その日も沙希と帰った。

トンボを見かけるようになったね

あぁ、そういえばそうだな


今の季節。蝉の声が遠のき、外を歩けば沙希の言うとおり。視界の隅に常にトンボがいる。

あ、そうだかずくん。トンボってどういう字書くか覚えてる?

え?えっと確か虫編に青みたいなのじゃなかったっけ?

そうそう、蜻蛉。虫に青みたいのに虫に命令の令。って書いてトンボ。
だけどさ、古文でならった蜻蛉日記って覚えてる?浮気ばっかりの貴族の奥さんになった人が結婚生活への愚痴を書き連ねた日記。
あれカゲロウニッキって読むよね。
でも漢字をよく見るとトンボニッキとしか読めないの。知ってた?

え、嘘。あれ?


ちょうどこの前の授業でやったばかりだった字面を思い浮かべる。

そして頭のなかで二つの漢字を書いて比べてみる。確かに、その通りだ。

でも、かげろうってこんな漢字だっけ?なんか違和感が。

疑問が顔に出たのか、沙希がくすっと笑って種明かしするように説明を続ける。

実はね、昔の日本ではトンボとかげろうをごっちゃにして扱ってたらしいよ

え、何そのアバウト

そうそう、超アバウトなの。
それで同じ漢字使って表記してたから、日本書紀とかに蜻蛉って書かれても今の学者さん達にはそれが実際はトンボを意図したのかかげろうを意図したのか区別がつかないんだって

へー、でも思ったんだけど。かげろうって別の漢字が無かったっけ?

おぉ、かずくん良く覚えてる。
蜉蝣。虫に浮くの右半分に虫に遊ぶのしんにょうに乗っかってるやつ。
現代はこれで表記して、トンボとの重複を避けてるね。
これがだいたい江戸時代以降に始めた書き分けみたい

よくそんなの知ってるな

実は昨日、偶然テレビで見ただけなんだ。

でも私が言いたいのはね。
そこまで混同されてた二つの生き物がさ、今ではまったく違う印象を持たれてるってちょっと驚きじゃない?
トンボは日本書紀の頃からの縁起のいい虫ってイメージを残して。
かげろうはひたすらに儚い、すぐに死んじゃうってイメージが残っちゃったんだ。
当時の人達からしてみたら、虫そのものが変わった感覚はまったくないのに、驚いただろうね。
急にこれとこれは実は違うものだったんですって決められてさ

なるほどなぁ、沙希はそう考えるのか

うん。でももちろん、それが本質なんだよ?
つまりね、トンボは害虫を食べるから好まれたし、かげろうは口が未発達でものを食べられず卵を産むと餓死してしまう。
それはそれぞれの本当の姿で。だから本当はイメージが正しく定着したって言えるかな。

でもね、やっぱり周りからしてみたら戸惑うんだよ、きっと


最後、沙希は悲しそうに言った。

今までの明るかった口調が嘘みたいに。

まるで沙希自身がそんな戸惑いを覚えたことがあるように。

かずくん、最近変わったよね?

……え?


唐突だった。いや、唐突ではない。きっと。沙希の中では。

もしかしたらかずくんは変わってないつもりなのかもしれない。
けどやっぱり驚くんだ。戸惑うんだ。

見え方が違っただけなんだとしても、かずくんが以前と違って見えたら。
どうしたらいいかわからなくて泣きそうなほど悲しくなるんだ。

ねぇかずくん


沙希は困ったように笑いかけながら尋ねた。

それがかずくんの本質だったのかな?

……


俺は言葉を返すことができなかった。

なにか返さないと。笑い飛ばして、悟られてしまってはいけないのに。泣かせてしまってはいけないのに。

沈黙しか返せない。足もいつの間にか止まっていた。

数歩先を歩んでしまった彼女が振り返る。

そっか


ぜんぶ知ったような。知った上で知らないままにするような。

そんな底抜けの笑顔だった。

好きな女の子を悲しませた罪悪感。

それもあるけど。同時に腹立たしくすらある。何故ならそれは沙希は俺に踏み込んでこないということだから。

俺に踏み込まずに、幼なじみという関係に甘んじることを選んだということだから。

『俺』じゃない『俺』を選ばれた。

だけど、苛立ちを悲しみとともに押し隠す。

それは結局のところ。日常という仮面劇の延長。それが崩壊しなかったというだけの事実。

何かを悟りながら、何かががらがらと崩れ去るのを横目に。

俺は言葉を選び歩き出す。

早く帰らないと夜になっちまう

もうそろそろ秋分だしね


そう言って沙希は、俺に背を向けゆっくりと歩き始めた。

すぐに俺が追いつき、並ぶ。見せかけの隣人。

あっという間に一週間ってすぎるね

そう、か?

ほら、夏休み明けだし最初の一週間だったけど、思ったよりツラくなかったなって


話が簡単に切り替えられる。

なら心もきっと簡単に。切り替えられるはず。

いやそれは沙希には学校の授業が大変じゃないからだよ


俺は違うから。そう言い聞かせる。

えー私も結構頑張ってるのに

頑張るのと苦痛に思うのは違うだろ


俺は沙希とは違うから。

そうだけどさ~


俺は沙希の頭をくしゃくしゃと撫でた。

沙希が頑張ってるのは知ってるよ

えへ、へ


笑ってみせてくれた顔が泣き顔に見えた。幼なじみ同士のお決まりのコント。

俺は救世主だから。

沙希とは違う道を行く決心をしたから。

もう二度と、きっと同じ夢を一緒に見ることすら叶わないから。

ずっと隣にいることはできなくなったから。

わかってた。わかってる。

それでも、それでも。言い聞かせなきゃやってられなかった。

大丈夫、いつも通り。

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