――床張りの広い室内に抑揚の少ない少女の声が小さく響いた。
優に数百人は収納出来そうな広さの空間の中に、見える人影は少女の他には三人分しかなく、いずれもが床へと身を投げ出すような形で座り込んでいる。
今日はここまで、お疲れ
――床張りの広い室内に抑揚の少ない少女の声が小さく響いた。
優に数百人は収納出来そうな広さの空間の中に、見える人影は少女の他には三人分しかなく、いずれもが床へと身を投げ出すような形で座り込んでいる。
は、ぜッ、がは、こ、この、このわた、うッ、うぐおぇ……
一人は緩やかなカーブを描く長髪の少女、気位の高そうな見かけとは裏腹に、今の姿はまるで死に体のカエルのように両手足を床に付けていた。繰り返す痙攣、少女うんぬんの前に一人の人間として人前ではとてもぶちまけられない(見せられない)ナニカが込み上がってくるのを必死な様子で抑えている。
も、もう、ダメ、わたし限界
一人は髪を肩口辺りで切り揃えた活発そうな少女。一人目に比べればまだ呼吸にも余裕があり平気そうな印象を受けるが、身体の持ち主本人を置き去りにしてずっと笑い続けているその両膝が少女の満身創痍具合を現している。
………
最後の一人は屋内だというのにフードを被った顔色の悪い少年。
床へと完全に投げ出された四肢、笑みのまま凍り付いた表情、焦点の合わない二つの瞳は天井を見上げユラユラと揺れ続け、漏れる息もない。
時折何かに怯えるように跳ねる全身の痙攣が彼だけがまだ正真正銘彼が生きている事を示しているが、それがなければまるで変死体のような姿だった。
………
三者三様、それぞれに別の理由で目を引く少年少女を見下ろし、唯一まともに立ち続けている少女は眉一つ動かす事無く続ける。
明日また同じ時間に……次はもっと綿密に修練メニューを増やしておくからそのつもりで
は?はぁあああ!?もっと!?
何?
『何?』、じゃないわよ!アンタ私達を殺すつもり!こんなの続けてたら身体の方がもたないでしょ!
そう……なら耐えられるように肉体強化のメニューも追加しておくから、これも明日からね
なっ!
それじゃ、そういうことで
ちょっと!?はぁ!?何言ってくれてるの!?そんな事したらホントに死んじゃ――
ま、まぁまぁまぁ落ち着いて落ち着いて!それじゃ今日はありがとう、また明日ーよろしくお願いしまーす、オツカレサマデシター
え!?何勝手に人の話を腰を折っ――
いいから、静かにして、これ以上の追加なんて本当に――
………
……じゃあ
ぎゃいぎゃいぎゃいと座り込んだまま騒ぎ続ける少女二人の会話を完全に流し、立ち尽くしていた少女は背を向けて歩き出す。
背後では言い合う二人の会話の勢いに混じり時折長髪の少女が振り回す腕が倒れたままの少年の顔を何度も叩く鈍い音が響くが、それでも振り返ることはなかった。
ふぅ
三人の人間を置き去りにした室内を抜け、細長い通路へと辿り着いた少女は細く小さく溜め息を吐く。
窓から差し込む茜色の光が昼の時間の終わりと、まもなく訪れる暗い静寂の時間の始まりを告げてくるが無表情を貫く少女の顔に変化はなく、ただ姿勢正しく前だけを向いて歩いている。
使えない人達
愚痴とも。嫌味とも取れない小さな呟きが突如少女の口から漏れた。
一切の感情すら込もっていないような冷えた言葉。無人の通路の中、例えこの場に少女の呟きを聞く者が居たとしても少女が何を考えているかを決して覗く事は出来ないだろう。
ただただ赤く染まった通路の中、同じく赤く染め上げられた少女は歩き続けるが……しばらく進んだ後にその歩みは静かに止まった。
………
赤色の中でゆっくりと掲げられていく少女の腕。
細く白い指先は自身の服の袖口を撫でるように触れ、続いて襟元へと指を這わせ静かに触れる。
………
衣服の下に見える白いシャツ、本来は肌触りの良い柔らかな布地は多量に吸い込んだ汗により少女の素肌へとぴったりと張り付いている。
一仕事どころか二仕事、三仕事は終えた後のような汗の多さにさすがの少女も無表情な顔の中に僅かな不愉快さを混ぜ、先程とは全く別の意味で小さく息を吐く。
さすがにべとべとで気持ち悪い、先に着替えをしないと
赤く染まる通路の先、向かう目的地から視線を反らすと、少女は別の方向へとゆっくりと足を向け静かに歩みを再開させた。
ふんふんふん、いぇー、ふふんふん、いぇー♪
ゼッ、ゼッ、ゼッ、ゼッ、ゼッ
じゃじゃんじゃんじゃじゃん、じゃじゃんじゃんじゃじゃーん!
