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 期待と絶望は背中合わせで、どちらにも転じやすい。ということは今までの経験から分かっていたはずなのに、こんなにもどん底に突き落とされるとは思ってもみなかった。


 こちらの心の揺動(ようどう)に気づいているのか、いないのか。アベルは澄ました顔で言葉を紡いでいく。

アベル

愛の言葉ほど胡散臭くて罪深い言葉はない。

まあ、そもそもお前にとって俺はただの動く奇怪な人形で、俺にとってお前は都合の良い人間にすぎないだろうがな。

つまり、恋愛ごっこはすまいということだ

アリシア・バレ

じ、じゃあさ。恋愛をさらに上回る感情を抱いたとしたら? もしそうなったら、どうすればよいの?

アベル

そんなもの、ない。一時的にあったとしても、ただの幻想にすぎないんだよ、アリシア。

フーリエのいうところの『移り気情念』のある人間に、そんな崇高なものは宿らない

 こういう時、決まってアベルは諦観した表情で”C'est la vie.(セラヴィ)”<これが人生さ>と言う。
 フランス人特有の『セラヴィ精神』をこんな時に使うなんて、あまりにも卑屈で、酷薄ではなかろうか。



 はなから人間を信頼していないアベルの、頑なな態度。それでいてシビアに語るその姿勢。
 アベルはよく道化師のような話し方をするが、言っている言葉は大抵本質をついていたり、真面目な話をするものだからわたしはそのギャップに惑わされるばかりだ。

アリシア・バレ

でも、わたし。あのパサージュでアベルを見た瞬間からずっと、貴方のことばかり考えてるんです。

別に、貴方になにかをしてほしいわけではない。完璧を求めているわけでもない

 そう言いながら、アベルの右の眼孔の近くを手でなぞった。するとアベルは少し怯えたような表情でこちらを見てきた。

 そう、例えこの右目のドールアイがなくとも残念だとは思わない。そんな上辺だけの完璧さなんて関係ないのだ。

アリシア・バレ

あ、えっと。わたしは骨董屋の店主さんと約束せずとも、貴方を手放したくない、というか

アベル

…………

アリシア・バレ

なんて言えば、いいのかしら。

その、アベルの過去を全く知らないわたしが言っても説得力がないけど。理由は、わからないけども……。わたし、貴方のことしか見えていないんだと思います

アベル

やめてくれ、そういうの

アリシア・バレ

アベル?

 アベルの声は、珍しく震えていた。わたしの手を払いのけ、両手で顔を覆って、苛立たしげに前髪を引っ張っていた。

アベル

もう、見せかけの言葉で俺を操ろうとしないでくれ。
俺は十分傷ついたし、悟ったんだ。

どうせ人間は口先ではなんとでも言っても、心の奥底では完璧を求めてる。結局は自分に都合の良いものを求めてるんだよ

 そこまで言うと、アベルはギロリと疎ましげにこちらを睨みあげてきた。
 やはり、アベルは長い時の中で深く傷つく出来事があったんだ。

 「感情なんてない」と言いながら、やっぱり傷んでいるんじゃない。
 

 アベルは心の壁を隔てたまま、警戒したようにこちらを睨(ね)め続ける。しかしその怒りの矛先は、実はわたしではないのかもしれない。それこそアベルを傷つけた張本人への怒りが、宛もなくわたしへ向かっているだけなのだとしたら――なんて辛苦の様だろう。

アベル

俺はお前にとって、都合の良い存在にならないからな。アリシア

 物々しく地を這うような声でそう言われても、答えは揺るがない。

アリシア・バレ

べ、別に良いです

アベル

なぜ、なぜそう言い切れる?

アリシア・バレ

だ、だって。アベルだって、都合の悪いわたしのそばにいてくれてるじゃない、今

 奇を衒(てら)ったつもりはないのに、アベルは

アベル

は?

