水樹がバーカウンターの中から、床に座り込んでいる私に目を向けて言った。
冬弥様への疑念。
そして消し去ることのできない不安を抱えたまま、あの大地震の日を迎えたのですね
水樹がバーカウンターの中から、床に座り込んでいる私に目を向けて言った。
私は冬弥のためならなんだってしてあげたいって思ってたはずなのに、いつの間にか自分の気持ちばかり優先していたの
愛していると言ってくれない。
そんなことに目くじらを立てて、怒り出すなんてどうかしていた。
私は間違っていたんだ。
冬弥が私への愛を示すことを期待するのではなく、私が彼の幸せを願い、愛することこそ私の幸せだったのだ。
だからこそ私は冬弥の身代わりになった。
でもそれももう終わり。
冬弥が死んだ今となっては、私の幸せはどこにもない。
もう一度、身代わりになることはできないの?
バカバカしい質問だとは思った。
まるで命の譲り合いだ。
それでも再び身代わりになれば、冬弥が考え直して生きる道を選ぶかもしれない。
残念ですが、身代わりになれるのは一度きりです
水樹はワイングラスを磨く手を止めて、申し訳なさそうに一礼した。
身代わりの権利を得た者に、他の客の情報は教えられない。
その説明を水樹から受けた時点で、既に予想していた答えだった。
冬弥が身代わりになったのを聞くことができたのは、私に身代わりの権利がないからだ。
それでもあえて質問したのは、最後の決断を下す前に念のため確認をしておきたかっただけである。
私……もう生きていく自信ないよ
それはつまり、このままあの世へ渡りたい……ということでしょうか
私が一度渡った身代わりの川は、三途の川に続いていると言っていた。
身代わりにはなれなくても、あの世へ行くことはできるはずだと思った。
よろしいのですか?
美由様の命は、二度も冬弥様が守り通したものなのですよ。
それをあなたは捨て去ると……
水樹の言葉に胸が詰まる。
正論をただただ突きつけられて、私の逃げ道を塞ごうとしているようにしか聞こえなかった。
私が水樹の言葉になにも返さず黙っていると、今までずっと本を片手に口を閉ざしていた水実が持っていた本を閉じ、パタンと音を立てた。
自分の気持ちを優先することの、何がいけないというのかしら。
愛されたいと願うことは人として当然の感情でしょう
水実はそう言った後、小さくため息をついて私の方へ冷めた視線を向けた。
あなたが死を選ぶというのなら、私はそれも仕方のないことだ思うわ。
でも、死ぬ前にちょっとお願いがあるの
水実はそう言うと椅子から立ち上がり、本を手に持ったまま私の方へ歩み寄ってきた。
死んでもいいよと言われると、それはそれで見放された気がして寂しくなった。
そんな自分の感情に気付き、私は一体何がしたいのだろうと自らを問いかける。
私は本当はどうしたいのか。
思うに自分の人生を呪いたいのだ。
さっきまで死にたいと言っていた自分が虚しく思えてくる。
だからと言って生きていたいとも思わない。
私の目の前に立った水実の顔を見ながら、私の生死をこの子に決めて欲しいと思った。
自分で判断するのも面倒になってしまったのだ。
そんな堕落した私にどのようなお願いがあるのかわからないが、恐らくなんの力にもなってあげられないだろう。
そんなことを思いながら、水実の言葉を待った。
この小説、未完成らしいの。
もし続きを知っていたら教えてくださらないかしら
水実は持っていた本を私の前に差し出した。
私は重くなった自分の手をゆっくりと持ち上げて本を受け取り、パラパラとめくった。
活字が詰まったページを次へ次へとめくる中で、文書が部分的に目に飛び込んでくる。
覚えのあるリズム、温もり。
この小説は冬弥が書いたものだ。
さらにめくっていくと、本が終盤のページに差し掛かったあたりから空白のページが続いた。
読んでみないと……わからないわ
こちらでごゆっくりお読みになられてはいかがですか?
お飲み物をご用意致しますので
水樹がカウンターに手を差し出し、座るよう促す。
私は立ち上がり、カウンターの席に座った。
水実から受け取った本の一ページ目を開き、最初の一行から文章を目で追い始める。
冬弥の書いた過去作品を全て読み尽くしたわけではないが、少なくとも私の知らない内容だった。
ある男女が恋をして同棲を始めるが、途中で男性が事故で死んでしまう。
男性は幽霊となった後も恋人との同棲を続け、二人で色々な出来事を乗り越える。
そんなお話だった。
読んでいて気付いたことがある。
私と冬弥の同棲生活には小説に描かれているような奇想天外な事件なんてなかったが、物語に出てくる男女の生活の大部分が私達と共通していた。
私がよく作っていたオムレツのことや、掛け持ちしているバイトのこと。
彼の生前の仕事や、小説を書いていたこと。
読み続けていると、冬弥と暮らした日々が蘇ってくる。
どのくらいの時間、読んでいただろうか。
小説も終盤にさしかかろうとしていた。
小説の中の二人はそのままの生活が続くかもしれないと思われたが、男性の存在が徐々に薄れていく。
そして……
俺は君の名を叫んだ。
聞こえた素振りを見せず、彼女は料理を続けている。
溶いた卵をフライパンに広げ、俺が大好きだったジュワーッという彼女との日常が鳴り響いた。
これからも一緒にいられると思った。
だが俺はやはり死んでいて、彼女はこれからも生き続ける。
彼女が作るオムレツだって食べることもできない。
恐らく彼女にはもう、俺の姿すら見えていないであろうことを直感で理解した。
彼女は振り返り、小皿を取って俺が立っている先のテーブルへと向かった。
俺の体を彼女がすり抜けていった。
彼女は見えていないだけではなく、俺という存在がこの部屋にいないことに違和感すらないようだった。
存在が消える。
俺が霊体となって、君との生活を続けていたという事実さえも……記憶さえも。
俺はまだ一度も君に言っていないことがあるんだ。
君が求めるその言葉が俺は嫌いだった。
その言葉を口にすると、俺の気持ちが安っぽくなる気がした。
だが、胸の内には確かに存在していたのだ。
こんなことになるのなら、君に言ってあげればよかった。
心の中でいつも思っていたあの言葉を。
今更言ったところで君に伝えることは出来ない。
それでもきっとこの言葉が君の心に届くことを願った。
「愛してる」
冬弥!
冬弥!
私は何度も彼の名を叫んだ。
涙が溢れ、鼻水も出ているかもしれない。
冬弥の体温を感じたくて、本を強く抱きしめた。
本からは彼の体温も厚みも匂いも、何も感じられない。
それでも抱きしめずにはいられなかった。