だからこの回転体の体積はー………


四限目の、もう少しで授業が終わる時間だ。

生徒らもチャイムはまだかとそわそわして落ち着かない。

俺は視線を窓に向けた。

ガラスに反射して映る水夜の席には、誰も座っていない。転校二日目にして、水夜は朝から学校を休んでいるようだ。

まるで転校初日にいじめられでもしたかのように。

はい終わりー

起立、礼


号令が終わると、教師は教室から出ていき、いつものように沙希がやって来る。

かずくん、お昼食べよ。お腹もう治った?


前の席に座って、弁当を広げ始める沙希。

ああ


と返事をして、いつも通りの昼休みが始まると思っていた。

だから身構える暇もなかった。

田山くぅん。何で呑気に座ってるのぉ?


破裂するような音と共に、あの不快な声が響いた。

東堂が取り巻きの二人と共に、田山の席を囲んでいる。

教室全体の空気の密度が高まり、身構えてしまう。

な、何だよ東堂君

何だよじゃないよねぇ?どうして僕たちのパン買ってこないのぉ~?


東堂が田山の机を執拗な粘度で叩く。

そ、そんなこと聞いてないよ

はぁ?ちゃんと今言いましたよぉ。
ってか何、田山くん、口答えしちゃうんだ?
もしかして僕たちに喧嘩とか、売っちゃってるの?

ち、違うよ

じゃあ、早くパン三人分、行ってきてよ。飲み物もとーぜん。僕ら中庭で待ってるからね~

分かったよ……


田山は立ち上がり、周りの視線からさえ逃れるように走って教室を出ていく。

その姿に東堂とその取り巻きはゲラゲラと気持ちの悪い笑い声をあげながら教室を出ていった。

なんか………嫌だね、ああいうの


沙希が、少し沈んだ顔をして言った。

あぁやっぱりそんな表情になるんだなと思った。

他人事だからできる、関わりたくないと言いたげな顔。心を痛めているのは伝わってくるけど、真摯でなく改善しようとする意志すらない顔。

沙希のそんな無力さを目の当たりにしたくなかった。

もちろん沙希のその態度が悪いことだとは言えない。俺だってそうするだろうし、仕方のない事だ。

でももし仮に例えばあそこの田山の位置にいるのが俺だったら、沙希は自分のことのように怒り、庇ってくれるはずだ。

ただ沙希は田山とそこまで関わりがない。関わりがなければ助けることはできない。

それは線を引くという行為。人は必ずどこかで線を引く。あなたまでは助ける。あなたからは助けない。

泣きたくなるくらい仕方のない事。

……飯、食べようぜ

そ、そうだね


再び弁当を広げ始める。

今日の弁当の中身は、一段と豪勢なものだった。

豚肉の生姜焼きにミートボール、ウインナー、ブロッコリーとトマトにポテトサラダ、卵焼きに唐揚げにデザートのさくらんぼ。

おお、すげぇ豪華だな……いただきます!

えへへ。いただきます


俺が次々にそのおかずをかきこんでいくと、だんだん沙希の顔に明るさが戻っていく。

そして食べ終わる頃には、普段の沙希になっていた。

ごちそうさま。今日のは特に美味かったな

お粗末様です。作った甲斐があったよー

個人的には生姜焼きが最高だったな

あ、それはね。我が家の秘伝のタレを使ってるんだ

何か良いことでもあったのか?