 と聞き返した。

アリシア・バレ

わ、わたし。器量も良くないし、性格もこんなだし、声は声量ないし。

いいところなんてこれっぽっちもないし、見向きもされない存在だった。なのに、アベルはきちんと向き合ってくれてる

アベル

はっ、気楽な考え方だなぁ。ただ利用するためだ

アリシア・バレ

り、利用するんだったら、もっと利用価値のある人間は山ほどいる……! 

そんな中でも、わたしと向き合って手を差し伸べてくれた。

わたしのこと、箒としてのバレ扱いではなく、なんだかんだで「アリシア・バレ」という人間として扱ってくれた

 家族でさえわたしの存在を疎んでいたというのに、アベルは真正面で向き合ってくれた。辛辣な言葉を投げかけつつも、希望の光があることを教えてくれたことには感謝してもしきれなかった。

アリシア・バレ

嬉しかったんです。わたしの湧き上がる感情を、喜びだと、憎しみだと認識してくれた。だから、貴方が人間だろうが人形だろうが、感謝してるんです

 一言一言感情をのせるようにゆっくり言葉を夜風にのせ、アベルの目を真っ直ぐ見た。

 アベルの心があるのだとしたら、きちんと気持ちが届いただろうか。アベルはあぐらをかいたまま背中を丸めて、口元を引きつらせた。

アベル

……本当に都合の悪い人間だよ、お前は

アリシア・バレ

し、知ってます

アベル

目を輝かせて自信満々に言うなよ……。お前、ネガティブに見えて実はポジティブだな

アリシア・バレ

こ、告白の約束は、守ります。で、でも、その分貴方にお返ししますから

 拳を握りしめながらそう宣言してみたが、アベルは小馬鹿にしたように腕を組み、忌々しげに吐き捨てた。

アベル

なにをお返しする気かわからないが、絶対無理だ。16年しか生きてねぇ小娘が、革命前より存在してる俺に何かできると思ってんのか?

 また時間の差を持ち出す。こう言われてしまうと、やはり返す言葉が見つからない。わたしはなんでこう頭が回らず、不器用なのだろうか。

ベル・デスタン

で? わたくしのもとへ来たのは、そんなアベルに少しでも歯向かいたいから、と?

アリシア・バレ

さ、さようでございます

 とある春風と花の香を運んでくる、日差しの良い昼下がり。

 ベルさんの家の近くにあるパリ16区に位置するブローニュの森で話をすることになった。

 静寂に包まれた深緑の木々と、少し淀んだ湖の周りを歩く。ちょうど良いところに木のベンチがあり、ベルさんと二人でそこへ腰掛けた。

ベル・デスタン

ぷっ! 『復讐しない?』って誘った張本人に、生ぬるいお願い事をするとはねぇ

アリシア・バレ

す、すみません。その、復讐は無理ですけど……少し、対等な目線になりたくて。

それにほら、上流階級の人ってエスプリ(上品なジョーク)がお上手ですし。わ、わたし、ちょっとした駆け引きすらできなくて、惨めで

 うう、恥ずかしい。エプロンドレスをぎゅっと握りしめ、葉の擦れる音に気を寄せて羞恥心を紛らわせていると、ベルさんは凛とした瞳でこちらを見た。

ベル・デスタン

アリシア。貴方はまずそういう自己憐憫をお止めになることから始めるべきよ

アリシア・バレ

じ、こ……れん、びん?

