第14話 執拗不可避の仇敵は

その間合い、距離にしてただ数メルテ。

マーメイの脚であれば、一足の元に踏み込み、蹴り上げられる間合い。

並のミモル型アーデルであれば、その一撃で頭を割られて終わる、他愛ない距離だ。

クララ

……『しつこい奴(デバ)』

マーメイと対峙する火傷のアーデルを、印象そのまま、クララもまたそう呼んだ。

かつて自分の腕を喰らった、モル型アーデル特殊個体。

膠着した睨みあいにすぐさま加勢しようとしたクララの肩を、メルがぐいと引き留めた。

メル

今はダメよ、クララちゃん

空気を揺らすのも恐れるように、メルはクララの耳元で、声を抑えてそっと言い聞かせる。

クララ

どうしてですか、今の私なら――!

彼女が自分を止める理由が何か、クララにはわかっていなかった。

張り上げてしまったクララの声に弾かれるように、デバとマーメイは同時にアスファルトを蹴ったのだ。

マーメイ

しぁッ!

マーメイの脚から放たれた爪の力(ウングィス)が、気流を薄刃に変えて飛ばす。

頭部をかばったデバの前腕の肉が、ぱかりと浅く割れて血を吹き出す。

ごく数十ミルメルテという、直接触れるか触れないか程度のその飛距離は、飛び道具と呼ぶにはあまりに短く頼りない。

だがその薄刃を得た手足の先は、敵の肉を切り裂くに十二分の威力を見せる。

右から、左から、無人の乗用車を蹴って頭上から。
デバの手が届かない紙一重の間合いを見切りながら、気流の刃を飛ばし続ける。

だがデバの方もただ防いでいるばかりではない。

気流の刃をまず一度は腕で受けつつも、連なる追撃は太い後脚で大きく跳ねて避ける。


垂直のビル壁に貼り付いて。
信号機を片手で握ってぐるりと回転して。
街灯のしなりを発条(バネ)代わりに。


マーメイ以上にアクロバティックな挙動を見せるデバは、明らかに相手が次に跳躍する先を読み、軌道上で迎え討つように位置を取っている。

クララが呼んだ“しつこい奴(デバ)”の名の通り、執拗にマーメイを追い立てる。

ココア

メル、行けるか

メル

こっちはいつでもそのつもりなんだけど、

メル

ちょっとあれには入っていけないなあ……

ルクスの歴戦の仲間たちですら、おいそれと介入する余地はそこになかった。

飛ぶ羽虫をナイフで落とすココアも、落ちる葉をライフルで射抜くメルも、下手に手を出すことはできなかった。


援護のつもりが、かえって横槍になって仲間を不利に陥れる。

そう思わせる程に、マーメイとデバの攻防は激しく、そして拮抗していた。

ジェシカ

こっちはカンペキ片付いたわ、ミア!

ミア

こちらもです。あとはその特殊個体だけ……!

オープンチャンネルの戦局報告。

クララの周囲にも、既に他のアーデルは見当たらない。

マーメイ

なら、あとはこっちでやれます!

マーメイ

ミアさんたちは、本部の方へ――

意識を通信に向けたごく数秒もない隙を見極め、デバはぐんと踏み込みマーメイに迫る。

自身の傷を細胞粘菌表皮が塞いでくれるのを明らかに把握した突進。

多少肉が刻まれようと、もはや構わずくわと口腔を開く。

マーメイ

――ちぁッ!

不利に迷いが生じたのか、マーメイの振るう脚がコンマ数秒わずかに遅れた。

デバはそれを見逃さない。

振り切る直前のマーメイの脛を狙って、上下の臼歯を突き立てた。

骨と骨がかち当たるような、硬い異音。

脚を喰われた。
メルとココアにもそう見えた。

だが。

齧られる直前で、マーメイはその蹴りをぴたりと止めていた。

デバの前歯が閉じるのを見る前に、柔軟な股関節を大きく開いて脚の軌道を変える。

上体から腰を経由し足先へ、ぎゅるりと重く捻りを加え、

マーメイ

せぇああッ!

