合宿から帰った次の日、私は明にLINEを送った。明が私の家でご飯を食べる日についてだ。
ちょうどその日はあの日から五年経つ日だった。いつもはお父さんと二人でお母さんたちのお墓にいくのだけれど、今年はお父さんの外せない仕事が入ってしまって行けなくなってしまった。代わりに、明を誘ってついでにずっと聞きたかったことをきいてみようと思った。
どうして笑わなくなったの。
よく考えたら、きちんと本人にきいたことはなかった。憶測で勘違いしているかもしれない。
高島くんが寄り添ってくれたおかげで私のトラウマが払拭されたように、明のトラウマを私が寄り添い払拭したい。
きっとその話をするにふさわしい日だ。
誘いのLINEには一向に既読がつかない。
明とのトーク画面を閉じて合宿中の写真を見る。みんなの練習風景に限らずバーベキューの時のふざけた写真や、花と赤坂くんのラブラブなツーショットに私と高島くんを盗撮したものまである。
自然と笑みが浮かぶ。本当に素敵な友人たちだ。
突然ポヒャンッと通知音がなる。明からのいいよの文字。同時に、玄関のチャイムがなる。お父さんが帰ってきた。

おかえりなさい、お父さん。今日早いね。

お父さん

ただいま。今日は仕事が早く終わったんだ。

最近忙しいね。


お父さんの夕ごはんをよそう。私とお父さんは仲良しだ。二人で休日に買い物に出かけることも私の楽しみの一つだ。

お父さん

ごめんな。週末、お墓に連れてってやれなくて。

大丈夫だよ。代わりに明と一緒に行くことになったから。ついでに明のお母さんのお墓にも行ってくるよ。


テーブルの支度をしながらそう言うと、お父さんの動きがはたと止まった。そしてそのままじっと私を見つめる。

お父さん

…灯、変わったな。

え?

お父さん

灯が明くんとお墓参りに行こうとするなんて、初めてだよ。何度も誘おうとしたけど、灯はいつも嫌がるから。

そう、だっけ?


そうだ。私は明を、今の明を火燐お姉ちゃんに見せたくなかった。
なぜかわからないけど、いつもそう思っていた。
自分でも急な自分の変化に驚いた。

お父さん

最近明るくなったし、火事のこと少し吹っ切れたみたいだな。


お父さんは柔らかく笑った。親ってすごい。小さな変化をわかってくれる。

うん。火がね、大丈夫になったよ。友達がね、一緒にいてくれたの。大丈夫だって教えてくれたの。

お父さん

そうか。いい友達を持ったな。今度休みに連れてこいよ。


テーブルにお父さんの夕飯が出揃う。私はお父さんが食べるのを眺めながらしばらくおしゃべりした。

お父さん

あ、そうだ。


大分食べ終わったお父さんが、思いついたように呟いた。

お父さん

丁度五年経つし、灯も吹っ切れてきたなら、そろそろあれを見せてもいいな。

あれ?

お父さん

ああ、食べ終わったら渡すよ。待ってな、すぐ片付ける。


お父さんは一気にご飯をかきこんて食器を片付けて私を寝室に連れて行った。
一人で寝るには大きすぎるベッドとパソコンがならぶ机だけしかない寝室だけど、私はこの部屋が好きだ。なんだかお母さんや火憐おねえちゃんが近くに感じるからだ。
お父さんは机の横の隠し収納スペースからひとつの缶箱を取り出した。

これ、なあに?

お父さん

あけてごらん。


お父さんに言われるまま、缶箱の蓋を開ける。少し固い。勢いをつけて開けると、中にはB5のノートが三冊入っていた。

え…?

