#2「未来学会」
#2「未来学会」
久美の話では、今日は二時間だけ、誰も自分の部屋に来ないよう主治医に伝えてあるらしい。精神科医からすれば不安要素にしかならないような申し出だが、紫月が傍についているという条件で認めさせたという。
その結果、紫月は彼女の話し相手にさせられていた。
彼女が居ない間の学校はどうなっているか、彼女の知人友人の人間関係についてのあれこれ、昨日見たバラエティ番組の話――自身が持てる限りの探偵スキルを用いて調べ上げた彼女の身辺や趣味嗜好などの情報を総動員した結果、紫月はどうにか前田健の代わりを務められるようになった。
いまの久美は精神を病んだとは思えないくらい快活に笑っていた。まるで紫月から奪った精気で蘇ったみたいだ。
最近、バイトを始めたんだ
紫月は花瓶の水を交換しながらポーカーフェイスで法螺を吹いた。
近くのスーパーでレジ打ちの研修中。思ったよりまごついて苦労しているよ
いきなりどうしたの? お小遣い稼ぎ?
健は人生で一度もバイトをしたことが無い。この情報は以前、久美の身辺調査をしたついでにとりあえず入手しておいたものだ。
親の金で都合出来ない
部分があってさ
私と会える時間が
減っちゃうじゃーん
その分だけ後々になっていいデートが出来るようになるんだよ
それもそっか
こういう会話をしていると、心まで久美の恋人になっているようで、さらなる自己嫌悪に潰されそうになる。顔で笑って、心で泣く感覚とはこういうものなのだろうか。
健? どうかした?
ううん、何でも無い
飄々と彼氏の仮面を被り直し、花瓶を元在った位置に置き直す。ただでさえ出勤時間を遅らせてもらっているのに、これ以上時間を掛けると杏樹がうるさそうだ。
これがさっき法螺を吹いた理由の一つでもある。紫月自身が本当に働いている為、彼女の呼び出しに対しては即応不可能だからだ。
じゃあ、そろそろ時間だから
また来るよね?
うん。必ず
頑張って
頑張る
別れを告げ、理由も無く慎重な足取りで病室を去る。
……これが、あと何回続くんだ?
人気の無い廊下で一人呟き、紫月は扉に背中を預けてずるずると腰を落とす。
もし過去から一人だけ任意の人物を呼び寄せられるなら、それこそ入間宰三を呼んでしまいたい。
いっそいますぐ、前田健と同じように、生きたまま解体して欲しかった。
彩萌警察署の署長室で、新渡戸は署長の小樽一樹を問い詰めていた。
多くの住民から苦情が殺到している
もはや民事で済ませろだなんて言えやしない
新渡戸は署長の机に両手を置いた。
白猫探偵事務所から提供された情報によると、素行調査の対象となっていた人物はほぼ全て未来学会のビルに訪れている。対象はその日のうちにビルを出ているので事件性はほとんど無いと思われますが、依頼件数の多さだって立派な理由の一つでしょうに
そんなに令状を差し押さえられたのが不満かい?
小樽が疲労感一杯といった様子で唸る。
僕だって不本意だ。でも警察庁から直々に釘を刺されちゃってね。猫の尻尾を踏んだと思ったら虎の尾だったという顛末もあり得るぞ、と
我々警察はいつもそんなもんじゃないんですか? ていうか、この案件に対して警察庁に何の権限があるというのです?
堪えてくれ、新渡戸君
声を押し殺すのに必死な様子で小樽は頭を下げた。
僕にだって何が何だかさっぱり分からない。でも、彼から家族の写真を直接突き付けられた時は冷や汗をかいたんだ。もし僕の判断一つで家族の命を危険に晒すような事態に直面したら、私は警察どころか人間ですらなくなってしまう
……分かりました
新渡戸にも家族がいる。小樽の言い分に対して軽々と「そんなのただの脅迫じゃないですか」などとは口にできない。
せっかく白猫の連中が頑張ったのに、これでは無駄骨もいいところだ。
ところで、新渡戸君
小樽が場違いな苦笑を漏らす。
蓮村君と青葉ちゃんは元気かね?
……ええ
突然話題を変えられても驚きはしない。小樽は新渡戸と共に彩萌署と白猫の協力体制を築き上げた理解者であり、元はここの刑事だった幹人とも親交が深く、青葉が白猫の秘密兵器であるという事実を知る数少ない一人だ。
二人にはしばらく会っていないな。申し訳ないが、次に彼らと会った時、不甲斐なくて申し訳ないと白猫の人達に伝言しといてくれないか?
