やがて拍手も歓声も止む。
やがて拍手も歓声も止む。
再び水夜が俺に近づいてきていた。
どうしたんだ、水夜?
今すぐやって欲しいことがあるの
やって欲しいこと?
俺は首を傾げた。
彼らに名前を付けて
そういって彼女は視線で救済者たちを指し示した。
統制を取るための手段よ。個々の自尊心を満たしてやる。
名前を与えることにより彼らをあなたの支配下にあると認識させる。
あなたの好きなようにでいい。この世界だけの、彼らの名前を付けて
俺はその説明がにわかには信じられなかった。
しかしそれがこのインサニアを率いてきたであろう水夜の言うことなら信じざるを得ない。
そう。どうして彼女自身がそうするのではなく俺にそれをさせようとしているのか。
俺はその意味を知らなくてはならない。
わかった
続いて俺は救済者たちに向かって声を挙げる。
お前たちにこの世界での名前を与える
即座に彼らは沸き立った。
では、そこのチェックの青年
俺は一番先頭に立つ好青年を指さす。
はい、救世主様!
お前の名前は………そうだな。『魔術師』だ
『魔術師』………とてもいい響きです。ああ、救世主様に名前を頂くとは、なんとありがたき幸せ!
『魔術師』が歓喜に満ち踊りださんばかりであるのを尻目に、今度は若い女二人組が前に出てきた。
私たちにも名前を
………よし。お前は『太陽』。そしてお前は『月』だ
すると二人はキャーキャーと感謝を意味するらしい奇声を上げて跳ねまわった。
次に目に映ったのは制服の少年に朗らかそうな老人。
お前はその暗い見た目から『隠者』。それから老人は『教皇』だ
ありがとうございます!
そんなやり取りを続けて、俺は残りの十数人全員に名前を与え終えた。
救済者らが貰った名前を互いに嬉々として披露し合っている姿を見ると大したことをしたわけでもないのに一仕事を終えた感触に浸る。
ふいに水夜が俺の先に出て、挙手し視線を集めた。
数刻にして訪れる静寂。
救世主の言葉は以上。持ち場に戻りなさい
「「はい!
宣言するように高らかに水夜が言うと、救済者は先ほどまでの馴れ合いから一転、緊張した面持ちで屋上唯一の扉から去って行く。
持ち場とやらに戻るのだろう。俺のためだけに集まっていたに違いない。
その行動は俊敏で見ていて気持ちのいいものだった。
しかし信者のうちの一人の男だけが残り、俺と水夜に向かい合う。
それは確か俺がついさっき『教皇』と名付けた老人だった。
どうしたの。持ち場は?
僭越ながら。少しだけ救世主様とお言葉を交わせないでしょうか
だめ。これから夏月は色々学ばなくてはいけない
ほんの数分。いえ一分でいいんです
一分くらいならいいんじゃないか、水夜?
………一分だけよ
渋々水夜は俺の横から離れる。
老人は俺の前で一度頭を下げ、そのまま言った。
私の妻は。殺されました
………
犯人は今でも捕まっていません。しかし私は犯人なんていなかったのではないかと思っています。
いえ、もちろんいるいないで言ったらいるのでしょう。
しかし私が言いたいのはつまり救世主様が先ほどおっしゃったことと同じです
私の妻はこの世界に殺されたのです。この世界に渦巻く悪意に。
弱かった。とても弱い人だった。妻はあまりに優しく他人を傷つけられなかった。
だから殺されたのです。そんな馬鹿な話があっていいのでしょうか。
救世主様。私は憎いです。この世界が。この世界を作り上げた何かが。
どうか。無意味に老いた世捨て人の戯言ですが、お聞きください。
どうか世界を救ってください。妻のような者をこれ以上殺させないでください
時間
水夜が冷酷にも告げる。しかし老人は満ち足りた顔で首肯した。
わかりました。持ち場に戻ります。救世主様、水夜様。感謝いたします。
もちろん私も微力ながらこれからも命がけで働く所存です。どうか
そう残して彼は去っていった。
そして俺と水夜だけが屋上の中心に取り残される。
水夜がぽつりと言った。
あの人は最初に私がインサニアを立ち上げた時からの人々のうちの一人よ
そうか
道理で想いが誰よりも強いのだろう。世界への。救われたいという想い。
それよりも。流石ね、夏月
何がだ?
一瞬で彼らの心を掴んだ演説
あぁ、そうするべきだと思ったからそうしただけだ
あなたに自覚はないのだろうけど、それは普通の人にはできない資質よ。素晴らしい
ありがとう
どうしてか、ここまで褒められても普段なら困惑するほどに湧くだろう照れや恥じらいを感じない。
どこかにその水夜の評価を正当、いや当然と感じている俺がいるからだ。
だってここは『ムンドゥス』なのだから。
俺のための場所なのだから。
それよりも水夜、持ち場っていうのは?
