住んでいるのは集合住宅。
 さほど広くないアパートながら、自分の部屋を与えられていた。二人家族だからということもある。もう一人の家族である父は、現在家にいないし今日帰宅予定もないはず。そもそもこのアパートは、住所を持つためとぼくのために借りているようなものなので、帰ってくるほうが稀だった。
 さて。何故か幼児化(?)してしまった百目鬼さんを招き、ぼくの部屋で二人きりになってしまったわけですが。

雄二

えーと、飲み物は……、ミルクでいい?

真紅

うん!

 適当に子供が好きそうなイメージのものを提案したら乗ってくれた。なんていい子なのだろう。笑顔も屈託なくて本当に可愛い。思わず撫でたくなるね。……もちろんそんなことはしません。
 冷蔵庫のあるキッチンまで足早に向かう。
 彼女を一人で残してきているけれど、部屋を自由に見られても困るものはなかった。女子あるいは子供に見付かってはならない、男子高校生ならば必ず所持するような代物は、隠す以前に最初から存在していない。
 あれは半年以上前、告白を決意するよりちょっと前の頃だったと思う。特定の誰かを好き過ぎると、性的な意味でも他のものへの興味が薄れるらしい。具体的には、これまで懸命に集めた数々のオカズを、必要に迫られたわけでもないのに処分する、賢者的心理に陥った。だからぼくの部屋には、それ系のものがないのだ。こういう心理・行動が一般的かは知らないけれど、そうだったのだから仕方ない。なお半年以上経った現在も、不都合はありません。
 ミルク&お菓子を用意し、普段使ったことのないお盆に乗せる。
 しかしどうしたらいいのか。実はこうした不可思議とされる出来事には心当たりあるのだけど、この場合「誰が望んだか、得をしようとしたか」を考えると、ぼくでしかありえず、しかしぼくは原因ではないため、おそらく関係ない。

 精神的な病というのが妥当かもしれない、とようやく思い当たる。ぼくが病院連れて行くわけにもいかないので、まずは彼女の家に連絡を……。
 そうぼんやり考えながら部屋に戻ると、

真紅

…………


 百目鬼さんが直立不動で立っていた。口を真一文字に閉め、こちらを睨むように……というか睨んでいる。
 あ、もしかして。

雄二

治ったの?


 期待を込めて尋ねると、

真紅

あ、あ、あんんんた


 唇を震わせながら、拳を握りしめながら、彼女は言う。

真紅

あたしに自分のミルク飲ませようとするなんて!

雄二

ええっ!? 合ってるけど誤解しか招かない発言だー!?


 そりゃこのミルクは家にあったものだけれど、ミルクを作ったのは牛であってぼくじゃない。決してぼくの体内で生成されたミルクを好きな女の子に飲ませようとしているわけじゃない!

真紅

このケダモノ

 軽蔑の目と声と、あと手。赤い花のかんざしに手を伸ばしていた。

雄二

待った! 待とう! 待つべきだ! 人類は戦争の歴史を乗り越えて平和的な話し合いという手段をようやく手に――

真紅

うるさい、問答無用っ!


 ついにかんざしが抜き取られる。
 正直なところ、誤解されたり嫌われたりすることそのものには、ぼくは感じにくくなっている。人は絶対にわかり合えないという真理は理解しているし、期待というのは他人ではなく自分にしかしてはならないことも理解している。だから他人がどう思うかなんて自力では管理できないことに気を遣うことはバカらしい。
 でも、例外がある。宇宙のルールに例外は一切ないけれど、人の定めたルールには必ずといっていいほど例外が付きまとう。
 それが、百目鬼真紅さんだ。彼女が傷付くこと、彼女に誤解を与えることは、看過できないんだ。

雄二

落ち着いて聞いて。いったい何を怒ってるの? はっきり言ってぼくには何の落ち度もないよ


 最良の行動を取り続けたとは言わない。でも過失があるとも到底思えない。それにそもそも、

雄二

百目鬼さんはさっきまでのこと、覚えてる?

真紅

……た、食べ物に釣られて、そんな、あたしがそんなわけ

雄二

あ、一応覚えてはいるんだ

真紅

何考えて、何も考えてない、きっと催眠が……


 眼力を失い、ぐるぐるの混乱お目目になっている。どうやら物事の記憶自体はあるけれど、自身の感情や思考の記憶まではないようだ。もしくは信じられないだけか。

雄二

ミルクっていうのも、変な意味じゃないのわかるんだよね

真紅

だ、だけど、ああ……、あんたが何かしたんでしょ! こんなのおかしい!

雄二

ぼくは何もしてない! おかしいのは全面的に同意するけど!


 しかし妙だ。覚えているのなら、ミルクだとか部屋に連れられたとかより、真っ先にあのことを追及するんじゃないだろうか。あのことってつまり、キスのことだ。がっつりしてしまったのだから。
 覚えていないのなら、触れないでおこう。傷付かせるわけにはいかない。覚えていて触れないようにしているなら、そのままにしておこう。傷付かせるわけにはいかない。

真紅

帰る


 うつむき加減で、彼女は言った。

雄二

あ、うん、そうだね


 送っていくとも言えない。百目鬼さんはこちらを一切見ないで、うつむき加減のまま玄関まで行く。ぼくはお盆を持ったまま、力なく見送っていた。
 せめて声をかけるべきか。いや、ぼくに言えることはない。
 百目鬼さんのほうも何も言うことなく、静かにドアを開けて出て行った。

pagetop