あの日。


 私も冬弥も仕事が早く終わり、久しぶりに二人揃って食卓を囲めることとなった。



 外は雪が降っていて、とても寒い日だった。


「今日は寒いからすき焼きにしよう」


 私がそう言うと、冬弥が「いいね」と答えた。


 その時の冬弥の笑顔を見た時、私は幸福の絶頂だったと思う。


 それは同時に不安が最高潮に達した瞬間でもあった。


 冬弥の笑顔を離したくない。


 ずっと彼の側にいたい。



 なぜ冬弥は愛してると言ってくれないのだろう。


 そう思う一方で、そんなことばかり気にしてはいけないと思う、もう一人の自分も常にいた。



 私はまな板の上で鍋に入れる食材を切りながら、どうしても消せない不安を必死に振り払おうとしていた。

あんたの父親は、私に愛してるなんて一度も言ってくれなかった。
最初から捨てる気だったのよ

 母の言葉が再び頭によぎる。


『お父さんと冬弥を一緒にしないで!』


 私は心の中で必死に叫んだ。


 なんでこんなにも不安になるのだろう。


 まるで、「私と仕事とどっちが大事なの」と言って困らせる女の人みたいだ。


 私はそんな女性にはなりたくない。



 考え事をしていたせいか、私は手を滑らせて包丁を足元に落とした。

 私はつい叫び声をあげてしまった。


 危うく自分の足を切ってしまうかと思い、冷や汗が額に浮き出る。



 私は無意識に冬弥の方を見た。


 冬弥はいつの間にかパソコンの電源を入れ、キーボードに手を添えて座っていた。


 小説を書いていたようだ。



 私が大声を出してしまったので、冬弥も驚いた顔でこちらを見ていた。

美由

ごめんなさい。
手が滑っちゃって包丁を落としちゃった

 冬弥は私の言葉に小さく頷き、すぐにパソコンの方へ顔を向けた。


 冬弥ならもっと心配して、慌てて私のところへ来てくれると思っていた。


 「大丈夫か」と言ってくれると思っていた。



 私の今まで抑えていた不安は、この瞬間に抑えようのない怒りへと姿を変えた。



 グツグツと煮えたぎる音がうっとおしくなり、鍋にかけていたガスコンロの火を止めた。


 床に落ちた包丁を拾ってまな板の上に置き、私は冬弥の方へ二歩ほど歩み寄る。


 気配を察したのか、冬弥が私の方を見上げた。

美由

私、包丁を落としたんだけど。
怪我はないかとか、大丈夫かとか。
そういう言葉はないわけ?

 もう駄目だった。


 私は自分の中で育ててきた不安が暴れ狂うのを制御できなくなっていた。

冬弥

いや、でも大丈夫なんだろ?
別にどこも怪我してないじゃん

美由

はあ?
冬弥、あたしの体のことちょっと見ただけで全部わかるわけ?
包丁落としたんだよ!
怖かったの!
足に刺さりそうになってさ!
怖かったのに!
なんで何も言ってくれないわけ?
冬弥!
私のことどう思ってるわけ?
心配じゃないの?
何事もなかったようにパソコン眺めてさ!

 まるで口が勝手にしゃべっているかのようだ。

冬弥

いや、心配だったよ。
だからさっき、すぐに美由が無事かどうかちゃんと目で確認したんだぜ

美由

うそだ。
そんな言い訳聞きたくない。
私なんかより小説の方が大事なんでしょ!
私のことなんかどうだっていいんでしょ!

 私は言ってはならないことを口にしたと思った。


 冬弥のことを応援したいのに。


 こんなこと言いたくないのに。


 私は自分の中に生まれた不安と怒りを呪った。

冬弥

なんだそれ。
不満に思ってたんなら応援するフリなんかやめろよ。
小説ばっかり書いてないで家事を手伝えってちゃんと言えよ

 私の目から、なんの抵抗もなく涙が流れ落ちた。


 私に幸せを与えてくれた冬弥が、怒りをあらわにして私を睨んでいる。



 私の怒りは禁句を口にすることで勝手に収まり、後には悲しみだけが残っていた。

美由

ごめんなさい。
ごめんなさい冬弥。
違うの。
そうじゃないの。
私、冬弥が夢を追いかけてる姿が一番好きだよ。
ずっと冬弥の側で力になってあげられたらって……。
でも不安なの。
冬弥、今までに一度も好きだとか愛してるとか言ってくれなかった。
冬弥の気持ちがわからなくて。
だから心のどこかでいつも不安に思って。
幸せなのに、どこか不安で……怖くて

 母と暮らしていた頃、私は辛い時も涙を見せなくなった。


 泣いても誰も構ってくれないからだ。


 母が死んだ時は、人目に触れぬよう泣いた。


 涙を見せるのは、弱みを見せるということだ。


 いつの間に私はこんなにも人前で泣けるようになったのだろう。



 きっと冬弥の前だから安心して泣けるのだ。


 不安が膨らむ一方で、私はちゃんと冬弥から安心をもらっていたのだ。



 それなのに、どうして冬弥を信じてあげられないのだろう。



 静まり返った部屋で、冬弥はひどいことを言ってしまった私を真正面から見てくれている。



 冬弥を信じよう。


 冬弥はきっと私を許してくれる。


 それに、言葉には出さずとも私を捨てるようなことはしないはずだ。


 今までどおり一緒にいられれば、もう言葉なんていらない。



 私はこれ以上考えるのをやめた。


 心の声を閉じると、周りがさらに静けさを増したようだった。



 しかし運命というのは、人の心などお構いなしだ。


 母が死んだと知った時、私は神様などいないと思った。


 だけど私が自分の過ちを正し、許してもらえる暇すら与えず、まるで神様という強大な意思が働いたとしか思えないほどのタイミングで唐突にそれは訪れた。

 小さな振動が足を伝わり、テーブルに置かれた食器やコップが小刻みに移動した。



 胸騒ぎで心臓の鼓動が大きくなっていく。



 一瞬、耳鳴りがするほどの無音が辺りをつつんだ後、耳元で電車が通り過ぎたかのような轟音とともに世界が跳ね回った。



 あたり一面に激しい音が鳴り響き、自分が叫んでいるのかもわからない。



 私は倒れそうになりながらも、身をかがめてバランスをとっていた。



 立っていられない。


 自分の足が勝手に諦めて力を抜き始めようとした時、辺りの轟音に紛れて冬弥の声が聞こえたような気がした。



 突然、私は体を押されて後ろに飛ばされた。

 その時、目に映るもの全ての動きが止まっているかのように緩やかになった。



 冬弥がこちらに手を向けているのが見えた時、私の体を押したのが冬弥だったことを知った。



 冬弥の顔に影が広がり、上からあの大きな食器棚が倒れてくる。



 冬弥が私に向けている顔が、とても悲しそうに見えた。


 くだらないことにこだわって、冬弥と喧嘩したまま……このまま冬弥とお別れになってしまう気がした。



 その予感は的中してしまったのだ。



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