この日僕はチェリーもユキもカレンも連れず、一人でいつもの公園にいた。

それは、僕たちが親戚の家に到着したのが太陽が沈み始めた頃で、三匹の犬の散歩が既に終わっていたからだ。

私、実は休みの日なんかは、一日に何度もこの公園に来てるんだよ

 いつのことか彼女にそう聞いていたので、気になって行ってみたのだった。

 二十分が経っていた。

三十分くらいで帰る

 家を出る前に僕はみんなに時間を伝えていたので、そろそろ帰路に着くべき時間だった。

 僕はもう一度ぐるりと公園内を見回し、彼女どころか他に誰一人としてここにはいないことを確認する。 

 そしてさらにもう一度、今度は反対周りに首を回し、ゆっくりと公園全体を隅々まで見回す。

いない、か

 小さく短い息を吐くと、僕は重い腰を上げた。

 帰り道では何度も後ろを振り返り、公園が見えなくなるまで繰り返した。
 

 家に着いたのはちょうど家を出て三十分程経った頃だった。

ただいま

 大きな声で言いながらリビングに行くと、僕の母とマミが二人で夕食の支度をしていた。ちなみにかっちゃんは仕事からまだ帰っておらず、弟は部屋の片付けを、父にいたってはそもそもここに来ていない。

今もまだ大分の仕事場で頑張ってくれていることだろう。僕だけ休んでいるのも気が引ける。

何かすることないの?

 そう聞くと、その言葉にマミは手を止め、赤と銀のリードを取りに行く。

ならチェリーの散歩をお願いしていい? 今日はまだ朝に一回しか行ってないんやけど、今はちょっと元気みたいなんよ

 そのまま取ってきたリードを僕に手渡した。

いいよ。じゃあ行ってくる

 そのリードを受け取り僕はそそくさとチェリーのもとへ向かった。抵抗のない首に赤い輪をしっかりと固定し、チェリーとともに外の世界へ飛び出した

 僕が握っていた銀の取手は、少しだけ冷たかった。
  

 

 散歩するルートは既に僕の中で決まっていた。あの公園を折り返し地点としてぐるっと回るコースだ。

 ユキとカレンはこのルートでは歩き足りないが、少し大人なチェリーにはその距離がちょうど合っていた。そのためチェリーとの散歩では公園の中での休憩はない。

 もし公園に彼女がいたとしても、いつもの椅子に腰掛け笑い合う時間はない。もし顔を合わせたとしても、手を振って、少し笑って、それだけなのだ。

 だから僕は、さっきまで私が座っていた場所に佇む人影に気づくことなく、前だけを向いて道を折り返した。

 日はほとんどが山の向こうへと消えていた。遠くに見える山の淵をなぞるように、白く淡いオレンジ色のモヤがかかっている以外は、空の色は既に夜の到来を示していた。

 家を出て四十分は経っているはずなのに、僕とチェリーはまだ家と公園の中間辺りにいた。

 本来は二十分程で家に帰り着くのだが、チェリーが急に道に生えている草を食べようとし、それを僕が止めて、という壮絶な闘いを繰り広げている間に、二人とも疲れてしまって近くの椅子に腰掛けたからだ。

 その後何度かリードを引っ張って帰ろうとしたのだが、チェリーは断固としてその場を動こうとはしなかった。

はあぁ~

 僕は諦め俯いて、そっと息を吐いた。
 

おーい、チェリー。早く帰らないとみんな心配するぞ~

 当時僕は携帯電話を持っていなかったので、家にいる者への連絡手段はなかった。さすがに二十分以上経っても僕たちが帰って来ないとなれば心配もするだろう。

怒られるのは僕なんだろうな~。はあー。誰か助けてくれよ~

 何故そんな言葉を呟いたのかは自分でも分からなかった。隣でくつろいでいるのはチェリーだったのに。

 だから、その言葉はただ夜の暗闇に吸い込まれていくだけなのに。

こちら真美。夜道に不審者を発見しました!

 
 僕はその声を聞いた。ただ虚しく夜の闇に溶けていくはずだった僕の言葉を、声の主は拾い上げてくれた。

 僕はゆっくりと顔を上げて、そして目の前に彼女の姿を見つける。彼女は笑っていた。

 その時の僕に彼女が何を想っているのかなんて想像もできなかったが、彼女は柔らかに微笑んでいた。

 その笑顔に引き寄せられるように、今まで全く動こうとしなかったチェリーの体が、ゆっくりと彼女の元へ近づいて行く。

 僕はそれを不思議に思ったかもしれない。彼女に嫉妬していたかもしれない。

 だけど、私の記憶にはたった一つ、ヒナの笑顔しか残らなかった。
 

ヒナ……

 僕の口からするりとその名前が流れ出ていた。

ワンッ!

 隣でチェリーが一度吠えた。その鳴き声で我に返った僕は、次に紡ぐべき言葉を失っていた。

 そんな僕を見て、彼女はクスクスと笑って言ったのだ。
 

ゆっくん!

 初めは何のことだかさっぱり分からなかった。だからきっと、その時の僕はおかしな顔をしていたことだろう。

 彼女が僕の反応を見て声を上げて笑ったのだから間違いない。

 言葉を失ったままの僕に、彼女は続けて言った。

あだ名だよあだ名。前に素敵なあだ名を付けてくれたでしょ? だから今度は私が君にあだ名をあげるの。さっきあの公園で思い付いたんだ

 思い返して見れば、僕が彼女に『ヒナ』という名前を上げた後で、

次は私の番

 と呟いていたような気がする。さっき一人で公園にいたのも、あだ名を考えていたらしかった。きっと、必死に考えていたのだろう。

 僕があの公園を通ったことに気が付かなかったのも、つまりはそういうことなのだろう。

 僕はゆっくりと立ち上がった。

素敵なあだ名をありがとう

 言った後、僕はチェリーを繋いでいるリードを握り、そっと彼女へ差し出した。

帰ろうか、ヒナ

 僕たちは、チェリーを連れて同じ方へ歩みを進めた。二人で握った銀の取手は、ほんのりと温かかった。

 次の日も、その次の日も。僕と彼女はチェリーを連れて多くの時間をともにした。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。

そういえば、先日ある番組で私の住んでいた大分県民は『かぼす』、一方で徳島では『すだち』という呼び方にプライドを持っているという特集がありました。

確かに大分県民でもある私も『かぼす』と言っていましたが、そもそもかぼすとすだちは別物だと思っていました。

皆さんや、その地域の方たちは『かぼす』派ですか?
それとも『すだち』派ですか?

それでは、今回はこの辺りで失礼します。

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