ベル・デスタン

ええ、そう。エスプリにせよ駆け引きにせよ、自分に自信がないとできないわよ

 するとベルさんはいきなり立ち上がり、扇子と手を広げて高らかに言い切った。

ベル・デスタン

こう思いなさい。『わたくしは何ものにも代えがたい宝石! 近海でとれる真珠でも、ありふれた鉱山でとれる水晶でもない』とね

 そんなこと、貴族で美人かつ頭の良いベルさんにしか合わない考え方だ。わたしには到底無理に等しい。言葉に詰まりながら湖を遠目に首を振った。

アリシア・バレ

そ、そそそんな価値なんてわたしに――

ベル・デスタン

ない、とおっしゃるの? 
いい? 自分の真価はまず自分が決める。

そう、あとは交渉のみなのよ。
貴方を低価格で買おうとするものはお願い下げすれば良いし、高価格で買おうとするものがいたらウィ(はい)と言えばよいの

 ベルさんは16区特有のアクセントで歌うように主張する。流石は貴族の多い16区、抑揚までもがわたしとかけ離れている。
 わたしは未だに、コルマールでのアルザス語混じりの発音だっていうのに。


 ちょうど背後で貴族の乗馬集団が優雅に走り去る。彼らも、ベルさんも、わたしとはもはや違う人間のように見えてきて、居心地が悪く思えた。


 ベンチの上で膝を抱えて丸まるわたしの背中に、ベルさんはそっと手を置いた。

ベル・デスタン

わたくしは、アリシアの真価を理解しているわ。

この流れるようなシルクの手触りのシルバーブロンドも、太陽が昇る直前の空のような瞳も、天使の歌声も。

あとあなた、着飾ったら絶対にマシになると思うわ

アリシア・バレ

そ、そんなそんな! わたしにはハードルが高すぎます

 絶対、憐憫の情で言ってるよ。どんどん気が落ちていくわたしを見て、ベルさんは

ベル・デスタン

いいこと思いついたわ!


 といきなり大きな声を発した。

アリシア・バレ

え?

ベル・デスタン

アリシア、貴方。明後日、ご予定はあいてるかしら?

アリシア・バレ

あいてますが。あ、の

ベル・デスタン

デスタン家の夜会へおいでなさい。ちなみにノンという返事は受け付けていないわ

 またもや拒否を許さないその気迫に呑まれ、わたしは歯をガチガチと震わせるほかなかった。

アリシア・バレ

ああああ大変なことになってしまったぁぁぁ……

 あのベルさんの誘い(半ば脅し)を突っぱねることができなかったことで、後悔の念に駆られる。

 小声でぶつぶつと不安な気持ちを吐き出しつつ、四つん這いの状態で雑巾で床を乱暴に拭く。すると突然足の指に痛みが走り、

アリシア・バレ

ひゃっ

 と言いながらその場で丸くなった。


 そろりと振り返ると、エリゼが仁王立ちでこちらを見下ろしていた。どうやら、エリゼがわたしの足の指を踏んだようだ。


 そうだった。今はエリゼとお母さんのいる部屋で掃除をしているんだった。つい場の状況を忘れて独り言を言っていた自分を思い出し、顔が熱くなる。

エリゼ・バレ

ちょっとあんた! ここ、埃がたまってるんだけど

 エリゼは足の先で床の隅を指すと、綺麗な顔をこれでもかというほどに歪めた。

アリシア・バレ

あ、あ、ごめんなさい

 か細い声で謝罪の言葉を口にしていると、エリゼの背後からお母さんがやってきた。
 お母さんはまるでわたしが視界に映っていないかのように、笑顔でこちらへ歩み寄る。華美なドレスを手にして。

エリゼ。夜会のドレスはこれでどうかしら

 エリゼはさっと表情を変えた。愛くるしいお人形も負けるほどのほほ笑みが瞬時に出来上がり、素直に凄いと思った。

エリゼ・バレ

わぁ……! とっても素敵

 本当に素敵……じゃない! 待って、さっき夜会と言った?

 どうしよう。まさかベルさんの家主催の夜会ではないよね。いや、夜会といっても数多くあるし、そんな被るはずがない。そう信じつつも、恐る恐るエリゼに尋ねた。

アリシア・バレ

え、あの。や、夜会、行かれるのですか?

 エリゼは微笑みを浮かべたまま、わたしにしか聞こえない小声で答えた。

エリゼ・バレ

そうだけど、なにか?

