27│先生の噂

私と先輩は、廊下を走っていた。
向かうはもちろん、美術室だ。

美術室に到着し、扉の前で呼吸を整えて……扉をゆっくりと、開ける。

牧野先生

あ、川越さん、雨音君も。
こんにちは

川越 晴華

……こんにちは

美術室には、先生しかいなかった。

相変わらず絵の具だらけのエプロンを身につけながら、先生はいつものように優しく笑う。

牧野先生

どうしました?

川越 晴華

……え、っと

にゃん、にゃーん

先生の足元にいた先生の猫が、無表情でひとつないた。

レイン

噂のことかな、どうしよう、だってさ。
相変わらず隠す人だよね、この先生

クロニャ

先生ですし、しかたないのかもしれませんけどにゃあ

先輩をちらりと見ると、先輩が小さく俺が訊こうか、と言った。

私は首を横にふって、あの、と切り出す。

川越 晴華

噂のこと、ご存じですか?

牧野先生

噂?

川越 晴華

先生の噂ですよ! 

保健室の先生とつきあってるって聞いて、本当かなって

ああ、と先生は苦笑した。

牧野先生

もちろん嘘ですよ。

勘違いの連鎖です。心配しなくて大丈夫です

にゃん

レイン

……困ったよって、この先生は、まったくもう。助けを求めるのがへたなんだよ

クロニャ

自分で解決したがる人なのかもしれませんにゃあ

レインの言うことも、クロニャの言うことも、きっと正解なのだろう。


私も困った。猫を見る限り、放っておいてほしいわけでもなさそうだし。

雨音 光

噂、かなり広まっているみたいですけど、先生、本当に平気ですか。

俺達、心配です

牧野先生

そんなに広がっていますか……まあ、人の噂も七十五日と言いますし。

本当のことではないですから、否定し続けていればいつか、ほとぼりも冷めますよ

にゃん

レイン

たぶん、ってさ

うーん、何か私達の知らない事情がありそうだ。

川越 晴華

でも、先生……

タイミングの悪いチャイムに、私の言葉は書き消される。

こんなタイミングで、下校時刻だなんて。

牧野先生

さ、もう時間です

先生は、ふわりと笑った。

牧野先生

気をつけて帰ってくださいね

にゃーん、にゃん

レイン

ん?

レインが眉をつり上げる。

レイン

彼女に誤解されていないといいけどって。何のことだろう?

彼女?

今なら、何か訊けるかもしれない。

そう思ったけれど、先生にさあ、と急かされて、結局何も言えないまま、私達は美術室をあとにした。

晴華

光先輩ー。

牧野先生、大丈夫でしょうか……さっき、結局何も聞けなかったですけど、気になっちゃって

雨音光

俺も気になってた。大丈夫じゃなさそうだったよね

晴華

噂のこと、困ってますよね

雨音光

そう思う。

猫見てもわかるし、見なくても、苦笑いだったもんね

晴華

ですよね。よりによって土日はさんじゃうなんて……気になって仕方がないです

雨音光

土日ずっと悶々とするのもいやだよね

雨音光

ねえ、電話してもいい?

川越 晴華

うおわ、唐突!

びっくりしてスマホを投げてしまう。

あわてて空中でキャッチ。

クロニャ

電話! いいじゃにゃいですか

川越 晴華

うん、嬉しいね。えっと、電話、大丈夫です……じゃなくて、もっと良い言い方……

もたもたと返信を打ち込んでいると、さらに先輩からのメッセージが届く。

クロニャ

にゃににゃに? 

電話で話した方が楽だし、すぐに返信きたから今なら平気かにゃって。
無理だったらこのままでもいいからね。

……にゃー。

声が聞きたいって言えばいいのに、すにゃおじゃないのは、先生だけじゃにゃいですにゃあ

川越 晴華

声が聞きたいなんて直球で言われたら、私が照れて倒れちゃうよ

クロニャ

にゃはは、照れて倒れちゃうにゃんてかわいいですにゃあ

川越 晴華

むう……

電話大丈夫です、是非しましょう! と送ると、すぐに通話画面に切り替わった。

緊張しながら、通話ボタンを押す。

クロニャが電話にぴと、っと体を寄せてくる。
かわいい。

雨音 光

もしもし、晴華?

クロニャ

にゃまえ! にゃまえ!

クロニャが私の肩をばしばしと叩く。

一方の私は、嬉しすぎて何も言えない。

雨音 光

晴華?

クロニャ

にゃー!