はい。それでは、私はこれで
やりきれない気分のまま署長室を辞して、自分の部署に戻ろうと廊下を歩いていると、今度は正面から駒木定義が歩み寄ってきた。
彼は元・公安の人間で、新渡戸にとって師のような存在である。
よう、新渡戸
その様子だと署長を口説き落とし
損ねたみたいだな
昔から口下手なんすよ
そうかい
ところで、いくつか面白い情報を
拾ってきたんだが
駒木は小脇に抱えていたファイルから何枚かの紙を新渡戸に差し出した。
未来学会の創始者、井草勝巳が立ち上げた中で代表的な会社やそれに関連する組織が行っている主な所業の基本情報だ。ネットを漁ればいくらでも出てくるぜ
いまさらそんなのが何の役に立つと? もう散々調べたでしょうに
興味深いモンを見つけたんだよ
これなんか食いでがありそうだぜ?
駒木がピックアップしたのは、井草氏が起業、経営している医療機器メーカーの製品情報だった。
北条一家がPSYドラッグの流通に一枚噛んでいたのは立証済み。奴らの家の中には未来学会のロゴが描かれた一枚の紙が置かれていた。ここまではお前が自分の目で確かめた筈だが、この製品ってなんだかPSYドラッグと関係があるようには見えないか?
……なになに? 全自動注射器?
その紙面には白い長方形の筆箱みたいな形をした物体に関する詳細情報が載っている。用途から使い方、販売価格や関連商品の一覧といった必要最低限の情報が勢揃いだ。
点滴の発想を携帯用として発展させたもんだろう。機械本体に時間設定の機能が内臓されているから、指定の時刻になれば装填されたアンプルの中身が必要な分だけ人体に投与される。医者による注射の手間をある程度省く為に作られたモンなんだとさ
PSYドラッグをアンプルに充填すれば武器に転用できますね
いいトコに気がついたな。その通り。いまここに載ってるのはあくまで医療目的の品物だが、こいつが戦闘用として開発されているとしたら?
薬漬けの兵隊を生み出す悪魔の機械って訳ですかい。どこのSFっすか
いつもながら馬鹿馬鹿しいにも程がある。
でも、現実には北条時芳のようにPSYドラッグで肉体強化と予知能力を得た実例がある。その当時の話を実際に彼と戦った青葉から聞いた時は眩暈がした。
新渡戸はため息混じりに言った。
何にせよ、令状が有効にならない限り俺達は動けない。いざという時の為に調べておくだけでも楽しい気分にはなれそうですね
だろ? それからよ、もう一個質問
何すか
さっきは何が理由で署長の
説得に失敗した?
上からの圧力らしいです
上?
警察庁のお偉いさんですよ。こっちとは全く関係無いくせにいけしゃあしゃあと
……ほほう?
駒木が一瞬だけ悪い顔になる。
新渡戸。お前、この後は暇か?
時間なら空けられますが
夜、飲みに行こうぜ
別に構いませんが……
よし、決まりな!
じゃ、俺はちょっくら
別の仕事をしてくるわ
子供みたいにはしゃぎ、駒木は身を翻して新渡戸の前から立ち去った。
何だろう。ああいう顔をする駒木は、絶対にこの後、とんでもない何かをやらかすような気がしてならない。
……不安だなぁ
でも、まあ、いいか。あの人のことだから、絶対に何か美味しい情報を掴んでくるに違いない。
そう思ってないと、やってられない心境だった。
今日は青葉も紫月もバイトがあり、あゆも用事があるとかで一緒に遊べないらしい。
だから、いまは龍也と二人っきりだ。
井草さん、本当にいいんすか?
何が?
いや、ほら……こんなオタク向けのお店まで付いてくるなんて
全然おっけー
水依と龍也が訪れたのは、駅に近い商業ビルの中に併設された古書店だった。この店では古書だけでなく、特撮やアニメのフィギュア、カードゲームやCDなんかも取り扱っている。言うなれば、オタクの青春時代の隠れた支えになるような、雑多としながら妙な静寂を内包する小さな箱庭だ。
龍也がよく行くからという理由でこんなところまで足を運んできた訳だが、水依自身も興味が惹かれるものがいくつか点在している。
例えば、ここ近在では滅多に見かけないロシア文学の古書が置いてあるところとか。
ここは俺が彩萌市で安息出来る数少ない店の一つなんです
龍也がアニメ関連のDJCDを漁りながら言った。
人が多いところの店に行くと警察を呼ばれたりなんかして……ほら、俺ってこういう見た目でしょ?