マーメイの右脚がデバの頭部を真上から蹴り抜いた。

倍加した重力に引かれ、デバは顔から舗装道路に落ちる。

マーメイ

……こいつ

マーメイ

やっぱりこっちのことが観(み)えているのね

目の前の個体の、まるでアーデルらしからぬ戦い方に、マーメイは戦慄していた。

目鼻も耳も持たないモル型、ミモル型アーデルの肉体には、フェーレスの有する五感に相当するものが存在しない。

代わりに、一定範囲のフェーレスの存在を感知する特殊な感覚器官を有し、それを頼りに獲物を見つけて襲い掛かるのではないか。

戦術の試行錯誤と研究を重ねた結果、ルクスは醜悪な怪物たちに対し、そうした見解を抱いていた。

にも関わらずこのデバは、マーメイの戦いを観察し、覚え、その隙を狙うような動きを見せてきた。

フェーレス同士の組手試合でもなければおよそ使う機会のない、フェイントからの“旋毛砕き(フロンコンテ)”。

それが通じてしまった事実こそ、このデバの戦い方が、ただ本能任せの獣のそれでないことの証左だった。

マーメイ

何なの、こいつ……

もうもうと上がる埃の中、尚も油断なく構えるマーメイの視界に、

クララ

やあああっ!

高々と声を上げて斬り込む、クララの姿が見えた。

踏み込みにスラスター噴射を合わせた、高い跳躍。

右手で支えるようにしながら高く掲げた、巨大な異形の左腕。

マーメイの繰り出したフェイントが好機を生むと、クララもまた見抜いていたのだ。

クララ

はぃあアッ!

訪れるワンチャンスを知っていたクララの動きは速かった。

クラブ型アーデルの肉から得た、長大にして鋭利な鋏。

振り上げたそれを叩きつければ、いかに執拗な特殊個体とて。




誰もがそう思ったその時。

奇妙な音を立てて、クララの左腕が消えた。

クララ

……あ、えっ? あっ――

何が起こったのか、理解が追いつかなかった。


クララの左腕が模していたクラブ型アーデルの大鋏は、何の前触れもなく縮んで消えて、その形状を元の少女の細腕に戻してしまったのだ。

クララ

……そんな、な、なんで

とどめの一撃その一点に意識を集中させていたクララは、変化した状況への判断が遅れた。

その場に足を止めて、自分の左腕を呆然と見上げてしまった。




すでに目の前には、デバが起き上がり。

己の血と涎の滴る口を、大きく開いているというのに。

風を切る冴えた音がふたつ、クララのツインテールをかすめていった。

砕けて散ったデバの臼歯の欠片が、クララの顔にこつんと当たる。

はっと意識を引き戻したクララが見たのは、デバの喉の奥に深々と突き立った軍用ナイフ。

メル

クララちゃん、退がって!

ココア

ぼっとしてねえで動け、新入り!

間一髪クララを救ったのは、ココアとメルの放った一矢。

クララ

は、はい!

数歩後ろに退いたクララは、一度目をぎゅっと閉じて頭をぶんぶんと振る。

元の形に戻った裸の左腕で、クララは手刀を構え直す。

両翼に展開したメルとココアの援護射撃。

マーメイ

新入り、今っ!

デバの背中を狙い跳んだマーメイの声に合わせて、

クララ

はあっ!

クララが再び強く踏み込んだ、その瞬間。

吼えたデバは強くアスファルトを蹴り、高々と跳ねあがった。

見上げるマーメイをさらに大きく飛び越えて、デバはビルへ屋上へ悠々と降り立った。

クララ

逃がさな――!

追撃しようとしたクララの目に、右手甲の小さな赤ランプが映る。

クラブ型アーデルとの戦いで、固形燃料を使い果たしてしまったのだ。

ココア

くそっ、また逃げる――!

