彩萌市総合病院の待合室で、紫月は十五分くらい待ちぼうけを喰らっていた。通りすがりの医者に「どのような用件でお越しですか?」などと訊かれる度に「待ち合わせです」と答えて、かれこれ四回を過ぎただろうか。
ちなみにいまの格好はベンチコートに鹿撃ち帽子だ。あからさまに怪しい。
彩萌市総合病院の待合室で、紫月は十五分くらい待ちぼうけを喰らっていた。通りすがりの医者に「どのような用件でお越しですか?」などと訊かれる度に「待ち合わせです」と答えて、かれこれ四回を過ぎただろうか。
ちなみにいまの格好はベンチコートに鹿撃ち帽子だ。あからさまに怪しい。
葉群紫月君だね?
後ろから声を掛けてきたのは、白スーツに身を包んだ四十代くらいの紳士然とした男だった。特徴は鼻の下に生えるカモメみたいな形の髭である。
彼の正体は、白猫探偵事務所の社長、蓮村幹人だ。
いきなりお呼び立てして申し訳ない
別に構いません
時間には余裕がある
紫月が人相を隠すような恰好をしている理由は、ライバル関係にある会社の社長に自らの素性を知られない為だ。紫月は一応、黒狛探偵社における秘蔵っ子なので、なるべく正体を隠して行動しなければならない。
本来なら変声器も用意する必要があった。でも、ここは病院だ。
ところで、私に何か用件があるという話でしたが
付いてきたまえ
君に見せたいものがある
幹人はこちらの返答を待たずに歩き出した。
呼び出された理由は未だに明かされていない。昨日家に帰った時にいきなり彼から電話が掛かってきた時には心臓が止まるかと思ったが、彼はこちらのそんな心境に構わず、ただ「この病院の来い」とだけ言ってきたのだ。
彼の背中を見て歩きつつ、紫月は一番に聞きたかったことをそのまま口に出した。
蓮村さん。貴方はどうやって私の連絡先を手に入れたのですか?
お互い探偵だろう。なら、理由は自分で調べたまえ
……………………
有無を言わせないとはまさしくこのことだ。
幹人に連れられた先は、精神病患者が収容されている隔離病棟だった。普通なら立ち寄ろうとすら思わない場所だ。
とある個室の前に辿り着き、幹人はネームプレートに記された名前を見遣る。
斉藤久美、と書かれていた。
ここは……
ここへの立ち入りは
既に許可を貰っている
言うや、幹人は躊躇なく扉を開いた。
部屋の中は木の色を基調とした、柔らかな温もりのある内装の小さな空間だった。テレビやベッド、その他最低限の調度類以外はほとんど何も置いていない。
でも、部屋の様子なんて、いまの紫月にはどうでも良かった。
問題は、ベッドの上で窓の一点を眺める、一人の少女の存在だった。
斉藤……先輩
久美の姿は以前と変わらない。それでも見つけられた数少ない違いと言えば、病院指定の白い寝間着と、首と手首に夥しく巻きついた切り傷の跡くらいか。
たしか、君の学校に通う上級生だったな。いまの彼女には我々の声が聞こえていない
聴覚に何か異常でも?
だったら耳鼻科にでも行けばいい
ここは精神病棟だ
やたら幹人が迂遠な言い回しを多用する理由はよく分かっていた。
分かっているだけに、胸が締めつけられそうだった。
事件後の彼女の病状は既に聞き及んでいると思う。極度のPTSDを罹患し、ことあるごとに自傷癖を発現させている。あれだけの悲劇と凌辱を味わったのだ。立ち直れという方が無理な話だろう
玲や杏樹から聞いた話だと、最近になって食事は採れるようになったというので痩せ細ってはいないようだが、やはり医者以外の人間と会話できる精神状態ではないようだ。
この様子では社会復帰にも相当な時間を要する。仮に復帰できたとしても、例の一件は今後の生活に支障を及ぼすだろう
何故、俺にこれを?
君は己の業を直視せねばならない
ようやく、幹人は核心を語った。
元はと言えば、君達黒狛の人間が不用意に依頼を受けなければこのような事態には繋がらずに済んだ。あくまで結果論だがな
……………………
言い返そうにも言葉が出ない。自分にその権利が無いのを理解しているからだ。
葉群君。君は探偵を辞めたまえ
……!
今度こそ、紫月は目を剥いて幹人の顔を見上げた。
彼は紫月の視線なんぞ何処吹く風といった調子で淡々と述べる。
君はこれ以上、このような世界に関わるべきではない。たしかに入間の一件では世話になったが、それはあくまで君自身の落とし前の問題だろう。それ以前に、君は探偵に不向きだと、私は思う
貴方に俺の何が分かる?
