その夜、俺は自室の机に座って水夜に渡された注射器をもてあそぶ。
その夜、俺は自室の机に座って水夜に渡された注射器をもてあそぶ。
たった六時間前の水夜との屋上でのやり取りから、ずっと考えていた。
沙希と弁当を食べているときも、授業中も、帰り道でも、夕飯を母と囲っているときも。
救う。
俺が世界を救う。
それはどういうことだろう。
辛いのか?
苦しいのか?
それとも楽しいのか?
救いが得られるのか?
そもそも具体的な方法なんかあるのだろうか。あったとしてもそれは本物だろうか。
疑ってしまえばキリがない。でも疑ってしまえば俺は救われない。救われないならば、戻る先は何もない元の日常だ。ただ、それだけ。
その時『俺』を求める機会は永遠に失われる。『俺』はきっとこの世界からいなくなる。
ジレンマに陥って思考がそこから一歩も進まなくなる。
注射器を軽く転がすと、中の液体に透けた光が揺れて見えた。
それは違法薬物。きっと本物。そう考えた途端抑えようもなく湧き溢れる嫌悪感。
でもその拒否反応は誰かに埋め込まれたものじゃないのか?
屋上では咄嗟に怒鳴りつけてしまったけれど、そんな反応だって社会の常識に囚われてるだけで。
それは俺の周りの誰も使ったことがない。麻薬。
その先に、本当は世界を救う方法だってあるかもしれない。
わからない。ぜんぶ目の前の注射器のせいだ。煩わしくなる。
握りつぶしてしまいたい。なかったことに。
でも出来ない。
何故だ?何故だ?まさか俺は使うつもりなのか?そんなもの、こんなもの。
だけど。
ふと、閉められたカーテンを見つめる。
あの先には、沙希がいる。
あの先には、日常がある。
平凡な昨日。
視線を机の上の注射器に戻す。
ここには注射器がある。
この先には世界を救う自分がいるらしい。
この先には見たことのない景色が広がっているかもしれない。
俺一人救えない日常にはなかった『何か』が。
俺は自分に問うてみる。
これまで救われなかったなら、違う方法を試してみるべきではないのか?
………
机の引き出しから輪ゴムを数個取り出す。
左の上腕を輪ゴムとボールペンで手際よく縛り少し待つ。
頃合いを見測り、そっと注射器のキャップを外し、叩いて気泡を抜く。
針先から薬液が垂れる。
痺れて他人の物のような左腕。それ以上に麻痺した思考。
その肘の裏に浮き出た血管に針先をあてがう。
注射針の先端が皮膚に触れた。冷たい。息が止まる。
あとは針先で皮膚をえぐり、この親指を押すだけだ。
手が情けないほどぷるぷると震えだす。
…………
俺は注射器を腕から離し、元通りにして机の中に仕舞った。腕から輪ゴムを外すと、赤い跡が罪の証のように残っていた。
俺は、注射器を打つことが出来なかった。
明かりを消し、布団に包まる。幼子のように。
大丈夫、いつも通り。
んなわけなく俺は押し潰される。