パリの雑踏の中、雨あがりの虹のようにふと現れた日本人の少女は鈴花と名乗った。
パリの雑踏の中、雨あがりの虹のようにふと現れた日本人の少女は鈴花と名乗った。
あ、えっと、スズカちゃん? は、はじめまして。わたしはアリシア・バレ
ふふっ、よろしくお願いしますね
きっと自分より少し幼いだろうスズカちゃんはどこか大人びていて、いきなり腰を折って挨拶をした。そこまで折って大丈夫なのかしら、と目を白黒させているとスズカちゃんは栗色の瞳を細めた。
これは『おじぎ』というのです。
日本では挨拶をする時、こうやって腰を折って相手に敬意を表すのです
へ、へぇ……なんてご丁寧な
ころころと上品に笑うスズカちゃんは、本当に不思議な人物だ。
言葉を紡ぐと、まるで春風のように暖かく周りの空気を包み込む。
身長は自分より10㎝は小さいであろう彼女は、細くて小柄なのにしっかりと佇んでいてすごいと思った。
えっと、どこへ行こうとしていたの?
2本の尖塔をもつ建物――トロカデロ宮、といいましたっけ。
そこで大切な人を待たせているのです
先程まで洗練された静かな表情を浮かべていた彼女だが、少し頬に桃色の花を咲かせる。いくら鈍いわたしでも、その人にどういう気持ちを抱いているのか察してしまった。
そう……! なら、行きましょう
と手をとると、スズカちゃんは天女のように美しい衣服(キモノ、というらしい)の裾をそっと上げて必死についてきた。
あ、ありがとうございます
道中、スズカちゃんは広いパリを眺めながら、
何もかもが大きい……凄いですね
と感嘆の声をあげていた。日本はそもそも、背の高い建物が少ないらしく、こうやって人間を飲み込むような雰囲気ではないらしい。
でも――
ふと立ち止まったスズカちゃんに、わたしも立ち止まって振り返る。スズカちゃんは鼻を手で隠して顔をしかめていた。
異様だわ
え?
なんなのでしょう、この腐臭は。
それに、地の底から舞い上がる禍々しい気……
スズカちゃんはキョロキョロと視線を巡らせた後、わたしをじっと見てきた。先程まで優しげに細められていた黒目がちの目が大きく見開かれていて、小さな赤い唇は少し開かれていてぼそぼそとなにか呟いている。
そして、時が止まる。
周りが、歩く人びとが文字通り動かなくなったのだ。わたしとスズカちゃんだけが色彩が残っていて、周りは絵の具の灰色をこぼしたように色彩を奪われている。
ふふっ……どうやら巴里は死をないがしろにしてきた街のようね。私の予感は正しかったわ
あ、あの、スズカちゃ……
なぁに?
袖で口元を隠すスズカちゃんは、先ほどの春風のような声色ではなく、極寒の雪風のような声で応えた。ゾクリと臓の底まで冷え込む。
あ、あなた――何者?
その問いかけに、スズカちゃんは首を傾げてコロコロと笑い、帯に差していた扇子を取り出した。手首を上下に振って優雅に扇子を開くと、その場で一回転した。
私は、こういう者よ
彼女が舞った瞬間、不気味に止まっていた人たちは色彩を取り戻し、再び慌ただしく動き出した。時がまた思い出したように動き出したのだ。息がつまっていたわたしは、ハッと息を吐き出した。
初対面のあなたにはまだ話せないけど、見たままの者よ
それだけ言って、トロカデロ宮に着くまではお互いがだんまりであった。まるで互いが探りあいをしているような目で見合っていた。わたしは冷や汗を垂らしながら、余裕げに微笑むスズカちゃんを盗み見ていた。
目的地に到着すると、ちょうど大ホールからスズカちゃんと似た格好をした男性が出てきたところだった。すっとした顔立ちが涼しげで、これまた神秘的な雰囲気の男性だ。遠くからぼうっと魅入っていると、横から風が過ぎ去った。そう、スズカちゃんだ。
カランカランと慌ただしくゲタという履物を鳴らし、両手を広げている。仲睦まじい光景に思わず目を細めて見ていると、
え?
スルリ。
スズカちゃんがその男性をすり抜けた。そう、きっと抱きしめようとしていたはずなのに、文字通りに。
そう……
スズカちゃんはしばらく俯いていたが、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
私、人間じゃないの
4時44分。セレナーデの鍵で扉を開け、深い穴へ落ちていく。ボスンと雲のような絨毯に落ちると、見覚えのあるメンツが輪になって話しているところであった。
あ、お嬢さん。いらっしゃい。どうぞ御手を
オズウェルさん……! あ、ありがとうございます
おいオズウェルの野郎! そこかわれ! おーう、アリシア~今日も可愛いなぁ
オズウェルさんにお姫様のような扱いを受けていると、スケルさんがガチャンガチャンと骨を揺らしながら駆け寄ってきた。今にもはずれそうで怖いのは秘密だ。
あれ? アベルはまだ来ていないんですか?
