玄関をくぐると、そこにあるはずのみんなの靴が一つもなかった。ただ、靴箱の上で行儀正しく口を閉じたチェリーが、優しい表情で私を見ていた。

私はチェリーの前に、持ち帰った赤と銀のリードを置いた。

ゆうちゃーん。チェリーのお墓庭に作ったよー。みんな揃ってるから早くおいで!

しばらく顔を見ていると、私を呼ぶ声が響いた。私は大きく返事をして、庭に向けて駆けてゆく。

チェリーが道に迷わないように、お墓はここだけにしたから。きっとここから見守ってくれてるよ

庭に着くとマミがそう言って微笑んだ。かっちゃんも母も弟もユキもカレンもそこにいた。そこにいて、みんな口を開けて笑っていた。

チェリーともう散歩はできなくなったけれど、それでもチェリーは私たちの心の中に居続ける。

ほら、みんな手を合わせて

マミとかっちゃんが同時に言う。私たちは手を合わせ、そして静かに目を閉じた。

どれくらい時間が経っただろう。私が目を開くと、少し盛り上がった庭の土の周りを、ユキとカレンがゆっくりと回っていた。

声を抑え、静かに鼻を啜る音が聞こえる。それが誰のものか分からないまま、ユキとカレンの鳴き声にうもれ消えて行った。

ワンワンワン!!

やがて、二匹の鳴き声はどんどん大きくなり、回る速度は増していった。それを見たみんなの口は自然と大きく開き、そこから笑い声が響いた。

ユキもカレンも動きを止め、私たちと同じように口を大きく開け吠えた。玄関で私を迎えてくれたチェリーも、今だけは大きく口を開けているだろう。

クスッ

小さく笑い、私は誰にも聞こえないように囁いた。

ごめんねマミ。嘘なんか付かせて

そして私は、庭の外へと駆けて行った。

     

私がこの出来事を忘れることはないだろう。今でも目を閉じるとその光景が浮かんでくる。

チェリーがいなくなって今年で五年目だ。ユキとカレンは今でも元気一杯だ。散歩する時もリードを引っ張ってなかなか帰ろうとしない。

マミは栄養士の資格を取った。かっちゃんは新しい車を買っていた。私も大学生になり、充実した生活を送っている。

それでも私たちの関係は変わっていない。回数こそ減ったが、お互いの都合が合えば、山口に赴きあの庭のお墓に行っている。

赤と銀のリードは、今も靴箱の上でチェリーの隣に置かれている。
そして、ヒナ。彼女とはもう連絡をとっていない。高校卒業前に会ったのを最後に、彼女は山口を離れ一人旅立った。

なんでも、獣医になる為に専門学校へ行き学ぶのだそうだ。

だけどまだ、私たちは繋がっている。あの場所の、牛乳ビンに入った小さな青い花を通して、私たちはまだ繋がっているのだ。

あの日。チェリーが病院に運ばれた日、発見してくれた人の話しによると、チェリーはベンチの前に眠るように横たわっていたらしい。

初めは何とも思わなかったが、三十分後同じ場所に戻ると全く同じ格好だったことに気付き、気になって駆け寄ったそうだ。

そこは、チェリーが最後にいた場所は、ヒナが私にあだ名をくれたあの場所だった。そして、チェリーが途中で立ち寄った公園でリードを見つけたのはヒナだった。

体調が悪くなってずっといけなかったあの公園に、最後にもう一度だけ行きたかったのだ。

ゆっくん!

一人チェリーのことを思い返していると、不意に私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

ゆっくりと後ろを振り返る。

しかしそこには、写真のようにどこも変わらない、いつもの風景が広がっているだけだった。視線を元に戻す。

どこにでもある、雨で少し汚れた木のベンチ。その下。そこに一本の牛乳ビンが置かれている。

牛乳ビンには、大きくチェリーという文字。差し込んである小さな青い花は、まだ新しくつい最近取り替えられたものだった。

きっと、彼女がここへやってきて、チェリーに会っていったのだ。

チェリー、久し振り。見てよほら。俺、大学生になったんだ!

摘んで来た小さな青い花を牛乳ビンに差し込み、私はそう呟いた。

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