四限目の授業が終わると、すぐに沙希がやって来た。
四限目の授業が終わると、すぐに沙希がやって来た。
かずくん、お昼食べようよ
いつも通り目の前の席に座って、俺の机に弁当を広げようとする沙希。
しかし俺はそれを差し止めて、立ち上がった。
悪い。俺、ちょっと腹が痛くて……トイレ行ってくる
え、大丈夫?
ああ、ただ長引くかもしれないから、先に食べててくれないか?
うーん、了解
その不満気な声に、行きかけた身体を止める。
沙希の目を覗きこんだ。
逸らされる。
俺が来るまで待ってるつもりだろ
流石だねかずくん。
でもあんまり察しが良すぎると長生きしないよ
お前は俺をどうするつもりだよ。
とにかく絶対待ってないで先に食べててくれよな
はいはい、
あ。かずくん、
急がないで良いからちゃんと手を洗うんだよ
俺が普段から手を洗わないかのように誤解されることを言うのはやめろ
だって小さい頃は――
わあわあわああああ!!!
じ、じゃあゆっくりしてくるから
そんなやりとりの後に後ろの席を振り向くと、既に水夜はいなかった。
昼休み、屋上に
俺はあたかも催しているかのように駆け足で教室を飛び出していた。
なぜか沙希の視界から出ても俺の足は走り続ける。むしろ速度をあげる。
当然トイレに行くなんて嘘だった。廊下の奥の階段へ向かう。
体重をかけてやっと動くような重い扉がギシリと音を立ててゆっくり開く。
外から漏れ入る風が扉と体の隙間を通り抜けて行く。
視界が広がり、まぶしい陽光が瞳に焼き付いた。屋上だ。
汗が噴き出すかと覚悟したが、思ったような残暑はない。
夏も終わるらしく、程よい涼しさが心地いい。
そしてそこには水夜だけ。
彼女は屋上の端の方。金網に閉ざされた青い空を背景に、遠くを眺めている。
こちらに気付いたのか、髪を風になびかせながら不意に振り返った。
その可憐な様子に気圧されたことを隠すように、わざとぶっきらぼうな声を出す。
来たぞ、屋上
水夜は一瞬、あの不敵な笑みを浮かべ、すぐに消した。
元の無表情へ。
そこにいたのは無様に髪を掴まれた女子ではなかった。
紛うことなく俺が公園で会った彼女。別人かと思ってしまうほどに。
その蠱惑的な瞳に吸い寄せられるように、されど水夜の元へ。俺は警戒しつつ近づく。
よく来てくれた、夏月
ああ
水夜が、俺の目の前に立つ。あの夜と同じように。
その手には何か小さいポーチのようなものが握られていた。
それが何か気になった。だけどそれより先に尋ねたのは。
休み時間のあれは、どういうつもりなんだ?
?
話を逸らすつもりはなかったが、自然と口をついて出た。
水夜は何が?と言いたげに、不思議そうな顔をした。
クラスの女子達に、消えろとかって言ってただろ
あんなことをすればどうなるか、わかっていたはずだ。
そして呆気無くその通り。潰された。汚された。
あの哀れな女子とお前は同一人物なんだろう?
あれがお前の本当の姿なんだろ。
水夜はああ、と小さく頷いた。どうやら思い出したようだ。
それほどまでに彼女の中であの出来事は、瑣末であったとでも言うかのように。
問題ない。彼女達も、じきに駆逐される
駆逐……か
強がりに聞こえなかった。本当にそうなのだ、と。
そう事実を語るだけであるかのように。
駆逐。不思議とその物騒な単語は、とても魅力的にも響いた。
気のせいだ。きっと。
どうして彼女の言葉はこんなにも、俺を惑わせてしまうんだ。
戻れなくなるくらい。信じてしまいたくなるくらい。
なるほど
もちろん、水夜の言う『駆逐』が何を意味するか理解出来たわけではないけど。
夏月。これから、大事なことだけ言う
………
彼女は押し黙った俺に、その言葉を突き刺した。
あなたは………あなたはこれから、ムンドゥスの救世主になるの
ムンドゥスの救世主?
初めて聞いたその単語に戸惑う。
ムンドゥス?というのは何なのだろうか。
そして、救世主という単語。どうして彼女自身でなく、俺が。
夏月
え?