少なくとも黒狛の秘密兵器と呼ばれている君が、こうして私に正体を看破された挙句ここへ呼び出されている時点で秘密兵器としても失格だ
隙の無い弁解だった。まるで青葉を相手にしている気分だ。
それでも続けるというのなら止めはしない。私は決して命令している訳ではないからな。でもその場合、いま君の目の前にいる少女が背負った非業を直視して、共に苦しまなければならない
それは前々からずっと思っていたことでもある。
いずれは必ず彼女の一件で天罰が下る。だからこそ、いつ報いを受けてもいいように、心の準備はしていたつもりだ。今日見せられた彼女の姿についても、実のところは紫月の想像通りだったりする。
でもまさか、探偵を辞めろなどと言われるとは思いもしなかった。
……だれ?
突然、久美が掠れた声で訊ねてきた。
あなた達……男の人?
いかん
やっば……!
幹人にも紫月にも、いまの彼女が次に起こす行動を容易に想像できた。
男……おとこ、おとこ――ひっ!?
彼女が喚き出す直前で、二人は病室から急いで飛び出し、扉を乱暴に締めた。
いやぁあああああっ……アアアアアアアアアアアアアッ!!
悲鳴を聞きつけ、近くに控えていた女性の主治医が泡を喰ったように駆けつけて病室の中に飛び込んだ。
空気を引き裂く悲鳴を扉越しに聞きながら、紫月はようやく本当の意味で当惑する。
マジかよ……!
男の姿を見ただけで……
彼女の精神崩壊の要因で一番大きいのは入間からのレイプだ。彼女の目からすれば四十代前後の男の姿は恐怖の対象でしかない。こちらに気付かないだろうと思って油断した
トラウマ再発の要因となるのは日常の中で目にする些細なきっかけという話を前に聞いたことがある。いまの彼女は、幹人を入間と勘違いしたのだろう。
ややあって、悲鳴が収まると、女性の主治医がゆっくりと部屋から出てくる。
すみません。斉藤さんがあなたと話をしたいとおっしゃっているのですが
俺?
紫月が自分で自分を指差す。
何故?
斉藤さんには以前、付き合っていた彼氏さんがいたそうですね。彼女にはあなたの姿がその彼氏さんに見えてしまったようでして……さっきから「健に会わせて」って
…………っ
自然と拳を固く握ってしまう。
斉藤久美の彼氏――前田健。彼は入間に生きたまま解体されて死亡した。
行きたまえ
幹人が素知らぬ顔で告げる。
認識されてしまった以上は避けられない。これも君の責任だ。もしかしたら彼女が復活する為のきっかけになるかもしれない
……分かりました
紫月は再び病室に入り、扉を閉め、彼女と対面した。
……健
その名前を呼ばれると、心臓を針で突かれたような気分になる。
健、来てくれたんだ
そうだよ、久美
これも仕方なしと思いつつ、紫月は死体の姿でしか対面したことが無い人物を演じることにした。
ごめんな。俺の方も色々あって来るのが遅れた
ううん、いいの
それより、早くこっち来て
手招きされ、紫月は傍に寄って彼女と目線を合わせた。
すると、久美はふわりと、自らの体重を傾けて紫月の首に両腕を回した。
会いたかった。本当に……嬉しいよ
俺もだよ
一語一句発する度に喉の弁が閉まりそうだった。言葉を扱うのがここまで苦しいと思った瞬間は人生で一度も無い。
間近で見る彼女の瞳は澄んでいた。まるで無垢そのものだ。
これからは会いにいける回数も多くなると思う。だから、もう安心していいよ
本当に?
ああ
ありがとう、健
花が綻ぶように笑い、彼女はごく自然な仕草で紫月と唇を重ねた。
すぐに突き放そうと思った。でも、寸でのところで思い留まる。
彼女は恋人の死を受け入れられていない。だから比較的年が近い紫月を彼だと思い込むことで、精神に均衡と快楽を与えようとしている。
口腔内で舌を絡ませている間にも、久美のたおやかな指が紫月の手を彼女の太腿まで持っていき、這うように腰に触れさせ、年相応に発達した胸に置いてくる。まるで過去まで行われていた彼らの情事を覗き見しているような気分だった。
最低だ――そんな気分が訪れた時、紫月は彼女から唇と手を離した。
さすがに病院の中じゃ駄目だよ
そうだね。ごめん
……そろそろ先生が診察に来る
今日は帰らせてもらうよ
明日も来るんだよね?