偵察班、防衛班、奇襲班のこと
水夜が彼らの吸い込まれた扉に目をやる。偵察、防衛、奇襲。そして戦うと言った。
『敵』がいるのだ。
救済者らにあそこまで宣っておきながら苦笑が漏れるけれど。俺はいまだ、どうやってこの世界を救えばいいのかもわかっていなかった。
しかしきっとそれは瑣末な問題だ。
俺は救える。そして俺には救う意志がある。
なら世界は救われる。
夏月、あなたにはこれから救世主として『すべきこと』を教える
常時あまり抑揚のない水夜の声が、この時は普段以上に低く響く。
これから聞かされることの重大さを自ずと悟る。
………ああ、頼む
しかしそれはただの手段で恐るに足らない。俺は努めて平坦な返事をした。
そんな俺のようすを確認するように少しの間が空いてから、水夜は淡々と語り出す。
あなたには、『モルタリス』という化け物を殺してもらう
モルタリス
そう。世界を腐らせる、化け物。影。陰なる者
世界を腐らせる………
フェブラはあなたの言ったとおり、危機に晒され、腐敗しようとしている。
その原因は当然、向こうの世界にあると思われている。何か原因があるから争いがあり、貧困があるのだと、人々は信じてる
でも本当はそうではない。重なりあい結ばれあう因果の糸をいくつも手繰っていけば、すべての不幸は人間の無意識に共有する精神の奥底に繋がるの
そして人々の精神からへその緒のように伸びる悪の根源はこちらの世界に立ち上がる。それがモルタリス
だからそれを殺すのか
そうよ。この世界、ムンドゥスと向こうの世界、フェブラは鏡合わせのようにできている。
フェブラにある建物も、自然も、同じようにある。ただし車や動物のような意思なく動くものはこちらに存在しない。
だけどもっと決定的に違うものがある。
それは人。ムンドゥスにおける人は二種類ある。『影』と『モルタリス』。
それらはフェブラの人間一人一人に対応してそのどちらかが存在する。
多くの人に対応するのは『影』よ。だけど稀に『モルタリス』を持ってしまう人がいる
俺はどうなんだ?水夜や、インサニアの救済者たちは?
『影』よ。そして私たちはそれらとの精神的な繋がりを媒体に、薬を契機としてこちら側へとやってくる。
だからこの世界での私たちには影がない。『影』も、影も、ね
足元を指さされた。見下ろすと確かに俺と水夜には影が見当たらない。
そしてここからが肝心。『モルタリス』を持つフェブラの人々は腐敗する
腐敗?
ふいに教室の光景が思い出される。弱者と強者の依存関係。
そう、性根から腐り果てる。正義を信じない。善人たろうと志さない。
そして惰性で生を蝕む。本物の幸福を求めようとしない。偽りに満たされ、そこで思考停止をする
いるでしょう、あなたの周りにも
そう囁く。
同じ教室に収まる彼や彼女を思い出す。
そして最悪なのは、『モルタリス』が感染するということ。
『モルタリス』はこちらの世界で『影』を食べる。
食べられた『影』は『モルタリス』になる。
そうやって『モルタリス』が増える。フェブラは『モルタリス』を持つもので満たされる
それは狂おしいほどの絶望。あまりに想像を超える話であるのに、その事実を聞いた俺の感情はそれ一色になる。
そうなるとどうなるんだ?
俺は震える声で、それ以上聞きたくないという心情を握りつぶして尋ねた。
モルタリスに汚染された人間の世界は。フェブラは。どうなるのか。
滅ぶ、と思われている
滅ぶ?でもその。それって最低の人間が増えるってだけだろ?
最低の人間”だけ”になるのよ
…………
俺は絶句してしまった。それは想像すら及ばない世界。隣人すら信じられず、契約は意味を成さない。
暴力だって秩序を形成できないだろう。
獣の世界。
救いのない。日常の。最果て。
それを防ぐために、俺たちはどうすれば?
言ったでしょ、モルタリスを殺す
モルタリス。俺は何度も脳内でその言葉を垂れ流し、徹底的に刷り込む。
その存在こそが『敵』。
わかった。俺はモルタリスを殺す
噛みしめるように復唱する。
これ以上の感染を食い止めるの。そのためには、モルタリスを一匹残らず殺すしかない
俺は何度も頭に叩き込む。世界を救う。モルタリスを殺す。この二つをイコールで結ぶ。
だけど。ふいに疑問に思う。
そのモルタリスを殺した時、それに対応するフェブラの人間はどうなるんだ?
尋ねようとしたその瞬間。
救世主様!
ついさっき俺自身が『隠者』と名付けた青海高校の制服姿の少年が、屋内への扉から突如として現れた。
あたかもごまかされたかのように。俺の頭から疑問は忘れ去られる。
どうした
モルタリスが、偵察班により発見されました。ここから一キロほどの地点です
息継ぎする間もなく捲し立てる。
現在は戦闘は終了し、水夜様の以前からの指示通り、他の救済者による捕縛作業に移っております。救世主様も現場に向かってください
ここまで言い終えた隠者は、苦しそうに肩で息をしている。相当、急いできたのだろう。
モルタリスはこの世界のどこにでもいる。彼の報告したように
………なるほど。そのための偵察班か
俺は知らず拳を握り身を引き締める。武者震い。
よし行こう。案内を頼む