ぐ、チョ、ちょっとジョッシュ、ま……て……
やーはっはー、よー!
ジョ…シュ……
ガンガンガン!ゴーゴーゴー!
ちょっと……待てと言ってるんだジョッシュ!ぅ、おぇ
……若干、大きく変えた僕の声が木々の合間に響いていく。先行するジョッシュはスタートの時と比べると明らかに遠い。背の高い木々の合間を通り抜け、小さくなり掛けるその背は僕の不安を駆り立てるには十分過ぎる程だ。
悔しいけれど、正直に言えば純粋な体力勝負で僕がジョッシュに勝てる要素は皆無だ。
罠まみれのあの地下通路でこそ走って進むなんて論外だったので大丈夫だったが、野に放たれた獣のような今の状況ではジョッシュの方が先行するのは仕方ない。
僕の声に立ち止まったジョッシュの姿に時間を掛けてようやく追い付くと自分が悪いとは全く欠片も思っていないニヤついた笑みが出迎えてくれた。
なんとなく腹の立つ笑みだ。
ハッ、ハッ、この体力バカ、ちょっとはこっちの事も考えて
あー、うん、わるいわるい、ガラってのろまだったよな、ごめんな
おいストレート!言い方がストレート過ぎるんだよ!
ん?でもな、本当の事だし
む
だろ?だろ?
……あーあーわるかったわるかった、僕がわるかったよ、スイマセン
よかろう、許す!
はぁ……しかし……
魔術科校区内に入って(しまって)からしばらく経つ。だけどその間に誰かとすれ違うような事はなかった。通常の道とは違う、今僕らが居るのは草木ばかりの並木道だ。こんな所を歩いている人間がいればそれはそれで怪しいが。そこを考慮しても遠目に見える人影もかなり少なかった。
……時折、遠くから歓声だろうか? 何か人の声らしきものも聞こえて来るがそれが人の少ない原因か。勝手に忍び込んでしまっているこちら側としてはそれはありがたいが、そのせいでジョッシュの注意力がかなり散漫になってきている事は大きな問題だった。
もっと落ち着いて、慎重に行こう……そもそも結構適当に進んでいる気がするんだけど大丈夫なの?
