黒狛のオフィスで、紫月は社長の池谷杏樹から厳かに通達される。
あなたに無期限の休暇を与えるわ
黒狛のオフィスで、紫月は社長の池谷杏樹から厳かに通達される。
あいつが何を思って
勝手な真似をしたのかは知らない
でもどのみち、彼女の問題が解決しない限りは紫月君だってまともに仕事出来ないでしょう
……はい
最近の紫月は仕事でのミスが多い。浮気調査の依頼では依頼者への定時連絡を忘れたり、報告書に必要な写真の撮影では決定的なシャッターチャンスを撮り逃すといった致命的な失敗を何度も繰り返している。
これには懐の広い杏樹も頭を抱えていた。
あなたはどうにかして
斉藤さんの問題を片付けなさい
それが出来ない限り、うちへの
職場復帰は一切認めない
いいわね?
はい
そろそろ行く時間でしょ?
さっさとなさい
杏樹に急かされ、紫月は心なしか縮こまった様子でオフィスから去った。
彼が消えてしばらくすると、デスクにぐったりと頬をくっつけていた美作玲が多少気怠そうに言った。
随分と厳しいんですねー
無駄に優しくすると
余計に傷つく子なの
何気にストイックな
ところがあるから
でも、どうにかしろったって、
本当にどうすればいいのやら
もしかしたら一生どうにも
できないかもしれないのに
分かってる
その時はまた考えるから
こちらとて、紫月が長期間に渡って事務所を抜けるのは相当きつい。彼のフットワークの軽さは黒狛の要でもあるのだから。それに、黒狛が裏社会から戦闘能力最強の探偵事務所と謳われているのは、主に紫月と、彼を育てた東屋轟に依るところが大きい。
杏樹は切り替えるように訊ねた。
玲。そういや、素行調査の件は
どうなったん?
いま東屋さんが行ってるので最後
でも、最近多すぎじゃないですか?
行き着く先がみーんな揃いも揃って
宗教団体とはねー
ここ数日間は未来学会という組織の名前を聞かない日が無い。客の数だけ稼ぎを得られるという原理がより明白に現れる職業に就いているだけあって、依頼者の数は杏樹達にとっても生命線なのだが、こうも同じ結果が続くと少々飽き飽きしてくる。これなら浮気調査を何件も受けていた方がまだマシだ。
ただいま戻りましたー
まるで狩猟を終えた狩人のように、東屋轟がくたびれた様子で帰ってきた。元々が熊みたいに大柄な男なので、仕事から戻った時の彼は大体そんな感じだ。
社長。言っちゃなんですが、
そろそろ飽きてきたんすけど
安心しなさい。別に怒らないから
杏樹がコーヒーサーバーを操作する。
二人共、本当にお疲れ様
いまコーヒー淹れるから
あざーっす
コーヒーより休みが欲しい……
だったら私はコーヒーも
休みも両方欲しいわ
苦笑しつつ、杏樹は淹れたてのコーヒーが入ったカップを二人に手渡した。
でも、いまだけは辛抱して
そうだぞ、美作
あまり我が儘を言っちゃいけない
社長はこれに加えて、元・旦那と
一悶着の真っ最中だからな
紫月から斉藤久美の話を聞いた瞬間、杏樹はすぐに白猫の事務所に電話を入れ、その場で素敵な四文字言葉が激しく飛び交うような口論を繰り広げた。詳しい会話の内容は放送禁止用語が羅列するので伏せるが、近くで聞いていた玲と轟が、二人にしては珍しくやけに怯えていたのは記憶に新しい。
あの会話の中で
死ね!
と何回叫んだだろう。怒りに身を任せ過ぎたせいか、自分でもあまり覚えていない。
いまでこそ冷静だが、それでも内心ではまだ腸が煮えくり返っている。
……いまはとりあえず、
依頼の仕事を一つ一つ、
丁寧に確実に片付けるの
現状、それしか私達に出来ることは
無いと思って
真摯な声音を装った指示も、自分で発しておいて、実に空々しく感じてしまった。
無期限の休暇――言ってみればクビを宣告されたようなものだ。どうやら自分は、とうとう杏樹にも見放されてしまったらしい。
仕方ないか、という気分を引きずり、紫月はとりあえず腹ごしらえから先に済ましてみることにした。嫌な気分も腹に無理矢理栄養を詰め込めば鬱にはならなくて済みそうだと判断したからだ。
足は自然と、青葉とよく行くラーメン屋に踏み込んでいた。
お? いらっしゃい、黒い兄ちゃん
ラーメン屋の店主が麺を茹でながら気さくに挨拶してくる。余談だが、紫月が黒い兄ちゃんと呼ばれているのは、紫月自身が黒い私服を好むからだ。ついでに言うと、青葉は同じ理由で白い姉ちゃんと呼ばれている。
ちなみに今日の店主はスキンヘッドではなく茶髪のズラを被っている。最近紫月と一緒に来るようになった龍也とキャラが被るから、という理由らしい。
今日は白い姉ちゃんと一緒じゃないのかい?
