37│私は私がわからない

お母さんは、わかった? と言いたげな顔をした。
どうして、少し嬉しそうなんだろう。

お母さん

お父さんにね、話したのよ、猫見のこと。

お父さんは信じてくれて、私が望むならって言ってくれたわ。
お父さんって、本当に優しい人よね

病弱な父を思い出す。

いつも穏やかで、にこにこしている父は、時々体を壊して寝ていた。


私が心配するたびに、すぐに治るから、大丈夫、疲れているだけだから、と言っていた。


幼いころのなんでもない記憶が、頭の中に、全く違った景色となって写し出される。


先輩に、私は何て家族の紹介をしたっけ。

母はさとい人で、父は少し病弱で。




すべてーー猫見が関係していた、なんて。

母は猫見を持っていて、父は母の疲労を肩代わりしていた。

川越 晴華

だから、お父さんはよく寝込んでたんだね……

お母さん

私の疲れを全部背負ってもらってたわけじゃ、もちろんないのよ? でも、たまにね……

弁解を始めるお母さんの目を、私はまっすぐに見られなかった。


それって、正しいことなのかな。
でも、人助けは正しいことだと、思うし。でも。


記憶の洪水の中で、私の心がばらばらになっていくようだった。

お母さん

話を戻すわね。

……お父さんは、その代わり条件があるって言ったの。晴華が大人になるまでは、晴華のそばにいようって。

私はもちろんそうするつもりって答えた。
晴華に迷惑をかけるわけには、いかないものね

迷惑、か。

私は、何も言えない。
思い出していたのは、あの日の置き手紙だった。

お母さん

晴華が卒業する前の日、私は、晴華に言ったの。晴華は大人になったわねって。

晴華は、笑顔でうん、ってうなずいてくれた。

覚えてる? その子も……クロニャも、元気にないたの、私は覚えてるわ

そんな話、したっけな、と思う。

きっとお母さんは、私がもう大人になったって思いたくて、確認したくて、そんな質問をしたのだろう。

でも、私は覚えていない。
たぶん、普段の会話の中に、うまく、うまくその話は埋め込まれていた。

私はきっと、大人になったねと誉められて、ただ嬉しかったはずだ。


それ以上も、以下もない。


特別なことではなくて、忘れてしまっている。

でも、お母さんにとってそのときの私の返事は、とても大切なものだったことは、よくわかった。


だから。

お母さん

だから、家を出たの。

でも、ごめんなさい……あまりに、急だったわよね

川越 晴華

……そう、だったんだ。
そっか……うん、そうだね、急だね

お母さん

怒っても、仕方がないと思ってる……私、わくわくしすぎちゃって、急ぎすぎたわ……

川越 晴華

うーん、怒っては、ないよ

怒りはなかった。
悲しみもなかった。


あったのは、不安と、うろたえと、混乱、そういった、わかりづらいものだった。


ただ、確実なのは、私はお母さんのことを理解したいという思いがあることだった。

川越 晴華

ちょっと、考えてみる。
部屋に戻るね

お母さん

晴華

私は、一人で考えたかった。

川越 晴華

お母さん

立ち上がって、微笑む。

川越 晴華

大好きだよ

私は、お母さんもお父さんも、大好きなんだ。
たとえ、何をされたとしても、嫌いになれない。

怒れたら、嫌いになれたら楽だと思った。

部屋に戻って、ドアを後ろ手に閉めて、ふう、とひとつ、息をつく。

ふわりと疑問が浮かんできて、私は静かに問いかける。

川越 晴華

ねえ、クロニャ。クロニャは、お母さんが猫見をずっと前から持っていたこと、知ってた?

