を整えて、インターホンを押す。
インターホンから、先輩のお母さんの声がする。
今寝てるの。疲れているみたいで。
寝かせといてあげたいんだけど、それでもよければそばにいてあげて。
さっきまでの、跳ねるような気分はどこにいったんだろう。
汗をかきながら眠る先輩の側に座って、私は、自分の能天気さを痛感する。
この前の先輩は、体調が悪いのを、私に秘密にしていたんだ。
元気なふりだった。
本当は、私が思うよりずっと、疲れていた。
にゃあ……
先輩の枕元でまるまっているレインに、クロニャがすりよった。
その姿を見て、私は、だめだよね、とつぶやいていた。
だめだよ。
だめだ。
大切な人を苦しめてまで、私は自分の信念を貫くことができない。
私は、お母さんの気持ちが、わからない。
先輩。ありがとう。
嬉しかった。
お母さんに会えて、とっても嬉しかった
でも、私のせいで、先輩がこんなに苦しいのは、嫌だ
そんな幸せ、幸せじゃない。
先輩も私も、幸せがいい
私は、先輩のそばを離れたくない。
それでも、家族が一緒が、いい。
それで、お母さんもお父さんも、いつも元気であってほしい。
わがままかもしれない。不可能かもしれない。
わかってもらうのは、とても難しいことかもしれない。
それでも、それが、私の気持ちだ。
私の、正直な気持ちで、悩みの答えだ。
お母さん
私は、それを伝えるんだ。
それが、私にできること。