39│これからも

お母さん

おかえり、晴華

川越 晴華

……ただいま

お母さんは、困ったように笑って、私の頭をなでる。

お母さん

晴華……決めてくれた?

私がついていくのを信じて疑わないような口調だったけれど、私は、揺るがない。

川越 晴華

考えたんだけど……私は

小さく、息を吸う。

川越 晴華

私は、ここに残る

お母さんは、わかりやすくショックを受けた表情を浮かべた。

ユウヒ

何で?

ユウヒが、言ったあとに慌てて口で手を押さえた。
お母さんの本心、かもしれない。

ゆっくり話し合いましょうと、お母さんは笑って、まずはお茶でも、と家の中にひっこんでしまった。

私はゆっくりと居間に移動し、畳に足を投げ出した。

クロニャ

話せば、いいですにゃ

クロニャは自分に言い聞かせるようにそう言って、私の隣に丸まった。

ありがとう、と私がクロニャをなでていると、お母さんがお茶とお菓子を持ってきた。

はい、と置かれたお茶に口をつける。おいしい。

お母さん

……晴華は、一緒に来てくれないのね

ひどい言い方をする、と思った。
私が悪い、みたいな。

でも、と一瞬だけ沸き上がった怒りを飲み込む。

川越 晴華

お母さんは、一緒にいてくれないの

言葉遊びのようだった。
お母さんは苦笑して、首をかしげる。

お母さん

一緒にいたいよ、もちろん。
だから、一緒に来ないかって……誘ったのよ

平行線をたどりそうな会話を、私はすぐに断ち切る。

川越 晴華

お父さんに無理させてまで、人助けをするっていうのは、間違ってると思う

ユウヒ

そんな言い方!

怒鳴ったのはユウヒだった。
お母さんはそっとユウヒを手で制して、続けて、と優しく言う。

川越 晴華

お母さん、私はね……私のせいで、大切な人を苦しめた……今も、苦しんでる

私は先輩の部屋に一時間ほどいたけれど、結局先輩が目を覚ますことはなかった。

ぬぐってもぬぐっても、汗が額をおおいつくし、時々うなされているように苦しそうな表情を浮かべる先輩を思い出す。

それだけで、目の前が歪んだ。

川越 晴華

その人は優しいから、私のために自分が勝手にしたことだからいいんだよって、言うと思う。

お父さんも、きっとそうなんだと思う。でも、それは、変だよ。

それに慣れちゃってるんだよ、お母さんとお父さんは……そんなの

川越 晴華

そんなの、おかしいよ。

大切な人を苦しめる人助けなんて……

おいてけぼりの私が、脳裏に浮かぶ。

そうか。
私は、ただ、苦しかったんだ。


一人ぼっちが、苦しかった。

お母さん

……晴華の考えはわかったわ

ユウヒ

わけわかんないけれど

お母さん

ユウヒ、そうじゃないの

お母さんは、寂しそうに笑った。
そんな表情をさせてしまったのは、私だ。

お母さんについていくよ! と言える子だったら、と思う。
でも、それは私ではない。

お母さん

そうじゃ、ないのよ

お母さんは自分に言い聞かせるように言うと、小さく笑った。

お母さん

…私は、晴華の考えを理解することができるわ。

でも、私はずっと、この能力を手に入れてからずっと、少しぐらい苦しくても我慢して、それでも人の役に立ちたいって、純粋に思ってたのよ……それは、わかってほしいって思うの……でも、自分勝手よね

川越 晴華

ううん、お母さん

私は、机の上におかれていたお母さんの手に、自分の手をそっと重ねた。

川越 晴華

自分勝手でもいい。
私は、お母さんとたくさん話がしたい

一人ぼっちが苦しかったのは、いろんなことを、訊けなかったからだ。

川越 晴華

猫を見て……クロニャを見て、何でもわかったように思うのは、違うでしょ、お母さん。

いくら猫が正直でも、全部全部わかりたかったら、やっぱり、話さないといけないと思う

お母さん

晴華……

川越 晴華

たくさん話そうよ。
たくさん、話し合おう? 