周りを見わたせども、アベルの姿は見えない。本棚にかかる梯子、螺旋状につけられた階段、ベルベッド調のソファ。アベルの特等席に彼の姿はなかった。
そーう、まだ来てないんだぜ!
アベルにしては珍しいよな
応えたのはエリオさんだった。エリオさんは図書館の二階にイーゼルを立てて絵を描いている。
あー、違う!
と言いながら苛立たしげに紙を破ってスケルさん目掛けてそれを投げた。
おい、エリオの野郎め! 俺はゴミ箱じゃな……
って、これアリシアの絵? ほぉっ、再現度たけぇじゃないか!
これは有り難くもらうぜ。ありがとう、エリオ
ちらっと盗み見ると、先程わたしが穴から落ちてきて雲の絨毯に落ちて座り込んでいる姿を絵にされていたみたいだ。走り描きにしても上手すぎる。あ、そういう問題ではない!
え、エリオさん。わたしを絵にするのはやめてください……!
え~? いいだろ別にぃ!
芸術家は湧き上がる欲望のまま筆を走らせるのさ!
――ところでアベルはどこにいるんだ?
さぁ? と皆して首を傾げる。
どうやら皆はわたしと合流して来ると思ったらしい。いつもなら誰よりも早く図書館へ来て、澄ました顔で本を読んでいるアベルが物珍しい。
あ、もしかして――
オズウェルさんが思い出したように声を上げると、すぐさま黒猫の姿に变化した。相変わらず毛並みの良い可愛い猫だ。オズウェルさんは雲の絨毯をかき分けると、その下に出てきた立方体の床をちょいっと指した。図書館に落ちてくる際、抜けた床である。
心当たりがあるんだ。あいつは野放図に見えて、意外と繊細だからね。憂う時は決まった場所にいることが多いんだよ。
取りあえず地上に出よう、お嬢さん
え、あ、はい
エリオ、そこのギアを回してくれないかい? 床を上げたい
ちぇっ、しっかたないなー! 今度シャンパン奢れよ~?
エリオさんは筆を投げると、二階の壁に立てつけられていたギアの取っ手を握り、思いきりそれを回し始めた。
カラカラと、ギアに繋がった仕掛けが動きだす。すると埋まっていた立方体の床が徐々に上がっていった。
ほらほら二人とも乗ってしまえー! きちんと取っ手に掴まってろよ!
子どものように愉しげに回すエリオさんが声を弾ませてそう言うので、慌てて乗って浮き上がっているドアノブ部分を掴まった。猫の姿のオズウェルを抱き上げて。
一気にふり上がるぜ。良い船旅を!
振り落とされるんじゃねぇぞ。
誰も助けねぇからな!
その言葉を皮切りに、ギアにたまった動力が弾けた。一気にガラガラと上がり始める床に目眩を覚えた。
ひぃぃぃ!!
何回やっても、これは慣れない。思いきり目を瞑って、無事に地上へ上がることを祈った。
アベルはパサージュのガラス屋根に登り、物憂い顔でパリを見渡していた。パリ万博が近づいているせいか、通りや家から三色旗が高々と掲げられている。
腰掛けて地平線に姿を消しゆく夕陽を見守る。何度目の夕陽を見てきただろう。街を燃やしつくしそうな夕陽はまるでリヴァイアサンのようで、早くその忌々しい姿を消してしまえとアベルは毒づく。
それにしても、すっかり芸術とモードの都になっちまったな
髪をかき上げながら脳裏に染み付くセピア色の風景を思い出す。指からするすると落ちていく前髪を眺めつつアンニュイな気持ちに浸っていると、背後からガタッと音がした。
アベルは振り返らずとも、そこから発せられる小鳥のような足音で誰か分かってしまった。
なんで今更ここに来てんだ……セレスティーヌ
足音はピタリと止まる。
ここが救いの場所だから。
あなたとの思い出をたくさん、ここに置き忘れてきたからよ
セレスティーヌは涙をこらえながらそう言った。アベルはそれでも振り返らなかった。そんなアベルの冷酷な態度に、押し殺していた感情を吐露し出す。
アベル、覚えてる? 私がオペラ女優を目指してた時、よくここであなたと歌の練習をしたわ。でしょう?