だったら何で自分をそういう風にコーディネートしようなどと思ったのだろうか。
だから人目の少ない店は
本当に助かるんす
ほほう。で、オタク趣味は昔から?
イエス
眩しい笑顔でサムアップを決める龍也であった。
まあ、だからモテないんすけど
火野君はとてもいい子
私が保障する
マジっすか。あざーっす
あんまり本気にはしていない様子だった。
青葉曰く、紫月と龍也の反応は大体似通っているらしい。人の善意を素直に受け止められないのか、それとも正直者は馬鹿を見ると知っているからなのか、女子の発言に対してはあからさまに適当な反応をする癖があるようだ。
こちらは龍也のことを本気でいい人だと思い込んでいるのに、本当に残念な話だ。
お、あったあった
龍也が何かしらのCDを一枚、棚から取り出して満面の笑みを浮かべる。
じゃあ、お会計に行ってきますね
……うん
龍也の背を見送りながら呆然としていると、水依のスマホがメールの着信を報せる。
内容を確認すると、自然と瞑目してしまう。
井草さん?
支払いを終えた龍也が傍から声を掛けてくる。
大丈夫っすか?
まさか立ちくらみでも……
ごめん。今日はもう帰るね
え……あ、はあ……
微妙な反応をする龍也の横をすり抜け、水依は店をそそくさと立ち去った。
俺、何かまずったかな――などという検討違いの不安を抱きつつ、龍也は早足で歩く水依の背を追った。
さっきの会話の何処かに愛想を尽かすような禁句でも含まれていたのか、それともこちらがオタク趣味に夢中だったのがそんなに不服か、あるいは買ったCDのジャケットに嫌悪感を抱いたか。
いや、さすがにその可能性は無いだろう。
無い……と、いいなぁ
呟きつつビルを出ると、水依が近くの車道の路肩に止まっていた黒いリムジンに素早く乗り込んだ。
自分から乗り込んだところを見ると、誘拐された訳ではないのだろうが――
あれは一体……
あなたが火野龍也君ね
!?
後ろから声を掛けてきた相手は、アイシャドウと付けまつげがばっちりと決まった、筋骨隆々のオカマっぽい男だった。
私は王虎。井草家に雇われた用心棒
以後よしなに
そ……その用心棒が俺に何の用っすか? 言っておきますが、俺は決して井草さんに手を出してなんかいませんからね!
まずは人の話を聞きなさい
王虎なる男の態度は実に落ち着き払っていた。
今日は貴方に、水依ちゃんから預かっていたメッセージを伝えに来たの
メッセージ?
しばらくの間、
貴方達には会えなくなる
でも、心配はするなって
会えなくなる?
どういうことっすか
教えられるもんなら
教えてあげたいけどね
あの子も難しい立場にいる
ってことよ
…………
あからさまに妙な話だった。そんなメッセージくらい、水依が自分の口で伝えれば済むだけの話なのに、どうして王虎を介してこういう形で伝えたのだろう。
それから、もう一個
まだあるんすか
あの子はね、貴方に惚れてるの
途端にアホ臭い気分になる。あんな伝言を喰らった上でされるような話ではない。
本当はあの子の口から伝えるべきなんだろうけど、次に会う頃にはバレンタインデーどころかホワイトデーも終わってるだろうし
何を言ってるか理解不能っす
最初から最後まで全部説明してください
全てが終わったら全部話すわ
じゃ、私はこれで
ちょ――
こちらが言い募ろうとした次の一瞬で、王虎の姿はその場から消えていた。
一人残された龍也は、しばらく唖然として立ち尽くしていた。
バレンタインデーは明後日か――などと、どうでもいいことを考えて時間を潰すのは非常に簡単だ。
でも、昨晩に龍也から送られてきたメッセージの内容が頭からこびりついて離れない。
水依がしばらく誰とも会えなくなる――その一点が気になり過ぎて、今日の授業にも身が入らない。
放課後になっても席から離れず、青葉は一人、教室の隅でたそがれていた。
貴陽さん?
担任の聡子に呼ばれ、青葉はようやく我に返った。
どうかしたの?