クロニャ

いいえ

私の足元で即答したクロニャは、私の前に移動した。

私の目をまっすぐ見て、もう一度首を横にふる。

クロニャ

いいえ。信じてもらえますか

ふと、クロニャの言っていることが本当かどうか、知るすべはないな、と思った。


いつのまにか、私は猫を見て人の心を覗き見ることに、慣れてしまっていることに気がつく。


お母さんも、きっとそうだったのだろう。
でも、それだけじゃだめなのだ、と漠然と思う。


それじゃ、だめだ。
だって、私は寂しかった。


お母さんが、クロニャを見て、私はもう大丈夫だと確信を得たように、未来まで決めちゃうのは……正しいことかな。

川越 晴華

……頭の中、ぐちゃぐちゃ

私の言葉は、返事になっていない。

クロニャが不安そうな顔をしたので、私はあわてて、その場に座る。

川越 晴華

クロニャのこと、信じるに決まってるよ

クロニャが、大きな目に涙をためて、よかったとつぶやいた。

クロニャ

彼女が……ユウヒにゃんが人間の言葉を話すのを、私は初めて聞きました。

学校で、晴華にゃんが猫に囲まれたことがあるように、猫見を持っていることがわかると、猫はその人によっていくことがあります。

晴華にゃんのお母さんは、それを避けるために、普段から人前ではユウヒにゃんと会話をしないようにしていたのかもしれません……たとえ、家族の前であっても

川越 晴華

徹底してるね、お母さんらしい

はあ、とためいきをつく。

難しい。答えは、出ない。

晴華

母に会えました。

本当に、本当にありがとうございます。
びっくりしました。

たくさん話をしました、詳しいことは、今度会えたときに話しますね。


早く元気になってくださいね。

雨音光

会えたんだね! よかった。

俺は、明日も大事をとって学校を休むよ。
明後日には行けるかな。

今度、ゆっくり聞かせてね。
いつでもうちに来ていいし、電話もしていいからね。

おやすみ。

ーー先輩に心配をかけることはできない。

そう思った私は、昨日の夜、先輩から連絡が来る前に、にゃいんで連絡をしておいた。

すぐに返ってきた先輩からの返事を読みつつ、私は長いためいきをつく。

幸谷 舞

う、わ、おはよ。
晴華の周りに雨雲がたちこめているようだ……

川越 晴華

おはよ、詩的なまいまい

幸谷 舞

わかりやすく落ち込んでる……いや、悩んでる?

川越 晴華

正解、エスパーまいまい

幸谷 舞

だてに友達してないからね。
どしたの

川越 晴華

人の心、自分の心がわかりませぬ

私の言葉に、舞は間髪いれずに吹き出した。

川越 晴華

よりによって、笑う!

幸谷 舞

いや、哲学してる人がいるなって……くく

川越 晴華

本気なのに!

幸谷 舞

わかってるよ。

あのねえ、晴華、普通だよ。
たとえ人の心がわかるようになっても、人の心はわからないよ

川越 晴華

……何を言っているかわかりません

ふむ、と舞はうなずき、眼鏡をくいとあげる。

幸谷 舞

持論を披露して差し上げよう。

いいかね、例えば、私が今、本当は怒っていたとする。

それを私は必死に隠しているけれど、晴華にはそれがわかってしまう超能力があるとする

クロニャ

本当にエスパーかもしれませんにゃあ

エスパーまいまいの言葉にひやひやしながら、私はうん、と首をたてにふる。

幸谷 舞

晴華は、私が怒ってることはわかる。

理由もわかる超能力だとしよう。

そうだな……昂太郎とけんかしたから、私は怒っている。
内容も詳細までわかるとする

幸谷 舞

でも、やっぱりわからないことがある。
それは、どうして私がそのことで怒るのか、ということ

川越 晴華

……ほう

幸谷 舞

私が怒っている本当の理由は、私にしかわからないの、つまりは

川越 晴華

私がどんなに想像しても、どれだけ舞の気持ちに寄り添うことが、できても

幸谷 舞

そう。晴華はどんなに頑張っても、私にはなれないから、私をすべて理解することは無理

幸谷 舞

ちなみに、私はそもそも私がよくわからないことなんてしょっちゅう。

晴華が私に、光先輩のことを秘密にしていたときも、心のどこかで思ってたの。

どうして私はこんなにむきになってるの? って。

でも、抑えられない怒りがあった……いいですか、晴華さん

舞は、優しく微笑む。

幸谷 舞

悩みすぎですよ。

人の心も、自分の心も、わからなくていいのです。
それが普通なのですよ

川越 晴華

……昂太郎君は素晴らしい人を彼女にしたよねえ

幸谷 舞

何よ急に!

舞は頬を真っ赤にして、もう、と私の頭をぽんと叩いた。

幸谷 舞

晴華はいつでも考えすぎ! だと私は思ってる

舞が笑う。何かあったらいつでも言うのよ、という舞の姿がにじんで見えて、私はあわてて目をそらした。

わからなくていいんだ、と思う。


お母さん。
私はわからない。
お父さんが倒れちゃうまでして、人を助けることは正しいのかな。
私が悲しい思いをしてまで、人を助けることは正しいのかな。

私が悲しかったて、知ってるかな。
少しでも、わかってくれているかな。
それでも私が、お母さんのこともお父さんのことも大好きだって、知ってるかな。


いろいろ、聞こう。まずは、話そう。
そう思って、家の扉を、開けて。

お母さん

おかえり、晴華! 
あのね、いいこと思いついたの

お母さんは、私のぐちゃぐちゃな脳内を、さらにかき混ぜる。

お母さん

一緒に暮らさない? 猫見のことを知ってるなら、そうすればいいって、思ったの

私は、泣きそうになる。
どうして、どうして。

どうして、嬉しいと思うの。 

私は、私がわからない。

pagetop