レイン

うるっさ、そっちの黒猫何叫んでるんですか?

川越 晴華

……光先輩! レインも!

雨音 光

レインもクロニャと話したいんだって。

だから、通話をスピーカーモードにしてる

レイン

光! 僕はそんなこと言ってないだろ!

雨音 光

あ、じゃあ普通の通話にしていい?

レイン

そ、そうとも言ってない!

スマホを見て、ボタンを探す。

スピーカーのアイコンを押すと、先輩とレインの声が大きくなってスマホから聞こえてきた。

雨音 光

素直になりなよ、レイン

レイン

うるさい、うるさい!

川越 晴華

おお……文明の利器……

じゃなくって。

クロニャ

本題に入りましょう、レイン様

レイン

にゃ! 何を黒猫、えっらそうに! 

でも、本題にはまだ入らないんだよね。

その前に、光が直接言いたいことがあるんだよ、ねー!

雨音 光

ちょっと、レイン!

レイン

仕返しだよ! ベーだ!

どたばた、と音が聞こえる。

電話の向こうで二人がかけまわっているのを想像して、思わず頬が緩んだ。

川越 晴華

先輩、直接言いたいことってなんですか?

雨音 光

……あーっと、無理なら、断っていいから

そう前置きして、先輩はぼそぼそと言った。

雨音 光

その……この前、言った……駅前のカフェ、もしよければ明日行かない? 先生のこと、いろいろ話したいのもあるし、その、レインもクロニャに会いたいって言ってるし

クロニャ

にゃあああ!?

レイン

はああああ!? 言ってないし!

雨音 光

言ってたんだよ、クロニャ。

レインは照れてるけど、実は帰ってからずっと

レイン

光、お前もだろ!

雨音 光

そ、そうだけど! 

そ、そうだよ、そうですよ、えっと、晴華……ごめん、実は、ただ会いたいだけなんだ……

川越 晴華

………………


光先輩。
それは。
ずるいです。




ベッドの上で何も言えずに悶えてしまう。

雨音 光

……晴華?

川越 晴華

あ、すみません、嬉しすぎて絶句してました

雨音 光

………………

今度は先輩が電話の向こうで沈黙している。

同じように照れているのかな? と考えながら、私は返事をする。

川越 晴華

明日、あいてます! 

デート、しましょう!

川越 晴華

クロニャ、私、かわいいかな

クロニャ

かわいいですにゃあ。

最高のコーディネートを選択しましたにゃあ

川越 晴華

先輩の私服が気になる

クロニャ

同感ですにゃあ

川越 晴華

そして二十分前に着いてしまった、早すぎる

クロニャ

待つ時間も楽しいものですにゃ……あ!

クロニャが肩の上でぴょん、とはねた。
人混みの中、ぱちん、と先輩と目が合う。

川越 晴華

あっ

先輩もあ、と口を開けて、駆け寄ってきた。

雨音 光

ごめん、待たせたね

川越 晴華

いえ、早く着きすぎました

雨音 光

俺も。お互い様だね

川越 晴華

先輩、私服も素敵……

ぼうっと眺めていると、先輩がどうしたの? と首をかしげた。

雨音 光

行こうか。すぐそこだよ

先輩が歩き出す。隣を、私も歩く。

川越 晴華

幸せすぎる……

雨音 光

晴華の私服、初めてだね

先輩がにこりと笑う。

雨音 光

かわいい

川越 晴華

あ、あっありがとうございます! 
先輩もかっこいいです

雨音 光

あ、ありがとう

レイン

クロニャ、僕、むずむずしすぎて心臓が持たないかも

クロニャ

静かにするにゃ、空気ぶちこわしにゃ

二人の会話に、先輩と二人で吹き出す。


ああ、もう、幸せだ。

おしゃれなカフェの中で、うーんと先輩は眉をひそめた。

雨音 光

保健室の先生は、牧野先生のことが好きなのかもしれないね

川越 晴華

そうだとしたら、保健室の先生が噂を流してるのかもしれませんね

雨音 光

あり得るよね……噂の出所が気になるなあ。

幸谷さんは、誰からその噂を聞いたんだろうね

川越 晴華

確かに。舞に訊いてみましょうか

探偵のように推理できたらいいな。

それぐらいの軽い気持ちで、私は舞ににゃいんで連絡をした。

川越 晴華

送信! あ、すぐに読んだみたいです。

返事、すぐに来そうです……あ、きたきた!

まさか、こんな予想外の返事がくるとは、思いもせずに。

川越 晴華

……え、ええ!?

pagetop