ああ
学校が終わったら
すぐにでも飛んでいく
うん。待ってる
もう一度キスを交わし、紫月は無造作に病室を出た。
扉をそっと閉じると、外で待っていた幹人が鼻を鳴らす。
咄嗟の判断でよく恋人役に徹したな
大した役者だよ
人の情事を覗き見とか
悪趣味にも程がある
君こそ人のことは言えないだろう
てめぇ――
いまここで幹人を懐の十手で撲殺すれば、少なくともたったいま湧き上がった怒りは収まってくれるだろう。
でも、一瞬待つと、急に一瞬前のプランが馬鹿らしく思えた。
……このことはうちの社長に報告させてもらう。彼女に会いに行く手前、しばらくは出勤時間の変更を余儀なくされるからな
それはご自由に
後で杏樹からしこたま怒られるだろうに、幹人の顔はやけに涼しかった。
私からの用件は以上だ。帰るなり仕事に行くなり、好きにするがいい
そのつもりだ
こっちにも我慢の限界がある
紫月は早足で隔離病棟を後にした。
遠ざかる紫月の背を見送っていると、ふと青葉の姿が幹人の脳裏を過った。
……これでいいんだろう、青葉
青葉は紫月に惚れている。二人が直接絡んでいる場面は見たことが無いけど、最近の青葉はやけに彼の話を夕食時なんかに持ち出してくるようになった。大抵の部外者には無頓着な彼女には珍しい傾向だ。
でも、彼は青葉と違って、危険な世界を生き抜くには弱すぎる。
戦闘能力だけで見れば彼は入間と匹敵する強者だ。知能も決して劣っている訳ではない。でも、世の中腕っぷしや頭の良さだけで食っていける程、決して甘いものではない。
これで折れてしまうくらいなら、早くこの世界から抜けてしまった方がいい。
少なくとも、いまの幹人はそう思っていた。
井草勝巳が立ち上げた会社の中で代表的な一つは医薬品メーカーだ。
社名は株式会社ライズ製薬。いま勝巳が訪れているのは、テレビの取材だろうと警察の立ち入りだろうと足を踏み入れることが許されない、まさしく『聖域』とでも言うべきセクションだった。
新薬開発製造部門。ここでは、とある特殊な薬物に関する研究が日夜行われている。
高白(ガオパイ)
これが君の研究成果かね?
ええ、会長
窓ガラス越しに学校の体育館くらいの広さがある実験スペースを見下ろしながら、勝巳は隣に立つふざけた格好の中国人に訊ねる。
彼――高白は新薬開発製造部門の主任だ。中国の赤い民族衣装を着飾り、おしろいを塗りたくった顔には満面の笑みが張り付いている。
彼は甲高い猫撫で声を発し、長方形の黒い物体を勝巳に差し出した。
PSYドライバー。井草グループ系列の医療機器メーカーが開発、実用化している新型注射器の技術を応用して、そこへさらに我々ライズ製薬の意見を取り入れて作られたPSYドラッグ専用の携帯注射器です。これはそのプロトタイプ
PSYドライバーなる物体の見た目は、腕に巻きつける為のベルトがついた黒い長方形のケースだった。しかしただのケースにあらず、手前側にはいくつかのスイッチ類やメーターなどが装備されている。
高白はUSBメモリみたいな形をした物体を追加で用意する。
これがPSYドライバー専用のアンプルです。これをPSYドライバーのスロットに装填して注入の準備が完了し、電源を入れることで中身が投与されます。注入される量はスイッチ類などで調節可能。しかも戦闘用なので使われている素材は――
能書きはいい
早く成果を見せなさい
おっと、失礼。では、ゲートオープン!
軽々しいノリで、高白は手前のコンソールを操作する。
実験スペースの扉が一個だけ開くと、宇宙服みたいな緑色のスーツを着た人間が現れ、例のPSYドライバーを腕に巻きつける。あれが今回の実験に使われる被験体らしい。
続いて、スロットに専用のアンプルを装填し、スイッチを入れる。
すると、スーツの表面に青白い稲妻が走り、地に設置した足の裏から波紋の如く青い電流が広がった。
これが新たな
PSYドラッグの効力か
勝巳が唇の端を釣り上げると、高白はさらに胸を張った。
そうです! いままでは肉体強化や感覚強化、あなたの娘さんの能力を元にした未来予知能力に限定されていましたが、とうとう超能力を与えられるようになったのです!
