PSYドライバーとアンプルを直接目の前に差し出したところで、小樽は首を縦には振らなかった。

 新渡戸は苛立ちも露に小樽を問い詰める。

新渡戸文雄

こいつは明らかに危険ドラッグの一種だ

さっき救急車で搬送された学会員の
血液検査も直に結果が出る

遅かれ早かれ言い逃れ出来ない状況は
やってくるでしょう

あちらが何か変な気を起こす前に
踏み込むべきです

小樽一樹

しかし……

 いつもの小樽なら新渡戸の上申に対して不用意に否定的な意見は述べない。それだけの信頼関係が二人の間にはあるからだ。

 でも今回は様子がおかしい。もしかして、小樽自身が未来学会と何か繋がりがあるとでもいうのだろうか。

駒木定義

失礼します

 ノックもせずに駒木が署長室に立ち入る。

駒木定義

署長。あなたを脅していた
警察庁のお偉方ですが、
さっき面白いことが判明しましてね

小樽一樹

何だって?

 純粋に興味があるような顔をする小樽であった。

駒木定義

その野郎、どうやら未来学会のパトロンだったみたいです

小樽一樹

やっぱりか

 小樽がさらに落ち込む。

小樽一樹

薄々分かってはいた。で、何か証拠は?

駒木定義

まずはこれを

 小樽は小脇に抱えていたブリーフケースから何枚かの写真と書面を取り出した。

駒木定義

実は警察庁付近に事務所を構える探偵がおりまして

そいつらに俺が目星をつけた連中の
内偵をさせたら案の定、
一番怪しい奴が未来学会の
ビルに何度か出入りしていました

小樽一樹

本当だ。見覚えのある顔がいる

 机の上に写真を広げられた時から、小樽の声音がいつにも増して冷たい。

 被写体の人物は未来学会のビルの入りと出を押さえられ、さらには代表者である井草勝巳と料亭で何度か会合している様子を捉えられていた。

駒木定義

警察庁次長・
警視監の村井重三

犯人は彼にお間違い無いですか?

小樽一樹

間違いない。よく調べ上げたね

駒木定義

極めつけはこれですよ

 駒木はさらにICレコーダーを取り出して写真の上に置いた。

駒木定義

こいつは明確な証拠品に
成り得るでしょう

二人が入った料亭の従業員に
依頼して盗聴器を仕掛けさせてもらった

 スイッチを入れると、音声がすぐに再生される。

――……彩萌署の小樽はこちらで
押さえてある。さすがに家族の話を
持ち出されたら、如何にあの男と
言えど大人しくせざるを得ない

井草勝巳

感心せんな
もっとマシな脅し方は無かったのか

一番効果的なやり方ですよ
彼からブラックな経歴を探すのは
至難の業ですから

井草勝巳

もし小樽が何らかの行動に出ても、彼の家族にだけは手を出すな

善処します

 駒木がここで一旦音声を止める。

駒木定義

……さっき、俺の後輩の何人かを署長のご家族のもとへ向かわせました
いまなら署長がGOサインを
出したところでご家族に危害は及ばない

小樽一樹

あのクソ野郎

 小樽が眉をひくつかせて立ち上がった。

小樽一樹

何が善処します、だ
そんなもん、断るって
言ってるようなもんだろうが

新渡戸文雄

しょ……署長?

 彼とは長い付き合いだが、新渡戸はこれまで一度として小樽の怒りと恥辱に塗れた顔を見たことがなかった。

小樽一樹

駒木君。君達はガサ入れの準備を進めてくれないか?

新渡戸文雄

ということは、令状を?

小樽一樹

ああ。それから、自衛隊にも支援要請を出す

 いま一度、小樽は新渡戸と駒木の顔を一回ずつ見遣った。

小樽一樹

いいか?
彩萌署の威信に
かけて、この街を
穢そうとした
マザファキ野郎共を
現世の地獄へ
叩き落としてやれ!

新渡戸文雄

待ってました!

