36│凪と夕日

川越 晴華

……久しぶり

ぐるん、と感情が一回転する。

嬉しい? 悲しい? 腹立たしい? 

お母さん

晴華……!

屈託のない笑顔で、お母さんは私に歩みよりーーぎゅっと私を抱きしめた。

お母さん

元気してた?

川越 晴華

……まあ、まあ、だけど……どうしたの、突然

お母さんは、私から静かに離れると、困ったような笑顔を浮かべた。

お母さん

あのね、信じてくれないかもしれないけれど……白い猫がね、私の前に現れて言ったの。やっと見つけた、戻ってきて、晴華が待ってるって……

クロニャ

レインですにゃあ

こそこそ、とクロニャが耳元でつぶやく。

川越 晴華

……それで戻ってきてくれたの

お母さん

そう。晴華が待ってるってことは、晴華が私に話したいことがあるのよねって思って

にゃあ

お母さんの足元にいた猫に、私は思わず目をやりそうになった。


さっき、ちらっとだけ視界の隅に入った――オッドアイの黒猫。

クロニャ

心配だ、ですって

川越 晴華

……そう、だね

混乱する。話したいことがあるはずなのに、言葉がうまく出てこない。

わからないこと、だらけだ。

お母さん

話をしましょう

こくん、と私はうなずく。


家に、一人きりじゃない。


それは確かに嬉しい、と感じながら。

お母さん

……晴華が私に話したいことがあるかもしれない、って考えたときに、真っ先に浮かんだのは、疑問があるのよね、ってことだったの

居間に、お母さんと二人で座る。

とても久しぶりで、これだけで涙が出そうになる。

お母さんが淹れてくれたお茶が、こんなに美味しいと思ったのも、初めてだった。

お母さん

それか……怒ってるか

お母さんが、探るように私を見つめる。

私は、うーん、と肩をすくめる。

川越 晴華

怒っているっていうより、悲しかったし……そうだね、たくさん訊きたいこともあるよ。
お父さんは、元気? とか……

お母さんの表情を見て、胃の辺りがきゅんと痛む。

お母さんは、寂しそうな表情を浮かべたのだ。

川越 晴華

……元気じゃ、ないの?

お母さん

お父さんね、今は少し休んでる……たくさん働いて、今は休憩中なの

体が強くなかったお父さんを思い出す。

思わず、身を乗り出して訊いていた。

川越 晴華

そんな、大丈夫なの?

お母さん

すぐによくなるよ。

いつも元気なんだけど、今日はちょっとね……元気だったら、連れてきたかったんだけど。

また、今度ね

にゃん、にゃあー

クロニャ

すぐに元気になるよ、いつも通り……だそうですけど、心配ですにゃあ

心配だけれど、お母さんの言葉は、お母さんの猫を見てもわかる通り、本心からなのだろう。

川越 晴華

会いたい、な

お母さん

うん、伝えておく

本当は今すぐにでも会いたいのに、と思ったけれど、なぜだか言葉にできなかった。


だって、わからないから。何もかも。

それこそ、お父さんが私と会いたいのかどうかさえも。

川越 晴華

お母さん、私、よくわからないの

お母さん

よくわからない?

川越 晴華

そう……急だったから、出てっちゃったところから、全部

そっか、とお母さんは苦笑する。

お母さん

ごめん、そうだよね。

お母さんってば、思い立ったらバカみたいにまっすぐ行動しちゃう

ふ、と思わず苦笑してしまう。
猪突猛進、親子だ。

お母さん

しっかりした説明は必要よね……話すわ

お母さんは、優しく笑う。

お母さん

私はね、人助けがしたかったの

川越 晴華

人助け?

思いがけない言葉に、目をまるくしてしまう。

お母さん

そう。晴華が大きくなって、もう一人で暮らせるようになった、と思ったから……もう大丈夫ってところまで、育てたって思ったの。

だからね、お父さんと二人で外に出て、いろんな人達を助けたいって思ったのよ

川越 晴華

……助けられた?