アリシア・バレ

い、いつ?

エリゼ・バレ

明後日。しかもあの大貴族、デスタン家の夜会よ。ふふん、羨ましいでしょう?

 やっぱりそうだったんだ……! 冷や汗が雑巾に一粒落ちる。
 そんなわたしにエリゼはしゃがみこみ、耳元でこう言った。

エリゼ・バレ

灰かぶりさぁん? あなたはもちろん、留守番よ。

いや、灰かぶりだったら舞踏会へ行くことになるから……ドブネズミさん

 もうドブネズミと言われようが埃だと言われようが、わたしは構わない気持ちだった。

 エリゼがいるならなおさら、行きたくない。もし夜会でエリゼと鉢合わせになったりしたらと想像しただけでも胃が痛くなる。



 その胃痛は、もちろん夜会当日まで続いたのは言うまでもない。


 お願い、お願い、来ませんように! 
 そう願いながら、ちらちらと窓の外を見ながら、それらしき馬車が通る際はさっと頭を引っ込めた。


 もちろん、今夜の夜会のことはアベルに伏せているため、アベルはいつもどおりセレナーデの図書館へ行ってしまって今はここ屋根裏部屋にいない。
 胃痛で動けないと言うと、運良くもこちらを疑わずばぁかと言いながら出ていってくれて本当に良かったものだ。



 日が沈み、一番星が瞬きはじめた。
 それに呼応して、周りに仲間の星がきらめき始める。

 ああ、星っていつでも綺麗で羨ましいわ……。現実逃避したいがために、星を賛美してみたが、やはり不安の渦は消え去らない。

――気まぐれそうなベルさんのことだ。あんなことを言っておきながら、夜会の忙しさでわたしのことを忘れてくれていることだろう。

 カラカラ……。


 エリゼとお母さんが家を出たちょうどその10分後くらいに、馬車の音が聞こえた。嫌な予感がして、さっと頭を伏せる。心臓あたりに手を置いて、動悸を沈めようとする。


 きっと大丈夫よ、アリシア。そう、このまま存在感を消して慎ましやかに部屋でじっとしていたら、どうにかなるに違いない。この時、初めて影が薄くて良かったと思えた。

ベル・デスタン

アリシアぁぁぁ!! 見てちょうだい、特注のかぼちゃの馬車よ!!

 前言撤回。どうにかなりそうなわけがなかった。
 甚だ近所迷惑としか思えない大声が窓を突き破って耳に届く。

アリシア・バレ

え、えええ……!?

 いや、その、派手すぎて、怖いです。という正直な感想を述べるほどの余裕はなく、こちらの屋根裏部屋へ繋がる階段を登る音が近くなる。

 もうこれは逃げられないと悟り、窓のイスパニア錠を開けて顔を出した。

アリシア・バレ

ベ、ベベベベルさん、ここここれはなんのつもりです!

ベル・デスタン

うふっ

 ベルさんは扇子で口元を隠しながらも、悪魔のように微笑んだ。

ベル・デスタン

サンドリヨン(灰かぶり)の気持ちを味わってもらおうと思ったの! 


その灰を被ったような髪も、今夜は空に瞬く銀河に。といったら失礼ね、銀雪を被ったと言ったほうが妥当ね。 


そしてその薄汚れたエプロンドレスも、眩いドレスに! 靴もそんな古いツギハギだらけのブーツからガラスの靴に!

 声高らかにそう言った後、屋根裏部屋の門扉から控えめなノック音が聞こえた。勢いよく開けると、そこには愉しそうなジョルジュさんが佇んでいた。

プロデューサーは安心と信頼のベルお嬢様です。さあ、バレ殿。安心して身を委ねてください

 これからここ――パリ5区にあるアパルトマンの屋根裏部屋にて、童話よりも酷いサンドリヨンが生まれようとしていた。

第16幕 銀雪を被ったサンドリヨン

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