神 斬
髪 切 り屋

ファンタジー(小説)に登場する日本刀のモデル

日本刀ストーリー②
童子切安綱と源頼光その名の由来物語
 

小説に登場する

日本刀 童子切安綱(どうじきりやすつな)は

平安時代 伯耆国の刀工、大原安綱作と伝えられる日本刀である。

国宝指定名称は 太刀 銘安綱(名物童子切安綱) 附 絲巻大刀 梨地葵紋散蒔絵大刀箱
(たち めい やすつな めいぶつどうじぎりやすつな つけたり いとまきたち なしじあおいもんちらしまきえたちばこ)

太刀  童子斬り安綱

刀長  刃長二尺六寸五分(約80.3cm)

反り  九分(2.7cm)

全長  三尺六寸(およそ109.1cm)

目釘穴 一

作   大原安綱

時代  平安時代

さて、安綱作の日本刀が童子切と何故呼ばれるのか
名の由来の物語 

時に、平安時代の中期、一条天皇の時代
京の都では金銀が盗まれたり
婦女をかどわかす事件がありました。
この事態の原因を、陰陽師安部清明に調べさせたところ、丹波国の大江山(現 京都府福知山)に住む、鬼の酒呑童子が、鬼の部下を引き連れて悪行の数々をしていることがわかりました。

そこで帝は長徳元年(995年)に
清和源氏三代目の源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせたました。
頼光は、部下の武士で四天王と呼ばれた
坂田金時・渡辺綱・卜部季武・碓井貞光を連れて大江山に山伏姿に身をかえ向かいました。
酒好きだった酒呑童子に神変奇特酒(眠り薬入り酒)を飲ませ、眠った隙に首を切り落とし退治したと伝えられています。

この時に酒呑童子の首を首を切り落とした
源頼光が使っていた刀が
この物語が元で童子切安綱と呼ばれるようになったわけです。

補足
※坂田金時は金太郎さんが大人になった時の名前
※碓井貞光がこの時に使った刀が石切丸という伝説がある

大江山の八合目、鬼獄稲荷神社(雲海の名所として有名)の付近には、鬼が隠れ住んだ洞窟や

坂田金時が鬼退治のときに引き抜いて腰掛にして休んだという杉の木、金時の逆さ杉などが
今でも、残っています。

老ノ坂峠(現 京都府亀岡)を少し越えたところにある首塚大明神(京都府京都市西京区大枝沓掛町)には
首級しとして、もち帰った酒呑童子の首が埋葬されている。
首塚大明神の石碑には、この地に酒呑童子の首が、埋葬された理由が書かれている

酒呑童子とその一族を征伐し
酒呑童子の首級を証拠に京の都へ帰る途中
この老の坂で休憩したが
道端の子安の地蔵尊が
「鬼の首のような不浄なものは天使様のおられる都へ持ち行くことはならん」といわれたが
相模の国の足柄山で、熊と相撲をとったという
力持ちの坂田の金時が証拠の品だから都へ持って行くと言って、酒呑童子の首を持ち上げようと力んだが、ここまで持ってきた首が急に持ち上がらなくなった。
そこで一行は止むを得ずこの場所に首を埋めて
首塚をつくったと書かれている。

以上が童子切安綱の名に関する物語である。

さてその後、童子切安綱は
足利義輝から、信長、秀吉、家康の手を経て
二代目将軍秀忠から、越前松平家の忠直に贈られた。
越前松平家の高田藩から津山松平家に継承された。
八代将軍吉宗が本阿弥家十三代当主光忠に命じ
世評に高い太刀、刀の248振りを刀の特色、銘や由来などから、代付けして編纂させた『享保名物帳』にも「童子切」の名は記されている。

太平洋戦争終戦後、津山松平家から手放され
個人所蔵家の所有となった。1962年(昭和37年)に文化財保護委員会(文化庁の前身)によって買い上げられ、現在は東京国立博物館に所蔵されている。

この天下五剣の童子切安綱

小説 

神 斬
髪 切 り屋 

伍の巻 天照神武に登場する予定です。

神 斬 髪 切 り 屋 番外編 日本刀ストーリー② 童子切安綱と源頼光その名の由来物語

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