なんとなく、家に帰りたくなかった。

何のかんのと沙希に言い訳して一人で帰ってもらい、俺だけが教室に居残る。

しかし特別に用があるわけでもなかったし、幸か不幸か水夜もいないようだったので手持ち無沙汰に窓の外の景色を眺めていた。

夕日が沈む。俺のポケットの中には未だに注射器が入っている。

簡単には捨てられないだろう。注射器なんて容易に手に入るものではないし、しかも中身は麻薬だ。

下手な所で見つかれば警察沙汰になる。俺が今所持しているのはそんな違法物だ。

今更になって自分の背負わされた選択の重みを知る。こんなはずじゃなかったという後悔にも似た思いが胸を抉る。

しかしじゃあ俺は、水夜に何を望んでいたのかと尋ね返してみる。

他の何だったら満足だったか。色恋沙汰か?常識の範囲内か?フィクションのお約束か?

違う。俺ははっきりと自覚する。俺が求めていたものはそんな生ぬるいものでも陳腐なものでもない。

もしかしたら。

もしかしたら犯罪以外にはないのかもしれない。俺が求めうる範囲に俺を満足させられるものは犯罪くらいが精々なのかもしれない。

だから水夜が持ってきた注射器は。確かに俺の求めるものだったのかもしれない。

悟ってしまう。だけど、それと注射器を使うか否かは別の問題だ。

つまり問題は振り出しに戻る。俺が今のまま、『俺ではない』ままに生きるのか。

あるいは犯罪に手を出すのか。

麻薬を打った所で、水夜の導くムンドゥスという幻想へと飛び込むことで本当に『俺』として生きることができるのかはわからない。

それでも。

思考を打ち破るように扉が開け放たれた。驚いてその方を見てしまう。

どうした間宮?


鞄を肩に担いだ級友に、ぽかんとした表情で尋ねられる。

別に、どうともしないよ。それより重役出勤にしては遅いな

ここまで遅かったら重役というより裏方っぽいな


谷口はいつものように肩をすくめてみせた。その動きに不審な所は見当たらない。

本当にどうしたんだ?

そんな怖い声出すなよ。別にお前がここにいるって知ってたわけじゃないからな、もちろん


忘れ物だ。そう呟きながら彼は自分の席からノートを取り出して振って見せた。

別に怖い声じゃないだろ

それよりそっちはどうしたんだ。一人でこんな時間に教室にいるガラじゃないだろ


その口調にも問い詰めるような響きは見当たらない。

何を言っているんだ、俺は?どうして谷口が俺を問い詰める。俺が麻薬を持っていることも知らないに決まっているし、本当に忘れ物を取りに戻っただけなのに違いないのに。

妙な罪悪感が湧いてきて、つい本当の理由を漏らしてしまう。

少し一人で考えたくて

ますます驚きだな。俺の知ってる間宮はそんなナイーブさを人に見せるやつだったっけな。

悩みがあるなら相談に乗ってやろうか?


そんな殊勝なことを言いながら、憎たらしい口元は他人事だと思って面白がっている顔だ。

それでも気遣われてることがわかってしまう辺り、本当に憎めないやつだなと思った。

だから口が軽くなったのかもしれない。

お前さ、救世主になりたいと思ったことある?

……は?


どこから出したのか、素っ頓狂な声とともにその笑みが消えた。予想した通りの反応だ。

いや、もちろん喩えで

喩えにしてもセンス悪いな……救世主って。
救世主か……ちょっとそれはわかんないけど、主人公にはなりたいって思ったことがあるぞ

主人公?

今度は俺が驚く番だった。あまりに予想外の単語が出てきたからだ。

え、子供の頃思わなかったか?ハーレムアニメの主人公になりたいって

……ハーレムアニメ限定かよ


冗談にされたけれど、その願望が冗談でないことは声音でわかった。

じゃあさ、例えばそのハーレムアニメ主人公願望でいいんだけど、
それって本気出せば、簡単に叶うじゃん?

……お前それ、俺の顔見ても同じこと言えんの?

見てるだろ、そうじゃなくて手っ取り早いのなら風俗とかさ。顔の問題だってことなら整形なんてのもあるけど

あぁ、そういう意味か


やっと納得がいったと言うように谷口が首肯する。

俺が今言ったようなのにはなんとなく嫌悪感があるけど、結局そういうのって手段の選択だろ?
だったら服装に金かけたり性格良くしようと努力するのと変わりないと思うんだけど

つまり自分の望みのために世間体的にもお前的にも良くない手段を使うかどうか。
それが間宮の悩みか

察しが良すぎると長生きしないらしいぞ

お前何者だよ


口ではふざけながら、彼は考えこむようにしばらく窓の外を眺めていた。しかし不意に手探りで言葉を選ぶように口を開いた。

お前が具体的な部分ごまかすから、ちょっと的外れになるかもだがその手段にお前が嫌悪感を感じるなら、その嫌悪感は何か理由があるのかもしれない。
例えばその手段で悲しむ人がいるとかさ。あるいは直接じゃなくても間接的に社会に良くない影響を与えるのかもしれない。

あとそれから、その手段が仮に誰にも迷惑をかけないとしても。その手段を使ったことを誰かに知られたら、その相手はお前に悪印象を持つんじゃないの?

前半はまぁわかるけど、後半どういう意味だよ

天河さんに嫌われちまうぞってことだよ

…………


俺は絶句してしまう。

意外だったわけでも図星だったわけでもない。だってそんなことはありえないから。

『天河沙希が間宮夏月を嫌うことだけは決してないから』

そして受け入れることもないんだ。

おい、大丈夫か?


谷口に心配そうな顔をされる。

今更だけどそもそもどうしてここまで真剣に答えるんだ。たぶんもう俺に何かあったって気付いてる。いや、それ以上に。

……お前はさ、お前は『主人公』になれたのか

…………なれなかったよ


だからか。もうこれ以上は踏み込みたくないし踏み込まれたくない。

そう考えて、切り上げる。

なんでこんなイタい話になってるのか知らないけど気が楽になったよ、
相談に乗ってくれてありがとな

相談を持ちかけられた記憶もないし、素直なお前は正直気持ち悪いぞ。

そして俺よりお前の方がイタいからな


そうやって冗談にして俺の友達は笑った。

うるさいな。早く帰れよ

照れ隠しにしてもひどいこと言うなぁ。

そうさせてもらうが、ついてくるなよ?

ドヤ顔でお前は何を言ってるんだよ


この雰囲気で一緒に帰るなんて、恥ずかしくてできるかよ。

んじゃ帰るけど


俺の唯一の友達は最後にこう残していった。

沙希ちゃんは和姦の方が好きだと思うぞ

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