ええ、まあ
なんでぇ、浮かない顔して
白い姉ちゃんと喧嘩でもしたか?
いえ。あいつとはいつでもラブラブです
お熱いねぇ
ささ、適当な席に座んな
促されたので、紫月は手近なカウンター席に腰を落ち着けた。
白果楼を注文してしばらく待っている間、紫月はちらっと、二つ空いた先の席に座る背広の男性を見遣る。
目が合うと、男性の方が目を丸くしてこちらを凝視し始めた。
おう? お前、あん時の高校生か?
あなたは……
この男なら知っている。杏樹がよく話題に出す、新渡戸という彩萌署の刑事だ。彼にはこちらの素性を明かしてはいないが、前田健の死体を発見した時に通報して、その時初めて会ったので互いに顔見知りだったりする。
新渡戸はたったいまやってきたラーメンを前に目を輝かせた。
おお、たしかに美味そうだ。なあ、坊主
え……ええ
ここは俺の知り合いの娘が
教えてくれた店でな
よくボーイフレンドと一緒に
ここで夕食を済ましているらしい
そうなんですか
自分と青葉以外にここを贔屓にしているアベックがいたのか。少々意外だ。
坊主は――たしか、葉群紫月とか
言ったっけか
新渡戸は天井を見る素振りをして訊ねてくる。
お前、随分と顔色悪いみたいだが、
大丈夫か?
誰の目から見てもそう映るんすね
だったら大丈夫じゃないかも
単に体調が悪いんじゃなさそうだな
どうだ?
ここで再会したのも何かの縁だ
俺で良かったら
相談相手にはなるぜ?
思春期のお悩みなんざ一発で
解決してやるよ
……………………
何でここまで馴れ馴れしいんだろうか、この男は。
だが、ラーメンが来るまでの時間潰しには使えるか。
……最近、俺のせいで一人の女の子を
貶めてしまいました
俺には彼女を救うことが
出来なかった
新渡戸は話を聞きながら、心底美味そうにラーメンを頬張っている。出来立てを冷ますのはもったいないので、彼の態度はたしかに理には適っている。
彼女は何も出来なかった俺に
救いを求めてきました
それだけで彼女の心が救われるなら
俺はそれでもいいと考えています
でも、そういう状況がいつまでも
続くとは限らない
いつか俺の方でけじめを
つけなきゃならない
だが、どうやって落とし前を
つけようか迷っている
新渡戸が紫月の内心に深くあった部分を明確に掘り出す。
上手いやり方を探そうとしても
見つからない
そういう顔をしているな
まあ、そんなところです
だったら答えは簡単だ。自惚れんな
え?
あまりにも予想外な答えだった。
坊主。たしかお前、いま十五とか十六
ぐらいだったな
たかがその程度しか
生きちゃいないガキが
いっちょ前に誰それを助けたいとか
お前は一体何様のつもりだ?
それは……
誰にどんな事情があったにせよ
ガキは決してヒーローにはなれない
お前さんぐらいの年頃でヒーローに
なりたいってんなら、それこそ十六年の
間に三十二年分の密度で人生を
送ってなきゃ無理な話だろ
少なくとも初対面も同然の相手に送るアドバイスではないように思えた。
でも、不思議と腑に落ちる部分は多い。
ああ、勘違いするなよ
俺だって、お前さんの気持ちも
分からずにこんなことを
言ってる訳じゃない
似たり寄ったりの経験があるからな
そうなんですか?
ああ。護ろうとした奴を救えなかった
痛みはいくらだって受けてきた
そいつの家族は俺達を糾弾し、
時には俺達の罪悪感に付け込んだ
そうやって罪の意識に苛まれて
故人の墓を巡るうちに、いつか自分で
ピリオドを打たないといけないって思った
でも、上手い方法なんて
見つかりはしなかった
それは何故か
体は大人でも、
心はガキのまんまだったからだ
心が大人なら、
上手い方法が見つかると?