……いや。何でも無いです
勿論、嘘だ。
ここ数日間、考えることがあまりにも多すぎる。探偵業においては素行調査の結果が全て未来学会とやらに繋がっていたり、昨日から紫月と全く連絡が取れなくなったり――正直、そこらの女子よりずっと容量の大きい筈の脳みそがパンク寸前だ。
心配そうに接してくる聡子をあしらって学校を出ると、青葉はまず真っ先に彩萌駅前に向かい、待ち合わせをしていた龍也と共に行きつけのラーメン屋に入った。
適当なラーメンを注文すると、龍也が先に話を切り出した。
……昨日から葉群さんと全く連絡が取れない。メッセの内容は見ているようなんですが、これがいま話題の既読スルーって奴ですかね
私も同じだ。彼に会おうにもあっちから反応が無いし、電話を掛けても出やしない。あっちはあっちで何かあったのか……まあ、いまのところどうでもいいか
それだけじゃないんすよ
実は東雲さんとも連絡がつかなくて……
何?
あゆはこちらから送られたメッセージに対して比較的早めに返信をくれる律儀な子だ。加えて、既読スルーはあまりしないタイプらしい。
そういえば、彼女は彼女で最近様子がおかしかったような気がする。
紫月君もあゆも生存率は高い
あの二人については
心配無用だろうが……
やっぱり問題は井草さんすね
これから彼女の家に行ってみます?
うーん……
青葉が迷うのにも理由がある。王虎の存在だ。
ある程度戦闘に精通した青葉だからこそ、王虎が纏う『気』というものが視える。彼の場合、入間宰三や北条時芳などが散らす『気』とはまた別の、もっとおぞましい何かを感じてしまう。そんな危険人物が住まう邸宅に、わざわざ詰問の為に向かうなど、場合によっては自殺行為もいいところだ。
でも、下手さえ打たなければ一応は無事で済むか。
そうだな。何もしないよりはマシだ
ですな
龍也が頷くと、注文していたラーメンが二人の手前に差し出される。
何故だろう。いざ食べてみると、今日だけはいつもより味付けが薄いような気がした。
駅から井草邸までは、腹ごなしのウォーキングに最適な距離だった。
鉄の門扉を前に立ち止まり、青葉は息を呑んでチャイムを鳴らす。
火野君は水依の家に行ったことは?
無いっす
彼女からは来ない方が
いいと言われてたんで
主に見た目の問題があるのだろう。もし龍也が正面から堂々と入ってきたら、それこそ王虎以外のボディガードが臨戦態勢に突入してしまう。
もう一回チャイムを鳴らしてしばらく待ってみる。誰も出なかった。
留守ですかね?
まさか。ハウスキーパーの一人や二人くらいは――
言いさして、そこで気付いた。
家は決して留守ではない。それどころか、玄関に続く中庭の物陰には複数の気配を感じる。しかも邸宅の窓の一つから、黒光りする何かがひっそりと突き出していた。
月明かりの反射でそれがライフルの銃口だと気付いたのは、玄関口から堂々と王虎が出てきた時だった。
あら、いらっしゃい
王虎が歩み寄りながら気さくに会釈する。
どうしたの?
冷蔵庫のチョコでも取りに来た?
そうだな
ついでに水依の顔も見たくなった
彼女を出してくれ
そこのナイスガイから聞かなかった? 水依ちゃんとはしばらく会えないって
王虎が鉄の門扉を開け、居丈高に青葉を見下ろす。
そこでちょっと待っててちょうだい。貴女と東雲ちゃんのチョコをいますぐ持ってくるから
どうせなら一緒に水依も持ってこい
さーて、どうしようかなー
王虎が飄々と身を翻して玄関口まで戻ろうとする。
その背中に、青葉は懐の自動拳銃――ベレッタM92Fの銃口を突きつける。
あらら
王虎が振り向きもせずに立ち止まる。
玩具の銃……って訳でもなさそうね
貴陽さん!?
さすがに龍也も青葉の行動には驚いている様子だった。
ちょっと、何やってるんすか!
早くそれ仕舞ってください!
ていうか、何処でそんなん手に入れたんすか!?
もう一度言う。水依を出せ
青葉は険を込めて繰り返した。
詳しい事情はともかく、いまは彼女と話がしたい
駄目よ
決心が鈍ったら計画に
支障が出るもの
計画? 何の話だ
青葉には関係無い
王虎の姿を捉えるのに夢中で、既に彼の横をすり抜けて青葉の前に立っていた水依の存在に気付かなかった。
青葉は銃をゆっくり下げ、空いた片手を水依に伸ばす。
しかし、無情にも手を払われてしまった。
……!