お父さん

母さんの日記だ。金庫に入ってたから、あの火事で燃えなかったんだ。父さんは読んだことないけど、それを書く母さんのことをずっと見てた。灯が落ち着いたら渡そうと思っててな。


パラパラとページをめくる。お母さんの字で、私や火憐おねえちゃんのことが書いてあるのが分かった。

お父さん

良かったらゆっくり読んでみてほしい。きっと今まで見えてなかったものが見えるはずだから。

分かった。


お父さんは笑顔で、少し心配そうに言ってくれた。私はお母さんの物が少しでも残っていることが嬉しくて、あの火事の前の出来事が残っていることが嬉しくて、お父さんの言葉の意味なんて考えてもなかった。

週末、駅に集合した私と明はお互いに会話のないまま電車に乗った。ただ揺られているだけじゃやっぱりつまらないので話しかけることにした。

いい感じに晴れたね。お出かけ日和って感じ!


天気についてしか触れられなかった。何故か明相手に緊張している。

…うん。誘ってくれてありがとう。


窓の外をぼうっと見ながら明は淡々と返してくれた。

最近の明、よく喋るね。なんかあったの?

別に。ただ、いつまでもみんなと話さないままじゃダメかなって思っただけ。


抑揚のない声が、人の少ない車内に響いている。もともと通る声だ。

じゃあ。


ずっと知りたかったこと。この流れならきけるかもしれない。息を吸う。

じゃあ、どうして明は笑ったり泣いたりしなくなったの?今の明、自動人形みたいだよ。


吐き出すように言った。ずっと憶測でしか考えていなかったことの真実を、知りたい。だけど。

…罪悪感。


明はそれだけ言った。
タイミングよく、電車がついた。
今度はバスに乗る。

罪悪感って、明はあの火事で何も悪いことはしてないよ?なんで?


バスの中も人が少ない。窓の外はよくある田舎で、電車に20分揺られるだけでこんなに景色が変わるものなのかと驚いた。

灯にはわからない。灯は知らなくていい。


ゆっくりと、単調に紡がれた明の言葉に、私は悲しくなる。

嫌だよ。明とはあの火事って恐怖を一緒に体験したんだ。その後の苦しみだって分かち合いたい。


明に寄り添って、昔の明に戻って欲しい。私は必死だ。

それが一体何になるっていうんだ。俺の苦しみは灯にはわからない。それで終わり。


その声に感情はない。けれど、飛んでくる言葉は怒っていた。

火事のあと、明の心がなくなったみたいになって、私、あの炎が明の心まで燃やしちゃった様に思えた。心頭滅却す化してくださいれば火もまた涼しって言葉が浮かんだ。逆に火が明の心頭を滅却したみたいに思えた。


次々と人が降りていく。静かな車内にエンジン音が無駄に響く。
窓際に座った明は、窓の外を眺めている。永遠に続きそうな田んぼの風景。

だから、私ずっと火が怖かった。近づいたら私も心がなくなっちゃうんじゃないかって、私も死んじゃうのかなって思ったから。


少し暗い森の前で私と明はバスを降りた。歩きながら、話し続ける。

でもね、この間の合宿で高島くんや花が火は怖くなくて、あったかいものだって教えてくれたの。怖がる私に寄り添ってくれたの。


森の中に入る。ここはいつ通っても怖い。先に進んでいた明が振り返って私の方を見る。

だから灯が俺に寄り添って、俺のトラウマを無くすってこと?


涼しい風が私と明の間を通り抜ける。明の目は相変わらず何も映っていないのに、私はその目が怖かった。そう、と自分でもびっくりするほどの小さな声で返事をした。
明はため息をついて、また前を向いて進んでいく。涼しい風は吹き止まない。

この前、親父の死体が見つかった。

え…?

母さんの故郷の山奥で、首をつって死んでたらしい。

え、どういう、こと…?