さあな。少なくとも、
俺の心はまだガキのまんまだ
屈託なく笑う新渡戸を見て、紫月は心の奥底で悟った。
人間には、こういう敗北感が眠っていたんだ――と。
結局、男はいつまで経っても
バカでガキのまんまだ
だからバカはバカなりに
必死になって考えて、
そしてようやく決めた
解決なんてしなくてもいい
痛みも苦しみも後悔も、
全部背負って墓場まで持って行くってな
……俺には無理ですよ
そこまで強くないから
アホかお前は
これはあくまで俺の方法論だ
新渡戸は残りの麺を全て食い尽くすと、器ごと持ち上げて中のスープを全て飲み干した。彼の体内の塩分濃度がやや心配になってくる。
お前はお前にしかやれない
やり方を考えろ
成長ってのはそういうモンでもある
俺だけの……方法
まあ、俺に言えるのは
精々その程度だ
新渡戸は席を立ち、店主に自分が食べたラーメンに対する高評価を伝えると、ややふらつき気味で店の出入り口に立つ。
最後に、彼は振り向きもせずに告げた。
葉群紫月。お前ならきっと、
そう遠くないうちに
誰かのヒーローになれる
え?
頑張りな
秘蔵の探偵さん
……!?
今度こそ驚いて振り向くと、新渡戸は飄々と店を立ち去った。
彼の背を目で追いながら、紫月は呆然として固まった。
……あの人、俺の正体を?
ほい、兄ちゃん
店主が白果楼を紫月の手前に置く。
良かったじゃねぇか
ああいう人生相談も
貴重な経験だぜ?
……そうですね
もしかしたら、この店主もこちらの正体に気付いているのかもしれない。
だとしたら、自分はとんでもなく隠し事が下手くそな秘密兵器ということになる。
いただきます
空腹のバカが考えて出した結果なんてたかが痴れるだろう。
だから、いまは目の前の出来立てを平らげることにした。考えるのは、その後でも決して遅くはないだろう。
巫女の間は現在、水依と勝巳の貸し切り状態だ。
対面していない者の未来を水依は見通せない。だから、勝巳は自分自身の末路を彼女に見通してもらうことにした。
結果を宣告され、勝巳は勘弁してくれと言わんばかりにため息をついた。
とうとうガサ入れが来るか
警察機構の立ち入りはこちらのコネで徹底的に制限したつもりだ。でも、日本の警察はまだまだ死んではいないようで、ありとあらゆる権力の網をすり抜けてこの牙城に土足で上がり込むつもりでいるらしい。
水依は気遣うように言った。
大丈夫
結局はPSYソルジャーズが
警察を皆殺しにすると思う
その口ぶりだと、警察との
戦闘以降の未来は
確定していないんだな?
うん
だったら先手を打った方がいい
PSYドライバーの準備も
整っている
勝巳はスマホで高白に発信する。彼が応じたのは、律儀にもスリーコールの後だった。
高白。いまから学会の者達に
召集をかける
そろそろPSYドライバー配布の
準備を始めたまえ
かしこまりました
それだけ言って、彼は通話を打ち切った。
勝巳は水依に向き直り、出来るだけ穏やかに告げる。
水依はここで待っていなさい
分かった
これで水穂の悲願が果たされる
あと少しだからな
うん。私も頑張る
健気に応じる彼女の瞳が、いまの勝巳にはナイフで刺されるより痛かった。
水依を産む直前、水穂は切に願っていた。
――私はもう手遅れだけど、これから産まれるあの子だけは幸せに生きられるようにしてやって。
――だって、私みたいに悲しい思いをさせたくないもの。
水依は中学生の頃、生まれつき持ち合わせていた予知能力に加え、サヴァン症候群を疑われた為にクラスメートからいじめを受けていた。
不登校になる一日前。学校から帰ってきた彼女の顔は、目が開いている意外は死人のようだった。
水穂も、実は全く同じ経験をしていたという。
それでも彼女が占い師として活動していたのは、自分の存在が誰かの道標になると心の底から信じていたからだ。
結果として彼女は自らの願いを叶え、勝巳の未来を照らしていた。
根拠の無いおかしな力なんかより、彼女自身のひたむきな愛と優しさが一番の超能力だと、いまでも勝巳は自信を持って言葉に出せる。
そんな彼女が自らの命と引き換えに産み落とした奇跡――井草水依は、自分と水穂を繋ぐ最後の希望だった。
水依だけは……絶対に助ける
自分に言い聞かせるように、勝巳はそっと呟いた。