触るな
いつもの水依から出る言葉ではなかった。
もう私に関わらないで
いきなりどうした? ちゃんと説明しろ
さようなら
水依が王虎と共に身を翻して歩き出すと、物陰に隠れていた黒いタクティカルスーツの男達が一斉にアサルトライフルの銃口を晒した。
ただでさえ小さな彼女の背中が、青葉の視界の中でさらに小さくなる。
おい、水依! 水依!
返事をしろ!
いますぐ戻って来い!
井草さん!
龍也の呼びかけにすら応じず、水依は家の中にゆっくりと引っ込んだ。迷いの無さをまざまざと見せつけられているようだった。
どうする? 追いかけるか? でも、目の前の護衛部隊を突破した上で王虎を撃破しなければならないのがネックだ。北条一家の一件で幹人からもお咎めを貰っているし、白猫探偵事務所の社員として、これ以上軽率な行動は許されない。
でも、このままでは一生、水依と会えない気がした。
さようなら
の五文字が、何度も脳内の回廊を巡っている。
……火野君は壁の陰に隠れていろ
青葉は懐からもう一丁のベレッタを抜き出して撃鉄を起こす。
貴陽さん、何を――
龍也が口を開いたその時、青葉は門扉を越えて中庭に踏み込んだ。
水依、戻って来い!
しつこい子ねぇ
邸宅の扉にもたれかかった王虎が気怠そうに手を挙げると、青葉の左右からアサルトライフルの銃口が唸った。狙いはこちらの銃だ。
青葉は走りながら身を沈め、ターゲットを見もせずに左右へ二丁の銃を発砲。こちらを狙った二つの銃口が、花でも咲いたみたいに外側へ割れる。
今度はさっきからずっとこちらを狙っていた長距離狙撃用のライフルからの一発だ。これも前に飛んで回避、さっきと同じ要領で発砲して相手の銃口をこちらの銃弾で蓋をする。
ブラボー
王虎が適当に手を叩いて囃し立てる。
奴の相手は後回しだ。護衛部隊もようやくこちらを脅威と思い込んだのか、次はさっきみたいな手ぬるい攻撃をしてこなかった。
正面と左を取り囲んでの十字砲火。青葉は真上に跳躍して銃弾をすべて上空でやり過ごし、天地逆さまの体勢で発砲、連射。こちらを撃ってきた銃と、これからこちらを狙うであろう銃を全て破壊して着地する。
ぬるいな。私を倒したいなら軍隊一個小隊を連れてこい
水依ちゃんも随分と腕の立つボディガードとお友達に持ったわね
王虎が腰のハンドガンを抜いてブローバックを引く。
久々に楽しめそう
私、ドキドキしちゃう
いますぐそのドキドキごと息の根を止めてやろうか
やってみなさい
王虎が無造作に発砲。左手のベレッタが粉々に弾け飛んだ。
……っ!?
速過ぎる。いや、まるで懐から財布を取り出すように無造作だったので、本来なら働いている筈の反射神経が眠ったままだった。
しかも顔色一つ変えずに、この正確なスナイピング。
やっぱり、奴はとびっきりヤバい戦士だ。
どうしたの? さっきの貴女と同じ芸を披露しただけよ?
……この野郎!
青葉が発砲。王虎は涼しい顔で首を逸らして銃弾をやり過ごすと、見かけから想定される以上の速さで青葉に接近、既に抜いていたコンバットナイフで斬り掛かってきた。
銃とナイフの一丁一刀。入間とほぼ同じ戦闘スタイルだ。速さも重さも奴とほぼ互角かそれ以上。唯一の違いは、綺麗なフォームから繰り出される体術の連鎖だった。オカマなのは口調だけじゃないという訳か。
こちらが撃とうとすればあちらのナイフもしくは銃弾が先に急所へ到達する。だから青葉はいまのところ、一切手が出せない状況だ。
相手の動きにはまるで隙が無い。これでは防戦一方もいいところだ。
青葉が一旦後ろに飛び退って距離を取る。
すると、右手のベレッタが地面に弾き落とされ、地面をエアホッケーのように滑る。
何!?
勝負あったわね
王虎が青葉の額にぴたりと照準を合わせる。
これでお分かり? あなたはいまので二回死んだことになるの
つまり、失った銃の数がそのまま青葉の命の数ということだ。
さあ。まだ続ける?
くっ……
もう止めてください!
