どのくらい経ったのだろう、やっとの事で手足に力が戻って来た。
 我ながら情けない。

……っ

 本当にゆっくりと、イライラするほどの速度で音や視力も戻ってくる。

 開けた目の前がまだ暗い。

 というより何かで塞がれているようだった。

……落ち着いたか

 ふっと息を吐く音が、やけに至近距離で聞こえる。

 おそるおそる音の方へ顔を上げると、意外なほどに優しげな目が見えた。

 髪の色も、顔も、先ほどまで不機嫌にこちらを睨みつけていたはずの男のものだ。

 いまは、僅かに笑みを浮かべたまま僕を見下ろしていた。

あ、の……

 喉に詰まる声のままに口を開けると、嫌な感触がした。思わず自分の口元を拭うと、僅かに酸い匂いがして吐き気がこみ上げる。

 意思とは裏腹に喉が鳴る。

吐いちまえ。
その方が楽になるだろ。

 そうはいってもどうしたら良いのか、口を押さえて困惑していると、その手を押さえられて変わりに先ほどまでの黒を前にさせられる。

 滲んだ視界に入り込むのは、見慣れた素材の布だ。

 制服に違いない。

 僕は制服の上着を来ていなかったのだから、これは

で、でも

もう、さっき少し吐いてっからな、お前。
今更気にするな

 さっと、血の気が引いた。

 確かに口の中に吐いたような痕跡がある。

 僕はこの男の制服を駄目にしたのだろう。申し訳ないと思った瞬間、堪えきれずに胃が震えた。

 背中を軽くさすられる。

 吐ききって、ふっと力が抜けそうになるが、僕の体は反対に持ち上げられた。

 男が僕の肩を押さえてくれたのだ。

 だいぶ気分は良くなった。

ご、ごめん

ま、過呼吸は仕方ないだろ。
真奈美もよく起こすんだよ
慣れっこってやつだ。
気にするとまた発作起こすぞ

 真奈美という人は誰なのだろう。

 だが、男は僕が顔を上げたときには、厳しい顔で廊下の方を見ていた。

 上着は予想通り脱いでいる。僕の足元に転がっている汚れた上着が彼の物なのだろう。

制服、ごめん。
あの……君、の名前を教えてほしい。
クリーニングとか、買い直したりとかするから
その方が、僕の気が、済むんだ。

 男はちらりと僕の方を見て、僅かに口角を上げた。

上着なんて、別に要らねえよ。
俺、3年だからな。
適当に過ごすさ

でも

ま、どっちにしろ、この変な状況から脱出するのが先だ。
……とはいえ名前は必要か。
俺は安藤。友人らは「チカ」って呼ぶ

チカ?

チカ先輩、だろ。二年坊主。
同じ学年に弟がいるんだよ。11ヶ月違いの。
だから皆名前で呼ぶんだ。
俺は「宗近(むねちか)」っていうから、チカ。

チカ、先輩。

そうそう。
お前は五十嵐、だっけ?

 僕は小さく頷いた。
 そして、無意識に「でも」と口に出してしまった。

なんだ?

 僕はかつての名前の事を話そうとしているのに気がついていた。


 この男に話す必要等無いのに。


 思いがけず親切にしてくれたからだろうか。



 言う必要の無い言葉を紡ぎそうになった、その時だった。









 どこか遠くから、悲鳴が聞こえた。











 空気を切り裂くような悲壮な悲鳴は、まさに断末魔のそれだった。






pagetop