素晴らしい
いま被験体が発現させているのは帯電体質、及び放電能力だ。これをもっと発展させれば電子機器への介入や、場合によっては通常の銃火器にレールガンの効力を与えるといった、まるで空想科学が現実になったような能力をPSYドラッグによって人体に与えられる筈だ。
これさえ実用化されたら……
もし超能力者が存在する現実が当たり前になれば、水依はもう悲しい思いをしなくて済む。かつての水穂のように、魔女裁判同然の非難を誰も受けずに済む。
ようやくここまで来たのだ。もう後戻りは許されない。
水依……お父さん、あとちょっとでお前を助けてやれるからな
この時、勝巳はただ純粋に、これから自分が作り上げる水依の未来に対して希望を抱いていた。
隣から送られた、高白の不吉な視線に気づかないまま。
今日は変な夢を見た。単なる過去のフラッシュバックだ。
小さい頃、金持ちの娘ということで周りから敬遠されていた。
小学生時代。未来を視る力に目覚め、周囲の人達から気味悪がられ、時として男子生徒から石を投げつけられた。傷だらけで家に帰った時は、その頃から住み込みでボディガードとして働いていた王虎に何度も泣きじゃくりながら抱きついた。
中学生時代。人との関わりを避けた結果、いじめに遭って不登校になった時期があった。いじめを容認しなかった学校は父の力で潰され、北条一家の手によって校長は自宅で殺害された。その時の写真を偶然見てしまい、自分の存在一つで他の誰かの人生が狂わされることがあると知った。
そして、私は高校生になった。最初は中学時代と同じ轍を踏んでいた。
そんな中、私は彼女と出会った。
何を描いている?
教室の片隅で、遊びのつもりで行っていた未来予知の様子を、同じクラスの貴陽青葉という寡黙な女子生徒に注目された。彼女も周囲とあまり関わりを持たない変人だが、自分と違って他の女子生徒からはあからさまな不快感を買うような奴だった。
でも、彼女は誰にも屈しなかった。というか、相手にしなかった。
悪意なんて何処吹く風、といった感じの、常軌を逸したレベルで呑気な女だった。
おいおい、無視するな
ちょっと悲しい気分になるぞ
……あまり私に関わらないで
きっと、この女は私をからかって楽しみたいだけだ。最初は、そう思っていた。
井草水依。井草グループ代表、井草勝巳の一人娘
青葉が突然、私の身辺に関するプロフィールをそらんじた。
生まれも育ちも彩萌市。幼稚園、小学校では親の財力と自らの能力が原因で周囲に敬遠され、中等部はいじめを受けて不登校、現在はここの一年生
貴女、一体何なの?
さすがに苛立ち、私は声音に棘を含ませた。
何で私の身辺を調べたの?
興味があったからな
本当なら、いま述べた情報よりももっと細かいところまで独自で調べていただろう。そう思わせるくらい、青葉の調査スキルは高いように感じた。
おっと、勘違いするなよ? 私が興味を持っているのは君自身であって、君の未来予知能力なんかじゃない。超能力なんて目じゃないくらい、想像を絶するバカ野郎と日頃つるんでいるからな
貴女は何を言いたいの?
友達になってやる
尊大にも程がある態度だった。
そしたら私を越える奇人変人を紹介してやる。私を受け入れるような寛大な連中だ。きっと、君のことも普通に受け入れてくれるだろうよ
根拠は?
ただの予感だ
未来予知の力を持つ私に対して用意した回答が、まさかの予感である。
でも、自然と信じたくなってしまった。
そのうち私の仲間に会わせてやる
最初は誰がいいかな……?
それから一か月ぐらい後になって、青葉は「お前の力が必要だ」と言って、私を葉群紫月、東雲あゆ、火野龍也の前に引っ張り出した。
彼らはこんな私を、思ったより簡単に受け入れてくれた。
葉群君は青葉と似ているところがあったのが印象的な人で、あゆっちは無邪気な性格に好感を持てたのですぐ仲良くなった。
火野君は――いつも私を気遣ってくれる。それがただ純粋に、嬉しかった。
夜中に目が覚め、水依は何となく窓辺に立ち、ガラス越しに青い満月を見上げた。
青と月。まるで、あの二人の有様を見ているようだった。
唐突に、惨澹たる映像が水依の脳裏を過る。
大太刀と十手を握った黒い仮面の少年と、二丁拳銃の白い仮面を被った少女が、荒れ果てた血みどろの戦場で悠然と並び立っている。
こんな感覚は生まれて初めてだ。これも未来予知の一種だろうか。
なに……これ……?
片手で額を押さえ、水依はしばらくの間、その場から動かず唸っていた。