ああ、そこに関しては間違いない。オレの繊細なこの二つの鼻が、目的物はこっちだってさっきから囁いている
鼻はずっと一つだぞ……穴が二つってだけで。しかし完全にカンじゃないか、そんなのでその『憧れ』とかにたどり着けるのか
ああ、平気だ。何せずっと夢見ていた所だ。身体の方が勝手に感じてくれる。
……そうか
あ、なんだよ、信じてないのか
いや、そうじゃなくて純粋にうらやましいと思っただけ
一切の迷いも挟まずに言うジョッシュに、僕は嫌でも何か眩しいものでも見ているような気分にさせられる。
そんなに憧れてたのか、見たかったのか。
それが僕に自由に見せてあげられるものであればよかったけど残念ながら僕には出来ない。
それが悔しいとも、申し訳ないとも少し違う気持ちだったが、どう現したらいいのか言葉に変えるのは難しい……。
お
……長かった並木道に終わりが見え、少し開けた場所へと差し掛かった。
風に混じる僅かな水滴。オレンジの光を照り返す細い輝き。
繊細な意匠を施した人工物から湧き出る水の柱……校区内に噴水だなんて施設の使い道を間違っているとしか思えないけれど走り続けた後に感じる水の気配は程良く心地よく少しだけ清々しかった。
ふと見上げた視線の先に大きな建物が見える。
やはり人数は不自然な程に少ないけれど、遠目に見えた建物の看板にここが何の為の施設なのか予想だけは付く。
魔導技実地館、ね……あながちジョッシュの鼻もバカに出来ないな
注意して、気を反らしていても分かる複雑な魔力残滓。ひとつやふたつじゃない、幾十、幾百、下手をしたら千をも超えそうな残留魔力の漂うこの場所は恐らく魔術科生達が魔術の実践をする場所なのだろう。
だだ漏れる各種の色、景色の捕食。
実際に魔術を使っている所を見てみたいというなら確かにこれ以上の場所はないだろうが……そう思っていた所でジョッシュは同じ方向を見つめながら細かく息を吸って言葉を吐き出した。
ここが……やはり目的の場所は近い
目的……は?ここだろ?憧れ
お、もしかして勘付いていたかガラ……でも惜しいすごく惜しいな、オレの目的地はここの後、もしくはその前に訪れる場所さ!
後?前?なんだ食堂にでも行きたいのか?さすがに無理だぞ
浅い、あさいなーガラくーん!このオレをその程度の男と思うか?
……割と
分かる、分かるぞ……こっちだ!付いて来いガラ
あ、おい!だから勝手に行くなって!
姿を隠してくれる木々はもう無くなったというのに更に一層スピードを上げて走り始めるジョッシュの背中に僕も慌てて走り出し追い掛ける。
魔導実地館の広い壁へと背中を貼り付けるように付けそのまま横へとカニのように。
僅かに人の声が中から聞こえてくる気がするがそちらとは反対の人気をなくした建物同士の間の隙間道へとジョッシュは入って行った。
迷いの全くない進行はここに来ても続くのか……
人一人がやっと通れるような狭い道、建物自体の形も特殊なのか道行く通路はまるで迷路のように波を打って入り乱れ歩きにくさは先程までの道とは比べ物にもならない。
たくなんでこんな、僕は虫でも小動物でもないんだぞ
道すがら愚痴を漏らし、それでも歩き続ける事少し……視線の先を行っていたジョッシュは唐突に歩みを止めゆっくりと、気持ち悪い程の笑みを浮かべて振り返った。
間違いない!ここだ!
ここって……何にもないぞ
憧れなどというからどんなすごい所かと思いきや、たどり着いたのは壁と壁とに挟まれた狭い場所。
とても何か特別な物があるとは思えない。
強いて言うなら右手の壁の上部に明かり取り用なのか小さく細い窓が見えるがそれも普通の窓だ。
慌てるなガラボーイ、これからすばらしい憧れの場所をその目に焼き付けてやる
それだけ言うとジョッシュはおもむろに壁へと手を掛け、僅かな出っ張りへと慎重に足を掛けると上へと向かって伸び上がる。
まるでサルのような身のこなしの軽さに感嘆と呆れとの両方を抱くが、途中で恐らく壁の中からだろう、漏れてくる人の気配と薄い魔力の存在感とに気を取られる。
……なんだ
透明に近い青……しかし人の使う魔力としては若干色が薄過ぎる気がしたが。
お、おおおお
僕の抱いた僅かな疑問はジョッシュの押し殺した変な声と両の足で拍手でもするような妙な動きとによって掻き消された。