僕は水実にお願いされて、直人様に残していただいた物をイメージし、カウンターの何もない空間に手をかざした。


 やがて、飲み物が入っている蓋のついたカップがカウンターの上に現れる。


 そのカップを見ながら、少女の身代わりとなった大岩直人様のことが脳裏に浮かんだ。



 僕はふと考える。



 人は死ねばそれで終わりだ。


 現世とは無縁の存在となるのに、なぜ自分が死んだ後のことまで考えるのだろうか。


 死ぬということは、この世との接点が切れるということだ。


 そんな世界に何かを残しても無意味ではないだろうか。


 例えば発明王エジソンは多大な功績を残し、死んだ後も称えられているが、それを彼が喜ぶことはできない。



 そう考えると生きていることそのものにも、意味なんてない気がしてくる。



 この疑問は身代わりになる全ての人を否定している。


 それは、バー・アルケスティスの存在意義も否定しているに他ならないのだが、それでも考えることを止められなかった。

水実

身代わりになる。
それは本能のようなものかもね

 水実が言いながら、僕が出したカップの蓋をゆっくりと開けた。


 カップの中から漂う酒気に、少しだけ脳を揺さぶられる。

水樹

それ、アルコール入ってるじゃないか。
飲んじゃ駄目だよ

水実

俗世のルールを持ち込んで、子供だから飲むなとでも?
匂いがきつくて飲む気にはなれないけど、そんなことを言われる筋合いはなくてよ

 水実が苛立たしげにそう言って、僕に人差し指を向けた。



 もっとも、僕も水実も見た目は子供なのだが、現世の単位で例えると、もはやお年寄りと言える年齢を疾うの昔に通り越しているのだ。



 だが水実の場合、問題はそこではない。

水樹

飲まないのなら、別にいいんだ

 僕がそう言うと、水実は少し不貞腐れた顔をした。

水実

これが彼の話に出てきたワンカップね。
こんなのが思い入れのある物だなんて、なんだか惨めだわ

水樹

まあ、それは直人様自身も認めてたけどね

 置き土産としてワンカップを出していただいた際、「こんなものしか思いつかなくて」と言って、直人様は笑っていた。


 縮こまって生きてきた人生の中で見つけた、些細な幸せだったのだろうか。


 そう考えると確かに惨めかもしれない。


 だが直人様の最後の笑顔には、それさえ受け入れた爽やかさがあった。

水樹

直人様の最後は、他者から見るとどうなんだろうね

水実

笑ってあの世へ行ったのだから、ハッピーエンドでいいんじゃない?
少なくとも彼と関わった私達が、そう思うことが大事なのだわ。
どうせ考えても正しい答えなんて出ないのだし、彼は少女の未来に希望を繋いだ……とでも思っておけば?

水樹

死んじゃう人間なのに未来を考えるなんて、ちょっと不思議だな

 そう言いながらも、それは生物が種を残すという行為に似ていると思った。


 自らの命が終わっても、次の世代が未来を担う。


 水実が本能と言ったのも、あながち間違いではない気がした。

水樹

つまり、身代わりになるってことは人の本能なんだね

水実

いつまでごちゃごちゃと面倒なこと考えてるんだか。
身代わりなんてなりたい人が勝手になっちゃえばいいのらわ

水樹

らわ?

 水実の目がいつの間にか据わっている。


 僕が考え事をしている間、少しだけ水実から目を離していた。


 その隙にというわけだ。

水樹

水実……飲んだね……

水実

飲んれません

水樹

嘘だね

水実

舐めたらけれす

 薄ら笑いを浮かべる水実の顔を見ながら、大きくため息をつき、やれやれと言わんばかりに顔を左右に振った。


 水実の場合、問題は年齢ではなく下戸だということだ。


 彼女は匂いを嗅いだだけでも軽く酔ってしまうのである。



 でもたまにはこうやって、少しくらいタガを外すくらいのことは許してやろう。


 バー・アルケスティスの特性上、お客様は全て重苦しい雰囲気に包まれている。


 よって、会話を楽しむのも難しいのだ。

水実

これ、美味しくない

 水実は顔を突っ伏しながら、片手で僕の所へワンカップをスライドさせると、すぐさま寝息を立てた。



 眠りについた水実の横顔を見ながら、僕らがまだ人間の世界で生きていた頃のことを思い返す。


 あれから長い年月が経って、今現在も時は流れ続けている。


 そんな時の中で誰かが生きて、そして死んだとしても、時の流れという大きな存在の前では、なんら意味をなさないちっぽけな事なのだ。



 僕と水実がこのバー・アルケスティスで案内人を続けている事も、このバーを訪れたお客様が身代わりになっていくのも結局は些細な出来事なのだ。



 だから、生きていくのが、死んだ後を考えるのが、身代わりになることが無意味だなんて思うこと自体がナンセンスかもしれない。



 ならばバー・アルケスティスの案内人として、ここを訪れるお客様が少しでも満足していただけるよう、最善を尽くせばいい。


 意味なんてない。


 ただそれが、このバーにいる僕が一番やりたいことだからだ。



 突然、またギイっという音が入口から響く。



 水実は今回は寝かせておくか。


 水実を見ながら僕は微笑み、その顔を保ったまま、バーの入口に向き直ると、僕はいつも通りお客様を出迎える。

水樹

いらっしゃいませ。
バー・アルケスティスへようこそ

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