私は帰路を歩きながら、大きなため息をついた。



 吐いた息が白くなり、寒さが一層際立った。



 コートのポケットに手をつっこみ、足を早める。



 プログラマーの専門学校を卒業し、そのままIT業界へと足を踏み入れたのだが、やめておけばよかったと後悔することも多い。


 特にここ数ヶ月は酷かった。



 私が関わるプロジェクトは最初から厳しいスケジュールを組まされ、無理やり納品日に間に合わせる形となった。



 結果、摘出される不具合の数々。



 当たり前だ。


 十分な試験も行えなかったのだから。


 品質以前の問題だと憤怒する上司。


 対応に追われ、残業の日々。



 日付が変わる瞬間を会社で迎えるのが当たり前となっていたが、それもようやく落ち着いてきた。



 会社の最寄駅で電車の到着を待つ。


 ホームにぶら下がった時計は八時二十分を指していた。



 今日は久しぶりに早く帰れる。



 そのことをメールで琴葉に伝えた。



 琴葉は、私の大好物である激辛ペペロンチーノを作って待っていると返信してくれた。



 彼女の作るペペロンチーノは、本人が食べれないほどの辛さなのだ。

山根琴葉

あ、大変

 以前、琴葉はいまいち事の重大さが伝わらないトーンでそう言った。


 そのあと琴葉が運んできたペペロンチーノを一口食べたとき、あまりの辛さに舌を出しっぱなしにしてヒーヒーわめいた。


 聞くところによると、特性の香辛料をふりかけた際に蓋がポロリと取れて中身が全部飛び出したそうだ。


 それを何食わぬ顔で混ぜて、そのまま私の前に出したという。



 普通ならそれ以後、辛いものが苦手になりそうなものだが、癖になってしまったのだから不思議だ。




 私が琴葉との思い出に浸っていると、ズボンのポケットに入れていた携帯電話がブルブル震えた。

渡利昌也

どうした、アキオ

 私は着信を受け、電話の相手に言った。

うっす。
来週の土曜、空いてね?

渡利昌也

あー、多分空いてるよ。
飲みか?

そうなんだが。
うらべっちが久々に帰ってくるんだってよ

渡利昌也

おお、そうなんだ。
すっごい久しぶりじゃん

ホアチャーにも連絡してるから、ちゃんと空けといてくれよな

 うらべっちは大学卒業後、上京して大手企業に就職した。


 彼と会うのは四年ぶりぐらいか。




 アキオは地元の中小企業でそれなりに上手く立ち回っている。



 ホアチャーも工場でマネージャーをこなしているという。



 彼らとは高校を卒業してからも、ずっとつるんできた。


 むしろ卒業後に仲良くなったというべきか。



 一時は合わない日が無いほど、とにかく彼らと遊び歩いた。



 だから二十代後半を迎えた今となっても、度々飲みに行く仲なのだ。



 うらべっちのことを聞いて、私は少し思い出にふけながら歩いた。



 加藤君はどうしているのか。


 彼とは高校卒業後に疎遠となり、全然会ってない。


 飯塚から聞いたが、上京して今は結婚しているらしい。


 相手は倖田さんではないとのことだ。



 倖田さんはどうしてるかな。


 今となっては知る術などない。



 ちなみに飯塚は今、売れない漫画家として奮闘中だ。


 まったく人生というのはどこでどうなるかわからない。



 そういえば飯塚は高校生の頃、琴葉にイラスト対決を申し出たっけ。


 少なからず琴葉の影響を受けているのだろう。




 思い出を噛み締めながら夜の住宅街を歩く。



 この辺は九時にもなるとほとんど人通りがない。




 道路を点々と照らす外灯の光を辿り、琴葉の待つマンションの目前までたどり着いた。



 私は三階にある自分の部屋を見上げた。



 ベランダから二つの人影が私に手を振っている。



 最初、自分の部屋を間違えたのかと思い、端から部屋を数えた。


 やはり自分の部屋だ。



 明かりが付いている。



 琴葉が中にいるはずだ。



 あの二つの影は誰だろう。



 背丈から小さな子供だとわかるが、暗くて顔がよく見えなかった。

 私は走ってマンションの階段を駆け上り、部屋へとたどり着いた。



 すかさず鍵を空け、中に入る。

渡利昌也

ただいま

 私はそう言い放って靴を脱ぎ、ベランダを目指した。

山根琴葉

おかえりなさい、今日は早いね

 琴葉に声をかけられ、私は足を止めた。

渡利昌也

あのさ、ベランダに子供がいたんだけど

山根琴葉

え?

 私は琴葉にそう言いながら、カーテンを開けてベランダを確認した。


 しかし、そこには誰もいなかった。

渡利昌也

ごめん、気のせいらしい

山根琴葉

ふふ、変な昌也。
ご飯できてるけど、先にお風呂入る?

渡利昌也

いや、冷める前に食べるよ。
今日はペペロンだろ?

山根琴葉

えへへ。
ビールも冷やしてるよ

 琴葉はにっこり笑って冷蔵庫へ向かった。



 テーブルには既に暖かいペペロンチーノが置かれている。



 琴葉の席には私のメニューと異なり、大学芋とシーザーサラダが置かれていた。

山根琴葉

今日、嬉しいことがあったんだ。
聞いてくれる?

 琴葉は冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら私に言った。

渡利昌也

もしかして、絵本?

山根琴葉

うん。
私の絵本が子供向け番組で映像化されることになったんだよ

渡利昌也

やったなぁ。
あれだろ?
豚と地底人のやつ。
あれ、シュールで面白いって思ってたんだよなぁ

 琴葉は漫画家ではなく絵本作家になった。





 きっかけは数年前。



 琴葉が双子の子供をお腹に宿した時のことだ。



 生まれた後のことを考えて絵本を色々見ていたら、絵本の世界にのめり込んだわけである。

山根琴葉

でも、もう一つの方はダメだったな。
なんかありがちだって

 もう一つというのは、双子の子供が過去に行って若い頃のお父さんとお母さんの仲を取り持つという、絵本というより漫画っぽい話だ。



 琴葉は未だに双子のことが忘れられないみたいだ。



 エコーで確認したところ、男の子と女の子だとわかった。



 二人で名前も決めていた。



 男の子は水樹、女の子は水実。




 琴葉は二人の子供と出会うのを心待ちにしていた。





 だが、流産してしまったのだ。




 だからせめて、物語の中だけでも生きてて欲しいという願いを込めた作品だと思う。

渡利昌也

琴葉、相変わらず美味しいよこれ

 私はしんみりしている琴葉に、フォークですくい上げたペペロンチーノを掲げた。

山根琴葉

よく食べれるね、そんな辛いの

 笑いながら琴葉が言った。



 その時、私の後ろから子供の笑い声が聞こえた。



 私の後ろにはベランダがある。

「パパ、ママ。いってきます」

 二人分の子供の声で、私には確かに聞こえた。



 私はゆっくり振り向いた。

渡利昌也

いってらっしゃい

 誰もいないベランダに向かって私は言った。

山根琴葉

どうしたの?

渡利昌也

なんでもないよ

 琴葉には聞こえなかったらしい。

山根琴葉

ところでね。
昌也

渡利昌也

なに?

 琴葉は急にもじもじしてうつむいた。

山根琴葉

子供が欲しいな

 双子を失って以来、二度と口にしないと思っていた言葉だった。



 私は嬉しかった。

渡利昌也

わかった。
張り切っちゃうよ俺

山根琴葉

えっち

 勢いよくペペロンを口に頬張る私に、琴葉がポソリと言った。

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