目を開けると、そこには真っ赤に染まった夕焼けのような世界が広がっていた。

空は、どことなく不安を抱いてしまうような、どこまでも赤の世界。

ここがムンドゥス………?

視線を空から下へ降ろすと、見覚えのあるフェンスのようなものが視認できた。

学校の屋上、ということなのだろうか?

そう。先ほど倒れたそのままの場所とまったく同じ形の景色。

ただ決定的に色だけが違う。

赤。血のような。

起きた?


水夜の声がした。

気だるさの支配する体を無理に起こし声の方を振り向くと、注射を打つ前と同様、制服姿の水夜の姿が目に映る。

しかし彼女の後ろに、気を失う前とは違って。

ざっと数えて二十人くらいだろうか、人だかりが出来ている。

俺と同じ青海高校の制服を着た少年がいると思えば、チェックを爽やかに着こなした好青年風な男。

その後ろには恐らく二十代前半と思われる若い女性二人組――片方がショートボブの明るそうな娘で、もう片方がセミロングの大人しそうな娘――そしてその横にはコートを着た老人。

多様な人間が水夜の後ろに集まっており、そして皆が一様に俺を見つめていた。

何故かこれだけの人数を相手に恐怖を覚えない。何故なら、そう。その視線はまるで――

集団のうちの一人、爽やかな青年が突如声を上げた。

救世主様が……、救世主様が……お目覚めになったぞ!

その声と同時に、群衆の間でざわめきが波紋のように広がる。

本当……なの!?

きゅ……救世主様………救世主さまああああああ


根の暗そうな小柄の少年が、その体躯に似つかわしくない声量で叫ぶ。

救世主様!救世主様!救世主様!

世界が、ついに世界が救われるのだな…………!


多くの声が発せられる。その視線の先はすべて俺。

しかし当の俺は見知らぬ連中の歓声やら叫び声やらに戸惑い、異常な熱気に取り残される。

丁度俺と群衆の狭間に立つ水夜が、背を向けたままに手を挙げ彼らを制した。

皆、静かに

すると騒いでいた群衆がピタリと静まり返る。

統制が取れた軍隊を見ているかのようだった。誰一人として水夜の言葉に従わないものはなく、呼吸さえ止めたのではないかと思わせるほどに不動。

目だけが爛々と期待に満ち俺だけを見ている。

どういうことかまだわからない。だが少なくとも水夜に彼らを統制する力があることはわかった。

できれば静かにさせるだけでなく、視線も俺から逸らすように言って欲しかったけれど。

不自然なまでの静寂と熱烈な観衆の真ん中で、俺は少しずつ混乱した脳に思考を取り戻した。

意外にも俺はどこまでも冷静だった。あるいは混乱し過ぎて一周りしてしまったのかもしれない。

ともかく周囲の状況を確認し、自分の現在を把握する。

熱帯地域を思わせるようなじめっと生暖かい空気を、思い出したように深く吸い込み肺の奥まで満たす。

不快感を感じるはずのその空気はどこか心地よく感じられ、血に混じり体中をめぐる。

…………ああ


否が応でも俺は来てしまったのだと知る。

このムンドゥスという世界に。

本当にあったのか。妄想ではなかったのか。

そんな思いが駆け巡る脳裏も、現実に目の前でここまで見せつけられたら認めざるを得ない。

ムンドゥスはあったんだ。水夜は正しかった。

俺の選択は報われた。

しかし未だ与えられない、確かな情報を求めて立ち上がる。

彼が救世主。間宮夏月


俺が落ち着いたのを見てとったらしい。水夜が静寂を破り群衆に向かって俺を指し示す。

途端、彼らの間で再びざわめきが生まれる。

なんと神々しい容姿だ………救世主様………

闇は光に、黒は白へ。善は悪を食らい、世界は救世主様に導かれる

ああ………あの方は救世主にして………我々の神です………


漏れる言葉に耳を傾けるとこの人々は皆、俺のことを救世主だと思っているらしい。

いや、知っているらしい。

再び水夜は手を掲げ、群衆を静める。そのまま俺の方へ歩みよる。

ここがムンドゥス

………

不気味に感じる?


尋ねられる。しかし。

………いや。こう言うと勘違いされるかもしれないけど。心地いい


そう。

この赤い世界。四方を赤に囲まれた世界。

赤、赤、赤。

ここなら例え俺が醜く汚くとも容易く受け入れてくれそうに思える。

俺の返答を聞いた水夜は不意を突かれた顔を見せ、すぐに小さく笑った。

やっぱりあなたには資質がある

資質?