セレスティーヌは手を伸ばし、座っていたアベルの背後から抱きついた。久しぶりに感じる感触に、セレスティーヌは胸が疼いた。色んな男に抱かれようとも、彼女はアベルを忘れることができなかったのだ。
ああ、そうだワルツも! あなたは嫌そうな顔をしながらも、一緒に踊ってくれたわ。それに――
過去は過去だ。それがなんだっていうんだ?
やっと振り返ったアベルが、刺々しくそう言い捨てた。セレスティーヌはヒュッと息を呑む。
アベルの美しい顔には感情という感情を全て捨て去った表情しかなかったのだ。ちっとも底意が見えない。
少しでもその顔が悲嘆に染まっていたらと願っていた彼女にとっては、ショックが大きいことだろう。
アベルは彼女を突き飛ばしてゆっくり立ち上がる。
俺はもうお前にはうんざりしているんだ。今日ここに来た理由を教えてやろうか?
お前との記憶を永遠に葬るためだ
そ、そんな……ッ
酷いって? そう言うんだろ?
いつもお前はそう被害者ぶるよなぁ。
お前、セレナーデから姿を消す前、自分が言った言葉を覚えてるか?
【私はね、お月様のように光り輝く存在になるの! もう私の人生は約束されたも同然よ。あなたたちとは住む世界が違ったのね】
そう言ったんだ。覚えていないとは言わせないぜ。
ああ、別にお前のその考えは間違っていないさ。
そう、そのまま返してやる。俺らとお前は、住む世界がもう違うんだ。だからもうこちらに干渉してくるな。
――アリシアにもな
その言葉に、セレスティーヌは火がついたように顔を真っ赤にさせた。激昂した彼女は掠れきった大声を振り絞り、怒りに身を任せた。
アリシア――あの娘が私の居場所を取って代わったのね!
それだけじゃない、あなたをも変えてしまった……!
アベル、あなたはあの娘に心を動かされたって、そう言うの?
アベルは一瞬目を見開かせた。そして率直な意見を言葉にした。
さぁ、わかんねーな
……!
ね、ねぇアベル、覚えてるでしょ?
貴方、私と出逢った時こう言ってたわよね。
【他人への配慮を前提とした友愛・隣人愛・憐憫といった観念は、まったく空疎で無意味な偽善なんだ。セレスティーヌ、俺はこれから何があろうとも、お前にそういった想いを抱きはしない】
――ってね。まさにサド伯爵さながらの僻言(ひがごと)よね。
じゃあ、あの娘に抱いてる想いはなんなのよ!
と言いながら、セレスティーヌは手首につくった十字架の傷をかきむしった。我が身を犠牲にしても振り向いてくれない眼の前の人物が、心の底から憎くて愛しくてたまらないのだ。
傷から血がタラタラとつたい落ちても、アベルは表情を変えずそれを見つめている。
涙で潤んだ瞳をアベルに向け、セレスティーヌは胸に納めきれなかった言葉を――アベルにとっては最上級の呪いの言葉を吐いた。
あなたはいつも冷血で誰も愛さないって分かってた……けど、私はこんなにも愛してるのに!
ゾクリ。
アベルは少し口を開いて呆然としたが、次の瞬間親の敵を討つような目でセレスティーヌを睨んだ。
貴様……この機に及んでまだ俺を呪うつもりか
凄みを利かせた声に気圧されたセレスティーヌだが、構わずアベルに近づこうとした。
アベルはにじり寄っていた彼女の肩を思いきり押し返した。ぐらり、と彼女の体が後ろに傾く。
あ……!
彼女の体が、ドーム状になったガラス窓に叩きつけられる。強い衝撃を受けた古いガラス窓に、雲の巣のような傷がピシリと入る。
アベルは眼球が飛び出るほど見開かせ、肩を上下させた。反射的に、彼女へ手を伸ばす。
おい! 何してる、掴まれ!
その様子を見たセレスティーヌはそれだけで満足したような表情を浮かべた。
手を伸ばそうとしない彼女にアベルは何度も声をかけるが、セレスティーヌは首を左右に振る。
アベル、もういいの。
ごめんなさい、こんな残酷なことを考えてる。
わたしがここから落ちて死んだら、あなたの心をずっと支配できるのかなって……
涙が一筋頬につたった直後、セレスティーヌは右手を振り上げた。
ごめんなさい……でも……貴方の心も、バラバラに砕けてしまえばいいのに……!
亀裂の入ったガラス屋根に拳を落とすと、ガラスが弾けた。水たまりに跳ね返る水飛沫のようにガラスの破片がキラキラと飛び散る。
セレスティーヌ!!
身を乗り出して手を伸ばすアベルだが、その手は空を切った。