駒木定義

楽しいハイキングの始まりですな

 付近の至るところで大騒ぎが起きているにも関わらず、黒狛探偵社は相変わらずの平常運転だった。

 素行調査の報告書を一冊仕上げた轟は、ネットで取り寄せたばかりのサンドバックに殴る蹴るの暴行を加え続ける杏樹を平たい目線で眺めていた。

池谷杏樹

うりゃ、ほりゃ、あちょちょちょちょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!

 砂を打つ鈍い音と杏樹の奇妙な発声が今日のBGMらしい。

東屋轟

……社長。遊んでないで
ちゃんと仕事してください

池谷杏樹

なにをー! 肉体改造だって立派な仕事の一つですぅ!

 杏樹が全身を使って威嚇してくる。幼児体型を大きく見せようと意地を張る姿がとても痛々し――いや、可愛らしい。

池谷杏樹

あんたこそ自分の体脂肪率を
気にしなさいよ!

東屋轟

元旦那と喧嘩したからって
俺に当たらないでください

池谷杏樹

轟君、最近あんた、私が上司だってことを忘れてるでしょ

東屋轟

忘れてませんよ

しゃちょうは
そんけいすべき
じんせいの
ししょうですー

池谷杏樹

全部ひらがな!
全部棒読み!
しかも花柄の枠付き!
何もかもが嘘くさい!

 杏樹は次に、応接間のソファーで横になっていた玲に水を向けた。

池谷杏樹

玲ー、
あのおデブ様が苛めてくるー!

美作玲

はいはい
後で相手にしてあげますから、
ちょっとだけ休ませてねー

池谷杏樹

この会社に私の味方は
誰一人としていないのね

 ふてくされ、杏樹は自らのデスクに引き返した。

池谷杏樹

あーあ、こんな時、
紫月君がいてくれたらなー

東屋轟

あんたが無期限の休暇を
言い渡したんでしょ

池谷杏樹

うるしゃーい!

 といった具合に、最近の杏樹は見るからに情緒不安定だ。少なくともいまの彼女には保護者が必要だろう。

 轟も丁度、紫月の存在が如何に貴重であったかを思い出す。

東屋轟

……紫月の野郎
本当に大丈夫なんだろうな

 ここ数日間に渡って彼の欠勤が続いている為、雑用も含めて黒狛の業務状況はそこそこ悪化している。杏樹も杏樹でこの様子だし、玲に至っては何があったのか知らないが、やり過ぎとも言えるくらいの仕事量をこなし始めて疲労困憊だ。

 この中で唯一、フラットなメンタリティを保っているのは轟一人だけである。

 どうしよう。俺が社長になっちゃおうかな――などという邪な考えを遮るように、今日何度目になるか分からないチャイムが鳴り響いた。

 インターフォンの受話器を取ると、息を荒げた男の声がした。

火野龍也

もしもし、火野です。取り急ぎお願いしたいことがありまして……

東屋轟

おう、火野君か。とりあえず入れよ

 彼は単なる客ではない。紫月の正体を知る一人で、黒狛の事務所にも時々遊びに来るようになった彼の友人だ。

 扉を開くと、額が汗まみれになった龍也が現れた。

東屋轟

どうした? そんなに慌てて

火野龍也

大変っす。このままだと白猫は
――彩萌市は一巻の終わりっす!

東屋轟

はあ? 何言ってんだお前?

池谷杏樹

話だけでも聞こうじゃないの

 杏樹が轟の後ろから顔を覗かせた。

 龍也が応接間のテーブルで杏樹に語った内容はこうだ。

 いま話題の未来学会が、彩萌署のガサ入れに対抗して自分達が先手を打つべく、PSYドラッグで強化された学会員を兵力にして街で戦争を起こすつもりらしい。しかも彼らの標的リストには、どういう訳か白猫の名前も載っているのだという。

 他にも色々言われたが、大体はこんな理解でいい筈――だと思っていた。

池谷杏樹

それ、
何処のSF小説?

 杏樹は当然ながら、本気で理解不能といった反応を示す。

池谷杏樹

つーか、何で火野君がそんなことを
私達に報せる訳?