別にそうでもないんだけどね


困ったように笑う。本当は何かあったのかもしれない。

尋ねるべきなんだろう。それがきっと幼なじみ同士の自然な会話の流れ。

だけど俺は自分の事情を優先する。ずっと朝から尋ねたかったことを。尋ねてみる。

沙希はさ、俺のことどう思ってるんだ

……


決定的な問い。

それはあの日と同じ。俺が沙希に告白して、拒絶された。

目の前の表情が凍りつく。きっと俺と同じ過去を思い出している。

その顔を見て、あぁ沙希の気持ちはあの時から変わってないんだなと思った。

あの日と同じように泣き叫ぶかと思った。酷い言葉で俺を罵るかと思った。

だけど彼女は笑ってあの日と同じセリフを言った。

幼なじみのままでいたいよ

冗談みたいに。

いや、冗談なんだろう。

その証拠にほら、ノイズが走って見える。

泣き叫ばれて罵られた方がよっぽどマシだった。

だけどもう俺はアノ日と同じ選択をするしかない。

沙希に合わせて笑うんだ。へらへらと真剣な自分の気持ちを嗤って受け流していつまでも生温い関係のまま。

そっか


できたはずだ。

ほら、沙希が安心したような顔をする。

そして思い出したように。

その物語は終わったとでもいうように切り出す。

あ、そういえばね。かずくん

ん、


どうした?そう聞き返そうとした。

!?


いきなり、昨日の水夜の言葉が脳裏によみがえった。まるでそれはフラッシュバック。

あ、あれ?どうかしたの、かずくん?


心配そうに沙希が聞いてくる。

あ、いや何でもない。続けてくれ

う、うん。あのねお母さんが、ドリドリランドのチケットを二枚くれたの


………まただ。

今度は動揺せずに済んだ。押し隠せた。はずだ。

どうして今?それは。

ドリドリランドって、あのハリネズミがマスコットキャラクターの遊園地だよな?

そうそう

……………

そ、それでね。もしかずくんが良かったら

週末に、一緒に


それは。それが今なのは。俺が、絶望したから?目の前の日常に。沙希の与える。それに。

いつまでも、死ぬまで続く仮初の役割劇場。セリフ台本舞台観客嘲笑嘲笑哄笑拍手歓声ライトアップされ糸に操られるまま幕が降りるその瞬間まで俺は踊る。

行けたらなあって


沙希が俺の糸を握っているのか?

違う。絡み合って。互いに互いを操る。互いの糸が絡まり合い。逃げられない。

だ、駄目かな?


聞こえない。聞こえない。沙希の声なんて。

日常なんてかき消される。

代わりに与えられる圧倒的なそれは。

俺を救う、それは。

やめてくれ。俺はまだ選んでない。

選べないのに、決断してないのに、覚悟できてないのに。

勝手に救わないで、くれ。薬なんて、俺はいらな――

あぁ。ぜんぶ納得した。

簡単な事だ。運命だった。ずっと前から決まってたこと。

そうだ。

俺は救世主なんだ。

ごめん、沙希

えっ


俺は世界を救う。

なんて簡単に飛び出るセリフなんだろう。

きっとそれがとても自然なことで当然のことだからだ。

俺は行けない。向こうに、行かないといけない


勢いよく立ち上がって。

気付けば俺は駆け出していた。気狂いじみた走り方。何かを追い詰めるように。何かから逃げるように。

そうさ。

『日常』だって麻薬だろ?

誰も救えない自己満足の。

開けた視界、吹き抜ける風、コンクリートの足場。

気付けば俺は屋上に立っていた。見上げた空をフェンスの金網は遮らない。

俺は空の真下で、息切らし、膝をつき、咳込み。

そして目の前には、今日学校を休んでいたはずの水夜がいる。

当然のように。当然なのだろう。

俺がここに来ることも。こちらを選ぶことも。

当たり前のことだったのだ。俺が気付いてなかっただけで。

ようこそ、夏月

………

来ると知っていた

…………

あなたならなれる


水夜は持っていた注射器を差し出す。

それを受け取り、俺は尋ねた。

世界は………変わるのか?