お母さんの気持ち、お父さんの考え……私は、知りたいんだよ

いつのまにか、お母さんは私の手を握っていた。

川越 晴華

お母さんに、知ってほしいんだよ、私の考え、私の生活、私の……細かなことも、全部、全部

川越 晴華

話せなくて……苦しかった……!

お母さん

晴華、ごめん

お母さんが、私を優しく、抱きしめる。

お母さん

そうね……話しましょう、たくさん

うう、と泣きながら、私は何度もうなずいた。

次の日、朝早くにお母さんは出ていった。
朝ご飯を食べて、また来るわ、と言って。

ユウヒ

ねえ

去り際に、ユウヒが振り返り、突然話始めた。

まるで、ずっと言うことを決めていたかのように、その口調ははっきりとして、滑らかなものだった。

ユウヒ

私の名前は、ユウヒ。
あなたの名前は、晴華。

あなたのお母さんがね、この名前をくれた日に言った言葉、私、忘れられないの

お母さん

ちょっと、ユウヒ!

ユウヒ

晴れた日にしか、ユウヒは見られないでしょう。だから、ユウヒって。

そのとき私、ああ、晴華のこと、本当に好きなのねって思ったわ

それだけよ、と言ってユウヒは去っていく。

恥ずかしそうにもう、と呟くお母さんは、困ったように笑って、私に小さく手をふる。

川越 晴華

いってらっしゃい!

私は、お母さんが見えなくなるまで、何度も何度も、手をふった。

雨音 光

そっか……よかった

三日後、屋上で先輩にすべてを話すと、先輩は一言そう言って、いつもみたいに微笑んだ。

川越 晴華

はい。会えて本当によかったです。

わかりあえないこともあるかもしれないですけど……でも、とことんまでお話ししようって約束ができただけで、すごい進歩です!

雨音 光

うん、そう思う

川越 晴華

……でも、先輩! 
もうあんな無茶は、絶対に、絶対に! 
しないでくださいね!

私が詰め寄ると、先輩はわかった、わかったと苦笑した。

元気そうで何よりだ。
私はほっとため息をついて、空を見上げる。


きれいな夕日が、広い空を染めている。

川越 晴華

いい天気ですよねえ

雨音 光

そうだねえ

川越 晴華

……先輩と会えて、本当によかった

雨音 光

えっ、何、急に……!

思ったことを口にしただけだったけれど、先輩の反応が面白くて、思わずにやりと笑ってしまう。

雨音 光

……お、俺もだけど

川越 晴華

……!

ずるいー! 

川越 晴華

やっぱり先輩は、ずるい!

私は駆け出す。
あの日みたいに、フェンスに飛びつく。

雨音 光

ちょっと晴華! 危ないって

川越 晴華

大丈夫です、よっ……

タイミングを見計らったように、あの日みたいな強い風が吹いて、私はまた、ぐらつく。

川越 晴華

おわっ!?

雨音 光

わっ、もう!

優しく腕をひっぱられる。

いたずら心が芽生えた私は、そのまま後ろに倒れかかる。

雨音 光

晴華!

先輩が、優しく受け止めてくれる。

川越 晴華

ふふ、ふふふ

雨音 光

……何笑ってるの

川越 晴華

満足です

雨音 光

もう

先輩は私の肩をつかんで、ぐるん、と私を先輩の方に向ける。

雨音 光

晴華も、危ないことはしないって……

雨音 光

約束……して……

先輩の頬が、みるみる赤くなっていって、見てるこっちまで照れてしまう。

川越 晴華

……近いなって思いましたけど、赤面するのはずるいです

レイン

ひゅーひゅー

雨音 光

レイン、茶化すな!

レイン

光、まどろっこしいんだもん。
おい、クロニャ

先輩の肩から飛び降りたレインは、私の肩に乗っているクロニャを見上げた。

レイン

向こう行こう

クロニャ

今、いいところにゃのに?

川越 晴華

クロニャー!

レイン

おいで

優しい声に、私はきょとんとしてしまう。
肩の上で、クロニャが硬直したのがわかる。

レイン

聞こえなかったの? 
三日ぶりに会えて、僕も嬉しいんだけど? 
二人きりになりたいんだけど?

クロニャ

うおあーーー! 
すにゃお! 
きもちわるい! 
すにゃお!