いままで隠れていた龍也が王虎と青葉の間に割って入る。
これまでの失礼は謝るっす! 貴陽さんもちゃんと連れて帰りますから!
お前、水依が心配じゃないのか!
あんたは井草さんを
悲しませたいんすか!
絶叫の如く彼の叫びは、耳を近づければ鼓膜が破れそうなくらい震えていた。
いまは退却しましょう
話はそれからです
ふざけるな! こんなところで尻尾を撒いて逃げるなんて――
うるさい!
普段は優しい彼が放ったとは思えない台詞と共に、龍也は青葉を脇に抱え上げ、ついでに原型を保ったまま地面に落ちていたベレッタを一丁回収して井草家の敷地から全力疾走で退出する。
住宅街を走っている最中、青葉は何度も龍也の腕の中で暴れ回った。
離せ貴様……!
おい、聞いているのか!
ここであんたが死んだら、井草さんはきっと自分を責めてしまうっす
……ッ
青葉はようやく我に返り、もがくのを止めた。
正論を言っているのは彼の方だ。頭では、最初から分かっていた。
それに……さっきの井草さん、
震えてたっす
こちらが気付かなかった彼女の変化を見抜いていたらしい。龍也が沈痛そうに述べる。
きっと、さっき言ってた計画とやらに貴陽さんを巻き込みたくなかったんす。だからああいう風に拒絶するしか無かったっす。あの子、とても不器用だから
……もういい、降ろせ
龍也が立ち止まって青葉を降ろす。
不思議と、もう水依を追いかけようという気分ではなくなった。
……火野君。明日、時間は空いてるか?
? ええ、一応は
私と一緒に来て欲しい場所がある
いまは諦めるとしても、明日諦めていい理由にはならない。
こうなった以上は、龍也にもこちらの世界を知ってもらう必要がある。
何処っすか?
訊ねる龍也の声がやたら不安げだ。気持ちは分かる。
でも、これが起死回生のチャンスかもしれないのだ。
白猫探偵事務所。私の職場だ
青葉達が去った後、水依はリビングのテーブルで一人、項垂れていた。
本当なら助けて欲しいと思う。でも、これが自らに課せられた使命だというのなら、全うしなければ天国の母親に会わせる顔が無い。
向かい側の席で王虎が黙ってこちらを見守っている。彼は今回の一件をどう捉えているのだろうか。傭兵風情に何を訊ねても、「これも仕事のうち」と言われたらそれまでだ。
おやおや水依お嬢様
どうかなされましたかな?
癇に障る高い声音を響かせて、高白が勝巳を伴って現れた。
高白は勝巳が立ち上げた会社のキーパーソンで、今回の計画においては主軸を成す立場にいる。こちらとしてはあまり会いたくない相手だが、計画の内容が内容だけに仕方ないだろう。
勝巳が後ろから水依の両肩を持つ。
すまなかったね、水依
……いい。これでお父さんが救われるなら……お母さんの代わりになれるなら
違うんだ、水依
私自身はどうだっていい
本当は――
あまり感傷に浸られても
困りますなぁ
高白が開いた扇子で口元を覆い隠す。
今回の計画――『プロジェクト・サイコ』は会長に悲願でしょう。この彩萌市を――いいえ、この世界を異能者集団で埋め尽くし、その根幹たる我々が人類の覇者になる。その為には友人関係なんぞ些細な犠牲でしょう。そして水依お嬢様はこの計画の中心人物。貴女は貴女の使命だけを全うすればそれでいいのです
ちょっと?
そんな言い方は無いんじゃない?
王虎が険しい面持ちで席を立つ。
貴方達からすれば能力的価値の高い商売道具だったとしても、水依ちゃん自身はまだ十六歳の女の子よ? ちょっとはデリカシーを弁えて欲しいものだわ
傭兵風情が何を吐かすのやら。彼女はするべき決断をしたに過ぎない。そこにいまさら私情を挟んで何の得がある? それに、彼女が切り捨てたのは我々に帰依しない下等な人種であろう?
貴方、
もう一度
言ってみなさい
いい
水依が短く二人を制する。
ありがとう、王虎。でも、大丈夫
……そう
王虎が腰のハンドガンに伸びていた手を下ろす。
高白はほくそ笑み、勝巳に向き直る。
では会長。これから水依お嬢様も交えて例の件を
そうだな。水依、もう少しだけ付き合ってもらう。王虎は席を外してくれ
水依と王虎は不承不承、それぞれ頷いた。
リビングを去る王虎の背中が、水依には寂しそうに見えた。