こくりと小さく頷く水夜。

きっと


ひんやりと冷たい地べたに腰を下ろし、注射器を愛おしく右手で包み込む。

水夜は俺は見下ろしている。

その顔に薄らと浮かぶ笑みは、何の意味を持つのだろう。

注射器を構えキャップを外す。

これを打ったら、もう戻ることはできない。誰も見たことのない犯罪の先。

俺が思い出すそれは腐ったプラスチック。平凡な日常。

それは確かにある種の幸福を孕んでいたのかもしれない。

それでも俺は。世界を救う方を選ぶ。

救えない救われないと割り切るくらいなら、嘘でも悪でも。

俺は世界を救い救われる方を選ぶ。

縛られて浮き出た左腕の血管に、針の先端を当てた。

一息に針を突き入れ、身体の中に液体を射し注ぐ。

親指を最後まで押し切ると、初めに鋭い痛みが走った。

ピリピリと焼け付くように痛む。

見ると血が注射器の中に逆流していた。

その視界。

歪む。

効果はすぐに表れた。

脳に、                胸に、

   目に、       耳に、

      鼻に、

眼球の裏に、

爪先に、        つむじに、

心臓に、                陰嚢に、

風が駆け巡る。

体中を何時間もかけて登った山の頂を吹くような爽快な風が、これでもかというぐらいに吹き抜けていく。

キモチガイイ。

鳥肌が立ちその一つ一つからエネルギーを供給されているようだ。

溢れだす力が体内を満たし、穴という穴からそれが流れ出ていく。

それでいて、フニャリと力が抜けるように眩暈がして、

体は横倒しになる。

器を落とした。

音も聞こえない。

バチバチっと全身に電流が走り、断続的に体が

ビクン、ビクン

あ、あう


電流が走るたびに、何回ものヒリっとし

た射精を
  一気に
    凝縮し
      たよう
        な快感
          に襲わ
            れる。

体が熱い。



溶鉱炉に飛び込んだように熱い。



吐いた息が蒸発する。

と思えば。



今度は南極に裸で凍えているように寒い。




脳髄が凍る。

体のコントロールが利かない。

起き上がろうとすれば





 を
コン



         クリートに
打ち付け、

手を動かそ               
うとし       たら




勃起した。            

目が異常な量の光線を吸い込む。



         眩しいのに目が閉じられない。

心臓の高まりが、次第に頂点へと近づく。

バクンバクンバクンと、


        とんでもない速さで波打っている。

あ、ああう。ああ、あああうああ

                刹那。




高まりが頂点へと達した瞬間。

目の前で閃光が

弾けて。

意識が面白いく

らいに吹き飛んだ

『そして今、あなたは目を開く』

ここは……?


足場さえも見えないほどに、眩い光に包まれた空間。

当たりを見回しても、目には光しか映らない。

もしかしたら目を閉じてさえ、この光は消えないのではないかと思うほど。

ここは、世界をつなぐ架け橋


水夜の声がした。しかし、その姿は見えない。耳元で囁かれたように良く聞こえるのに。

左耳。内緒話をするようにあてられた手の感触や息遣いさえ聞こえる。触れてみても自分の耳があるだけだった。

不可解に思うけれどそれ以上に不安が襲う。

声だけにすがり消えないように祈る。

進んで。その先にムンドゥスが

……ああ、分かった


力強いその声に背中押されるように前に向き直り、恐る恐る一歩足を進める。

大丈夫、足場は続いている。

進んで。その先にムンドゥスが


さらに一歩、また一歩と、踏み出していく。

次第に足場の見えないこの空間の平衡感覚を掴んで、歩みを早めた。

ただひたすらに、歩く。

…………。

一体どこまで行けばいいのだろうかという思考が頭をよぎったその時。

進んで。その先にムンドゥスが


一層光が強まった。恐らくそれが終点なのではないかと推測する。

そしてそれは正しかった。

光だ

進んで。その先にムンドゥスが

進めるのか?

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが

進んで。その先にムンドゥスが


あるところまで来たとき、光が急に感触を持った。

肌に光が柔らかく触れる。

もう一歩進むと、優しく、温かい光が体全体を包みこんだ。

遠い昔、母親に抱かれていた自分は、こんな感じだったのだろうか。

俺は眠るようにして、再び意識を失った。

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