火野龍也

力を貸して欲しいんす

 龍也が頭を深々と下げる。

火野龍也

未来学会は一人の女の子を神として
祭り上げて生まれた組織っす

だから皆さんにはその女の子を
奪還する手伝いをして欲しいんす

池谷杏樹

ちょっと待って、
理解がおっついてないから

 杏樹が眉間を指先で押して唸ると、玲が二人にお茶を出しつつ首を捻った。

美作玲

その女の子って
火野君のお知り合い?

火野龍也

大切な友達っす

美作玲

なるほど
だったらその女の子に関する情報を――

池谷杏樹

待ちなさい

 杏樹が険しい顔で首を横に振った。

池谷杏樹

状況が整理出来てない状態で
勝手に話を進めないで

さっきの概略だけじゃ、
とてもじゃないけど易々と
依頼を受けられる理由には
ならないの

東屋轟

まあ、たしかにそうだわな

 轟があくび混じりに言った。

東屋轟

PSYドラッグが何かは知ってる
紫月が直接戦った奴が
使ってたって話だしな

でも話す相手が違う
俺達は探偵であって戦争屋じゃない

ストーカー退治ならペイの内だが、
危険な宗教組織一つを相手に
ドンパチやるのはこっちの専門外だ

池谷杏樹

白猫を助ける義理も無いしね

 杏樹が苛立ちを匂わせつつ答える。

池谷杏樹

どうせ白猫が狙われてんのだって、
あっちが何かトチったからでしょ?

その女の子については心配だけど、
こっちが下手に乗り込んで損害を
引っ被る理由としては弱いし……

東屋轟

そもそも俺達には一切関係無いしな

 外でヘリの音がけたたましく鳴り響く中、轟が身も蓋も無い結論を述べる。

東屋轟

リスクを負う以上は相応の対価を
要求するのが大人の世界だ

紫月のダチ公の頼みでも、
そこだけは何があっても
曲げられない

義理人情だけじゃ、
人っ子一人救えないんだよ

火野龍也

だったら葉群さん個人にお願いするまでっす。彼はいま何処に?

池谷杏樹

悪いけど紫月君も貸せないから

 杏樹が舌打ちでもせんばかりに告げる。

池谷杏樹

彼はいま無期限の休暇中
職場復帰はしばらく先

火野龍也

無期限の休暇?
やっぱり、葉群さんの身に
何かあったんすか?

池谷杏樹

私が白猫を助ける気が
無い理由の一つでね

あいつらのせいで、
いまの紫月君は使い物に
ならなくなっちゃったの

 これも因果応報という奴だろうか。何をしたかは知らないが、幹人が余計な真似さえしなければ、龍也の依頼についても一考の余地があったかもしれないのに。

 現段階で龍也が必要としているのはこちらの戦闘能力だが、紫月を欠いたいま、危険な仕事に対してそう易々と首を縦には振れない。杏樹には社長として従業員を護る義務があるからだ。

池谷杏樹

火野君の話だと、
そろそろ未来学会が
暴れる頃合いかな

 ほとんど冗談のつもりで、杏樹は大型テレビの電源を点ける。

――……現在、彩萌市の上空から
撮影しています……ご覧下さい!

 彩萌市を俯瞰で見た映像の中に、黒い点々が薄気味悪く展開されている。

 さらに映像がズームされると、信じがたい様子が映し出された。

黒い機械を腕に装着した人が、
街中の一般人を襲ってます!
しかもこれが複数……
いまや彩萌市は混沌の坩堝と
言える様相を呈して――

東屋轟

さっきの音は
取材ヘリか

 轟が天井を見上げて舌打ちする。

東屋轟

まさか本当に街で大暴れするとはな
いま映像で民間人を襲ってる連中が
全て未来学会の奴らだとすれば――

火野龍也

既に白猫は襲撃を
受けてる

 龍也の禿頭で冷や汗が増量する。

火野龍也

このままだと、貴陽さんが――

『禁忌の探偵』編/#3願い その三

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