私の声が小さかったからだろう、お母さんは、ん? と首をかしげる。


笑いがこぼれた。
人助けをしたかった、なんて、どこまで私達は似ているのだろう。

川越 晴華

助けられた? たくさんの人

お母さんは、目を大きく開けて微笑んだ。

お母さん

ええ、たっくさん。
その度に、私は幸せだった

川越 晴華

……うん、わかるよ。誰かに必要とされてるって、思うもんね

お母さん

そう、そうなのよ。

わかってくれて嬉しいわ……晴華も、誰かを助けたの

私は今まで、猫見を使って誰かを助けられたのだろうか。
正直わからないけれど、少しだけ、いい方向に行くための手伝いをできた人なら、たくさんいる。


まなと君、舞、牧野先生、昂太郎君――そして、たぶん、先輩も。


たくさんの人の顔を思い浮かべて、私はあることに気がついた。

川越 晴華

少しだけ助けて……たくさん、助けられた気がする

わかるわ、とお母さんはうなずいた。

お母さん

人を助けるのって、実は難しいのよね。

助けられたのかどうかもわからない。

でも、その人達に、私は確実に、たくさん助けられている

うん、うん、とうなずく私に、お母さんはねえ、と微笑む。




微笑んで、とんでもないことを、言った。

お母さん

晴華、あなたも、猫見を使って人を助けたのよね?

本当にビックリすると、人は言葉を失うみたいだ。


口をぽかんと開けて、ぱくぱくさせていると、お母さんはふふ、と笑った。

はあ、やっと言うのね

知らない声に、ぎょっとする。
私のそばに座っていたクロニャが、にゃん、と跳ねた。


声の主は、お母さんの猫だった。

ずーっと普通の猫のふり、たーいへんだったわよ

お母さんの猫は、うーんと前にかがんでのびをする。

お母さんが、ごめんね、と猫をなでる。

川越 晴華

……え、っと

お母さん

驚くよね、ごめんね。私も驚いた。
晴華の猫が話していたから

川越 晴華

……クロニャって、いうの。この子

お母さん

そう、素敵な名前ね。
私の猫はユウヒ

ユウヒ

よろしく、って今さらいうのも変な感じだけどね

川越 晴華

……そう、ですね

ユウヒ

もう、晴華、驚いちゃってるじゃない。

レイナは、もっと最初から説明するべきよ。
お父さんのことも含めて、全部

レイナ、というお母さんの名前の漢字を思い出す。


鈴に、凪で、鈴凪。

川越 晴華

凪は風だから……天気に関わる言葉だから、お母さんも猫見の条件をクリアしてたんだ

冷静に考えられているのは、驚きすぎているからだろう。

だって、信じられない。

お母さん

そうね、そうよね……もう、何年も前のことになる

お母さんは、私の知らない過去のことを、話始めた。

お母さん

ひょんなことからね、猫見の能力を一時的に使えるようにしてもらったことがあったの。

晴華も、その能力は一時的に借りている物でしょう? 

お母さんも、その予定だったんだけど……この子、特別だったのよ。
珍しい能力を持ってるみたいで

ユウヒ

簡単に言うと、私が望む限りは、ずっとあなたのお母さんは猫見を使える状態にしておける能力があったのよ

お母さん

すごいでしょう?

お母さん

猫見を人助けに使えるってわかっていた私にとって、この事実はとんでもなく嬉しいことだったわ。

やった、これで人助けがずっとできるわ、ってね

ユウヒ

ただ、私をずっと見ておける状態にしておくっていうのは、鈴凪にとってものすごく負担が大きなことだったの。

わかりやすく言えば、すぐに疲れがたまって、へたすると倒れちゃう。

だから私は、すぐに鈴凪に提案したの。
私は見えなくなった方がいいわよねって。

そしたらこの人、何て言ったと思う?

お母さん

せっかく人助けをすることができる能力を手に入れたのに、そんなの嫌、って言ったのよ。

晴華、私の気持ち、わかるでしょう?

聞き入っていた私は、突如質問されて、思わずくちごもってしまった。

川越 晴華

あっ、えっと……そうだね、うん。

急にクロニャがいなくなるのは、寂しいし

お母さん

そうよね、そうなの。

だから、私はユウヒに訊いたの。
どうにかならないかって。

そしたら、ひとつだけ方法があるって言うの。

晴華、知ってる?

川越 晴華

……ううん

お母さんは、目を輝かせて言った。

お母さん

私にたまるはずの疲れを、誰かに肩代わりしてもらうの

川越 晴華

え……

私の脳内で、パズルがカチッとはまったような気がした。

川越 晴華

それって……!

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