悔し気なココアたちにわざとらしく見せつけるように、デバは口の中のナイフを吐き捨てた。


そして、裂傷だらけの頭をもたげてクララの方を一瞥し、口を歪めて唸った。

クララ

あいつ……

クララ

私を、見てる?

クララは覚えていた。

ショッピングセンターでの戦いの時も、このアーデルはそうして口を奇妙に曲げて、目のない頭でこちらを確かに観(み)て笑った。

ひどく悪辣な何かを秘めているように見えたその表情の蠢きは、クララの目にしっかり焼き付いていた。

だが、クララは恐れなかった。

緊張を解かず身構えたまま、あるのかないのかもわからないその真意を探るように、クララはデバをきっと睨みつける。

そして、左の拳を軽く握り、その感覚を確かめるようにしながら、

クララ

今度はもう、負けない

宣戦するかの如く、クララはそう決意した。

デバはやがて、クララたちにふいと背を向けた。

そしてビルからビルを伝って跳び、バーシム防壁の外へと姿を消した。




それでも油断なく、デバの消えた先をじっと見据えていたクララの肩を、

メル

はいな、お疲れクララちゃん

横からぽんと叩いたのはメルだった

笑顔でクララに手渡してくれたのは、厚手のウエストポーチから取り出した飲料水のボトル。

それを見てはじめて、クララはようやく構えを解くことができた。

逃げられはしたが、何とか、勝ったのだ。


素肌の太ももや腕の汚れを払いながら歩み寄り、

マーメイ

大丈夫なのか、その腕

マーメイはまず、クララにそう訊ねた。

彼女なりに言葉を選んだ末の、ぶっきらぼうな訊き方だった。


初めて目にしたその腕の、得体の知れなさ。異常さ。

クラブ型アーデルを斬り伏せた、恐ろしいまでに強大な力。

それらを疑い警戒する気持ちも、マーメイの胸にはもちろんある。


メルやココアも口にはしなかったが、マーメイと同じ気持ちでクララを見守っていた。


だがマーメイだけは、何よりクララ本人の身体を案じたからこそ、「大丈夫なのか」という短い言葉だけを選ぶことしかできなかったのだ。

ぐいぐいと美味そうに水を飲み干し、ぷは、とボトルから唇を離したクララ。

白銀の腕を持つ少女は、仲間たちの目の前で、

クララ

はい、大丈夫です

力強くうなずき、言い切った。

マーメイ

……そう

マーメイはそう短く答え、クララに背を向けた。


普段もこうして、クララに必要以上の言葉をかけることのないマーメイだった。

だが彼女は常にクララのことを思い、案じていた。

この子は母親を喰われ、左腕を喰われ。

ついには心まで、喰われはしないだろうか。

自分の無力のせいで。

だが今この時、灰色の空を睨むクララを見て、マーメイは自分の杞憂を知った。

しゃんと伸びたクララの背中は、マーメイが知るより少しだけ、強く頼もしく見えたのだ。

マーメイ

戦うのね、クララ

マーメイ

なら、私はこの子より、もっと前を往かないと

マーメイ

一秒でも早く、この子より、前を

亡くしてしまった彼女の母に代わり、私が彼女の爪となって、彼女を守り戦おう。

贖罪になろうがなるまいが、そうすることしかできないのだから。

マーメイはクララの背を見守りながら、己の戦いに新たな矜持を見出した。

マーメイ

次は西防壁です。

マーメイ

行きましょうメルさん、ココアさん

メル

はいな! ミアちゃん、乗っけてもらっていい?

ミア

ええ。ココアさんもどうぞ!

ホバースクーターにまたがったマーメイは、クララに後ろに乗るよう目で促す。

マーメイ

……

マーメイ

行くよ、クララ

クララ

はい!

息継ぐ予断も無き戦火の中で、少女たちは血と煤のアスファルトを再び走る。

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14 │ 執拗不可避の仇敵は

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