礼は言ったか?

与兵はひとりで町まで降りて薪を売りました。
軽くなった背中は、なんだかとても物足りなく感じました。

与兵

このところ、ずっとあいつを背負ってたからな……。

鶴太郎はいつも傍にいて、ずっと与兵に話しかけていました。

鶴太郎

与兵。大好きっ♡

鶴太郎

ボク、与兵の嫁になるからね。

与兵

あいつ、ホントに騒がしいからな……。
言ってることも無茶苦茶だし。

与兵

でも、いないと寂しいかもな……。

与兵

そんなこと言ったら、調子に乗るんだろうけど……。

今まではひとりでいることを、寂しいと思いませんでした。
人と会うのを煩わしく思っていました。

彼女がいなくなっても、なんとも思いませんでした。
ひとりでいた方が、清々するくらいでした。


でも、今はひとりでいると、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。

町に人はたくさんいたのに、鶴太郎はいません。

鶴太郎が与兵の前に現れたのは、たった半月前です。
でもその間、こんなに長時間背負っていなかったことも、鶴太郎の話し声が聞こえないこともありませんでした。


いつの間にか、背負っているのが当たり前になっていました。

与兵

いつまでも、背負っているわけじゃないんだろうけど……。

怪我が治れば、鶴太郎は自分の足で歩くようになるのでしょう。

与兵

なんか、母鳥の気分?

与兵

産んでないけど……。

鳥でもなければ女性でもありません。

与兵

待っているだろうな……。

鶴太郎

与兵、
寂しいよぉ……。

と言う、鶴太郎の姿は、容易に想像ができました。

与兵

豚肉とすいとん粉を買ったら、すぐに帰ろう……。

与兵

吾助のところに寄ってからだけど。

ふっかけられていると思っていますが、治療費は返さなければいけません。
少しずつでも、持っていこうと思っていました。

それに、「自分で持ってくる」と言ってしまいました。
他にも、

吾助

しりぬぐいするこっちの身にもなれ。

と言われたことや、

吾助

下半身で思考してるんじゃない。

と言われたことが、引っかかっていました。

特に下半身の方は、

与兵

俺はちゃんと外見で好きになっている。
目で見て好きになっているから、頭からはいっているんだ。

と言って、訂正させなければいけません。

与兵

それに、やっぱり吾助があんなことをするとは思えない。

与兵の彼女は、最終的に吾助を選んでいたのですが、あんなあからさまに盗っていったのは最後の彼女だけです。

与兵

いつもは気づかないうちに
自然解消だった。

だからなのか、与兵はフラれても傷ついていませんでした。
フラれたことにも気づいていないことも多かったです……。

後になって、「もしかして、あれは別れの言葉だったのでは?」と思うような別れ方をしていました。

与兵

何か理由があったのかもしれない……。

与兵

吾助、いるか?

すいとん粉や豚肉などを買い、診療所に来ました。

じいさん

お前、久しぶりに帰ってきて、
一言目にそれか?

出てきたのは診療所のおじいさんでした。
血はつながっていませんが、物心ついた頃から育ててくれた人です。

与兵

あ、じいさん……。

三年ぶりの再会でした。

与兵

なんで会おうとしてるヤツがいつもいないんだ?

与兵

こないだ来たときは
往診に行ってたし。

じいさん

帰ってくるまで待つくらいしても、バチは当たらんぞ。

与兵

いつ帰って来るかわからなかったし、吾助がいたから長居はしたくなかったんだ。

じいさん

吾助に礼は言ったのか?

おじいさんの言葉は、歯切れが悪かったです。

与兵

なんで俺が礼なんて言うんだよ。

じいさん

……。

おじいさんの顔が険しくなります。

じいさん

お前、吾助のおかげで
命拾いしたんだぞ。

与兵

はぁ?

じいさん

お前が三年前に付き合っていた女、
ありゃ、ヤクザの女だ。

与兵

…………。

驚いて言葉が出ませんでした。

与兵

え、だって、
あっちから……。

与兵はこういう性格なので、積極的に自分で行くことはしません。
行かなくても寄ってきます。

告白してきた子がかわいくて、それまでの彼女と連絡が取れなくなっていたらOKを出します。

悪い子ではないのですが、男所帯で育ったせいか、そこいらへんのネジがおかしなことになっています。

じいさん

美人局ってヤツだ。

美人局とは、男が妻や情婦にほかの男を誘惑させ、それをネタにその男から金品をゆすりとることです。

与兵

俺、金ないし。

じいさん

使える手ごまが欲しかったんだろう。お前、地味に役に立つから。

与兵がいなくなった診療所は、ゴミや埃がいっぱいで、どことなく薄汚くなっていました。

与兵

こっちでも主夫扱いか?

じいさん

だが、吾助がお前の身代わりになったんだ。吾助の方が、お前の何倍も役に立つからな。

与兵

それは否定しないけど……。

おじいさんも、与兵は家事中心に働かせて、吾助は医者の助手をさせ、自分がいないときも代わりに診察をさせる程です。
吾助は頭が良くて、とっても使える男です。

じいさん

もしかすると、初めからそっちが目的だったのかもしれない。お前と吾助はいつもセットだし。

じいさん

まあ、お前らに何かあったら、ワシも黙ってはいないがな。

与兵

歳考えろよ。
ヤクザ相手にじいさんが何かできるわけないだろ。

じいさん

お前、ワシのことを見くびっておるな?
こう見えても、若いころはブイブイ言わせておったんだぞ。

与兵

何百年前の話だよ。

じいさん

数えたことない……。

与兵

もうろくジジイが……。

与兵

ここでおとなしく
していてくれないかな?

口ではきついことを言いましたが、やっぱり診療所のおじいさんを、危険な目に合わせたくなかったのです。

与兵

吾助は今、どこにいるんだ?

じいさん

山の別宅に行くって言ってたぞ。

与兵

…………。

嫌な予感がしました。
今、山奥の家には、鶴太郎がひとりでいます。

与兵

俺、帰る。吾助に会って、ちゃんと話をしないといけない。

じいさん

行ってこい。

与兵はうなずいて、診療所を出ようとしました。

じいさん

ここはお前の家だ。
いつでも帰ってこい。

与兵

…………。

与兵は返事ができませんでした。

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