より一層、真剣な表情で俺を見つめる水夜。
一抹の狂いも見当たらない。正気の瞳。
あるいは狂いしか見られない。子供の目。
あなたには、世界を救ってほしい。これは、私でなく世界そのものの願い
…………
そしてこれは、夏月にしか出来ない。救世主としての資質。必要なの、他でもない『夏月』が
ふいに身体が震えた。全身に鳥肌が立った。暴力的なまでに俺は芯を揺さぶられる。酩酊感すら覚えた。
眩暈の中思う。なんと言った?今。なんと言った?
『俺』が?
絞り出した問い。『俺』?
『俺の役割』でなく、『俺』。
『間宮夏月』。それは本物の俺。きっと。俺だけの『俺』。
そう
頷くと水夜は指先に下げていたポーチのようなものに手を入れ、中から何かを取り出した。
濁った白色の医療器具に対して、それが何であるか理解するのに数秒を要した。
これは、注射器……?
そこにあったのは日常生活では滅多に見ない。不穏当な幼少期のトラウマ。人を救い、殺す、医療器具。
針の先端にキャップが付いている。そして。
世界を繋ぐ、架け橋
注射器の中は、半透明の色がついた液体で満たされていた。
何が入ってるんだ。
まさか麻薬とかじゃないかこれ?
そうよ
不審に思って笑い飛ばそうと冗談交じりに訊いた俺に、水夜ははっきりと断言した。
麻薬?このいつも通りの屋上に、違法という非日常そのものが彼女の手の上に鎮座する。
ムンドゥスに行くための、道具
水夜は、その真剣な表情を一切崩さない。冗談では決してないと、語りかけるかのように。
奇妙な沈黙が訪れた。
風が凪いで、喧噪が遠くなり、宵闇の街の静けさに包まれる。
薬物、禁忌、犯罪。神様、救世主、ムンドゥスという単語。日常、世界、沙希、そして水夜。
いろいろなものが、俺の脳内に浮かんでは消えていった。そしてそれをすべて目の前の少女に見透かされているような。
世界を救って
沈黙を破る、水夜の声。手に握らされる。
『夏月』が、必要なの
安寧は壊された。幕が閉じる。劇が終焉する。ここから始まるのはリアル。
は、はは
俺は笑い出す。水夜が微かに首をかしげる。
そういうことか、結局は。そういうことか。
麻薬。目の前の女はヤク中。俺が惹かれたのは人工的なまやかし。
クソクラエ。
犯罪じゃねーか、何言ってんだよキ○ガイ。俺に何やらそうとしてんだよ。なぁ?
俺は目の前の注射器を奪ってそのまま水夜に投げつけた。
彼女は避けることもできず、目元のあたりにプラスチックの塊を受ける。
正直自分でも戸惑ってしまうほど、俺は怒りに震えていた。
夢が壊された子供みたいに。情けない。こんなもの信じてたなんて。
麻薬。よりによって、麻薬。
そんなものの生み出した妄想に。俺は救われようとしたのだ。
水夜の襟元を掴み、吊り上げる。抵抗もなく彼女は引き寄せられた。
汚らしい。目の前の『それ』がひたすらに嫌悪を催す。唾を吐きかけようかとすら思う。
いっそ犯してしまおうか。
壊したい。壊れた姿が見たい。
ヤク中らしく。公衆便所が如き姿に貶めたい。
そう、本気で思っていたのに。
だけど、目が合う。
水夜の瞳は、あの無表情じゃない。無気力じゃない。
まるで憐れむような、それでも救おうとするような。
それは。『俺』にだけ向けるそれは。
期待?
どうしてか、俺はその瞳に怒りを溶かされる。
動けなくなって、怒りも出口を見失い彷徨って。俺は水夜を放した。
水夜は何事もなかったかのように、立ち上がりながら転がった注射器を拾い、
俺にそれを握らせて。一言。
選ぶのはあなた
彼女は扉の方へ歩いて、
校舎の中へ消えていった。
きっとすべて。この屋上で起こったすべてが。
彼女の想定通りだったのだ。
階段を降りる靴音の背後。一人、屋上に取り残される。
どうしてかもう、再び投げ捨てることができない注射器。
たぶん俺は、考える時間を与えられた。
駆逐。
救世主。
世界を救う。
手には握らされた注射器。
救いとはきっと誰にでも与えられるものではない。では誰に与えられるのだ?
救いを得られなかったものとの差はなんだ?わかってる、はずだ。
たとえそれが明らかに間違ってるはずのものであっても、人は何かを選ばない限り救われることはない。
俺は。
尋常ではない考え。
俺はこれを打てば。
例えばそれは耳元囁く悪魔の声。
何かが変わるのだろうか?
だけどここに悪魔はいない。
透けた注射器の中身が世界を薄く濁らせる。
選ぶのは俺だ。