そう。類なき救世主の天賦の資質


救世主としての資質。本当に、自分にそんなものがあるのだろうか。

わからない。

ぜんぶ説明する。まず、彼らは『救済者』。
『救世主』たるあなたを待ち望み続けた者達


水夜は後方にいる群衆に目を向けた。つられて俺もそっちに目をやる。

群衆が目に見えない反応を示し、瞬時に緊張が張り巡らされる

彼らは命を賭してでも世界を救うと決意した者達。あなたが救世主であることも知っている。

普段は私と同じように『フェブラ』で正体を隠して生きているけれど、ムンドゥスではこうして互いに集い、世界を救うために戦う

ここで戦うことによって、『フェブラ』が救われるから。彼らと私は人知れず、長い間ともに戦ってきた

フェブラ?

向こうの世界。あなたが生きていた

………なるほど

彼ら『救済者』と『救世主』たるあなた。合わせた組織としての名前は『インサニア』。

あなたも含めた私達の目的はここで戦い、二つの世界を救うこと


見渡す限り。青年、青海高生、老人、若い女性二人組、その他大勢。

彼らの目は皆期待に満ち、輝いていた。戦うものだけの持つ覚悟を背景とした虹彩。

皆が救世主の言葉を待っているわ

俺の?

えぇ


水夜は譲るように彼らの前を空けた。

代わりに俺は、遮る者のない素のままで彼らと向き合う。

ざわめく群衆。

視線が集まる。救世主たる俺一点に向けて。

俺は見返すように『救済者』を一人ずつゆっくりと眺め渡した。

場に緊張が走り、全ての物音が消え、密度の高い空気が俺と彼らを覆う。

…………


正直、救世主としての資質が俺にあるという実感はない。けれど。

俺は救世主だ。そうあってしまったのだ。

そして救世主は『救済者』を導き、世界を救わなければならない。

ムンドゥスという異世界が存在した今、俺が救世主であることにも疑いはない。

いや疑ってはいけない。もう戻れないのだから。

それにもうこれはただの自己承認欲求ではなく、皆の、世界の、希望である。

ならば俺は。

俺は、救世主だ


張りつめた空気の中静かに切り出す。語る中身など考えない。

しかし言葉は思うままに紡がれる。どこにそんなセリフが用意されていたのかと不思議になるほど。

世界は虚偽で満ちている

世界は悪で満ちている

世界は暴力で満ちている


ゆっくり、諭すように聞かせる。

感情のボルテージを声量に上乗せする。

群衆の中から、息をのむ音が聞こえてくるようだ。

世界は今、その天秤を一方へ傾け始めている

世界は今、その大きな転換点を迎えている

世界は今、その混沌を押し隠し、怠惰している

世界は今、過ちを認めず弱者が食い荒らされている

世界は今、その腐敗を放置し、自身を腐らせ続けている


そう。

世界は今。

フェブラと呼ばれるそこには。

その中にあまりにも強大な悪を孕んでいる。

救いのない。俺一人救えない。日常。

悪はのさばる。哨戒機は既に警報を鳴らし続けている。運命を自ら駆逐し狂わせる者に鉄槌を!

世界は狂える。悪は真実を押し隠し続けている。秩序と崩壊がうずめく混沌に、地獄の猛火を!


真っ直ぐな救済者達の瞳に、俺は必死に『言葉』を投げる。

届いて欲しい。伝わらないはずがない。

呼吸がシンクロし、彼らは俺の声に脳を揺さぶられる。

俺の言葉は本物だ。

俺は気付いた。世界を救わなければならないことに!

俺は気付いた。自身が立ち上がらなければならないことに!

俺たちは、救わなければいけない、フェブラを!そのためにここで戦おう!!


救済者はたった一度きりの奇跡を今、目の前にしている。ここは伝説の幕開けだ。

あるものはひたすらに涙を流し続け、またあるものは雄たけびを上げ、あるものは祝福を唱えはじめる。

その様子に俺が背負ったものを。背負わされたものを自覚し。震える。

俺は世界を救ってみせよう!!


世界を。ムンドゥスを。フェブラを。救ってやる。

同志よ、俺についてこい


すべての意志を包み込むようにその一言を押し出す。

「「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!」」」」」


鼓膜が割れんばかりの歓声が、このムンドゥスのたった一点を揺さぶる。

どうやら、俺の『言葉』は届いたようだ。

止むことのない歓声と拍手。

そのいくつもの想いが俺をここに立たせ、戦うことを欲望させる。

つーっと、頬を何かが伝った。

それは一筋の涙だった。いつ以来だろう。涙を流すなんて。

ああ、彼らとなら。

彼らとならば、世界も救える。

救われる。

そう、確信した。

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