言いながら、クロニャは私の肩から飛び降りる。

レイン

やっぱりお前はお子ちゃま

クロニャ

うるさい、キザレイン

レイン

はあ? 
あれのどこがキザなんだよ!

クロニャ

無自覚キザ、かっこつけ

レイン

ん、だ、とおー!

川越 晴華

……そして二人はどこかに消えていくのでした……

雨音 光

二人っきりのときって、どんな話してるんだろうね

先輩の声が、頭のすぐ上からふってきて、びっくりする。

あと数センチで、抱きしめられる距離にいる。
先輩の手は、私の両腕を優しくつかんでいる。

川越 晴華

近い近い近い近い近い!

雨音 光

……今日、昴太郎君は屋上に行かないっスーって言ってた

川越 晴華

……舞も、部活だからーって

雨音 光

あ、そうか、二人は同じ部活だもんね……

こつん、と私の肩に先輩が顎をのせる。
でも、先輩の手は、まだ私の腕をつかんでいるだけ。

川越 晴華

……先輩?

雨音 光

晴華、俺のこと好き?

川越 晴華

えっ!? はい、はい好きですが!

どうしたの、先輩ー!

雨音 光

……俺も好き

川越 晴華

……ありがとうございます

ばっと先輩が勢いよく私から離れる。

川越 晴華

わっ!

雨音 光

ごめん、なんかごめん! 
なんか……時々、心配になる

先輩が、口もとを手で押さえて、目をそらす。

雨音 光

晴華が幸谷さんに言われたこと……人の気持ちを、完全に理解することはできないって

雨音 光

それ、俺も考えるんだ。
猫見を持ってから、なおさら。
気持ちが見えているはずなのに、出てくる問題はわからないことばかりで……

雨音 光

時々、ふっと、晴華は俺のこと好きかな、とか、俺の気持ち、伝わってるかなとか、不安になるんだ……さっきの、それが漏れた。忘れて

川越 晴華

わ、わ、わ

川越 晴華

忘れられるかー!

今度は、私がずい、と先輩に歩みよる。
先輩は、大きな目をさらに大きくして、じっと私を見つめてくる。

川越 晴華

不安をなくすには、信じるしかないんです!

雨音 光

……信じる?

川越 晴華

そうです! 
私は、お母さんが戻ってくるか、本当はすごく心配です! 
でも、信じてるんです。それと同じです!

川越 晴華

先輩は、私のこと、信じて大丈夫ですよ! 
私は、先輩のこと、すっごく、すっごく、大好きです、から! 大切ですから!

雨音 光

あははは

川越 晴華

何で笑うー!

雨音 光

いや、ははは

先輩は笑いながら、私の頬に片手を伸ばす。

反射で固まる私のことをからかうように、ほっぺをつねられる。

川越 晴華

な、なんですかあー!

雨音 光

晴華らしいなと思って

両手で頬を挟まれて、両頬をつねられる。
されるがまま。

川越 晴華

うー……

雨音 光

うー

先輩が私の頬で遊んでいらっしゃる。
先輩が楽しいならいいや、と思っている、と。

雨音 光

晴華

先輩が私の頬をつねるのを、やめる。

雨音 光

好きだよ

私の目をまっすぐ見て、先輩が、言う。

雨音 光

晴華も、信じてね

川越 晴華

……はい、もちろん信じ……

言い終わる、前だった。

先輩の唇が、優しく、私の唇を塞ぐ。




心臓が、びっくりして跳びはねる。
それでも、嬉しくて、私はぎゅっと目をつむる。

何秒たっただろう。先輩がそっと、唇を離した。

川越 晴華

……

雨音 光

……

じっと見つめると、先輩は困ったように一度目をそらして、そのあと、ちらっと私に視線をやって、くしゃりと笑った。

私は嬉しくて、先輩に手を伸ばす。

川越 晴華

これからもよろしくお願いします、光先輩!

雨音 光

こちらこそよろしくね、晴華

屋上で、先輩とキスをしたこと。


クロニャには秘密にしておこうかな、なんて頭の隅で考えながら、私は先輩に抱きついた。

黒猫☆シークレット おわり

最終話│これからも

facebook twitter
pagetop