明の言葉は、突然過ぎて、そして重すぎて、私はすぐに理解することが難しかった。

今日、うちにじいちゃんたちがいないのはそのせい。


少し走って、明の横に並ぶ。長い睫毛が伏せられている。

母さんはずっと親父に殴られてた。いわゆるDVってやつ。あの頃の俺は親父が怖くて何も出来なくて、いつか母さんを俺が守れる様にならなきゃって思ってた。


森を抜け、墓地が見えてくる。明の口から紡がれる事実に、私は何も言えなかった。感覚は、あの火事を見ていた時と同じ。

母さんは苦しくて、何度も警察に行った。けど、警察は母さんを相手にしなかった。多分、証拠が足りなかった。


墓地へ入る。冷たい空気が私と明を包み込む。背筋が寒くなる。

そんな母さんに俺は、俺が母さんを守るって約束した。守れるような強い人になろうって思ってた。

だから、消防士…。

そう。誰かを守れるヒーローになりたかった。けど、俺は結局母さんを守れず、消防士さんも母さんを助け出すことができなかった。


その瞬間、私は久しぶりに明の表情が動くのを見た。悔しそうに目を潤ませ、唇を噛んでいる。

あの火事、きっと母さんは望んで死んだんだと思う。それが何より悔しい。俺が母さんの心を守っていれば、母さんは死なずに済んだかもしれない。約束を、守れたかもしれないのに…!


墓地の入り口にあるベンチに座る。私はこの動揺を受けたまま、お母さんたちに会う気がしなかった。明の紡ぐ事実は、私が全く知らなかった重すぎる事実だった。なんで知らなかったのだろう。

あの火事のあと、親父はすぐに帰ってきた。ばあちゃんたちに詳しい話を聞くと泣き崩れた。俺は大人の男が泣く所を初めて見た。親父は俺を見ると抱きしめてきた。初めてだった。


一言ずつ、吐き捨てるように言う明は私の見たことのない明だ。

親父はずっと母さんのことが大好きだったんだ。でも親父は、それを伝えることが出来なくて、代わりに手が出ていた。意味がわからないけど、でも、俺はなんとなく理解した。親父は、この男は残念で最低な人間だって。


抑揚のない声はもうどこにもきこえない。墓地に響くのは、涙が滲んた悔しそうな声だ。

俺は親父を突き放した。母さんを殺したのはお前だ、最低だって叫んでいた。そんな俺に親父は笑って、お前は俺にそっくりだなって言ったんだ。その時だよ。怒りも、悲しみも、全部なくなった。気づけば、笑うことも出来なくなってた。


火のせいなんかじゃない。明は私の知らない苦しみをずっと抱えていたんだ。

知らなかった…。私、なんにも知らなかった…!

灯は知らなくて当然だ。俺、今五年経って初めて人に話したから。


行こう、と立ち上がった明は昨日とはまた違う明に見えた。だからといって、五年前の明ではない。五年経って、成長した明の姿だ。
二人で並んで墓地を進む。でも私は、横にいる人が知らない人のような、そんな気がした。
明の話は衝撃的で、悲しくて、知らなかった私はなんて愚かなんだろうと思った。きっと明の苦しみは、私と同じなんてものじゃない。二倍や三倍の辛さだろう。
でも。どんなに苦しくても、明は今私の横で生きている。それなら救われなくちゃダメだ。
明の苦しみを知ることが出来た私なら、その手助けができるはず。
少し階段を登って綺麗にならんだ墓石の間を通って行く。

ここ。火憐おねえちゃんと、お母さんのお墓。


一ノ瀬家と書いてある墓石の前で止まる。二人で花を入れ替えたり、水をかけたりする。そうして線香に火をつけて、置いた。まだ日は高いのに、どこかでヒグラシが鳴いている。私から先に手を合わせた。

お母さん、お姉ちゃん、私は元気です。
私は良い友人に恵まれ、幸せです。
お母さんとお姉ちゃんのことは忘れないけれど、やっと前へ進めそうです。
今日、なんでも知っていると思っていた明のことを、実は何も知らなかったことがわかりました。
でも、これからゆっくり理解していけばいい。そう、学びました。
だから、私は大丈夫だから、お母さんとお姉ちゃんは安心して眠ってていいからね。

静かに目を開ける。隣りに座っている明が終わった?と聴いてきた。私は頷いて横にずれた。明が手を合わせる。目は閉じているのに、なんだか緊張しているみたいだった。
しばらくして、目を開けた明は立ち上がった。そうして悲しそうに笑った。明の笑顔は久しぶりだった。

行こう。次は俺の母さんに会いに。


しぶといヒグラシの鳴き声が、一層やかましくなった。

灯と炎.6 イタミとエガオ

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