ある日、私がバイトから帰ってくると、割と殺風景だったワンルームの雰囲気が一変するほどの存在感を持った、大きな食器棚が台所の近くの壁際に置かれていた。

美由

すっごいね!
大きいね

 新たな家具を迎え入れた喜びよりも驚きの方が勝る心持ちで、少し興奮気味に感想を述べた。

冬弥

ま、いいさ。
いつかこの食器棚に見劣りしない立派な家に住もうぜ

 そう言ってくれる冬弥の横顔はなんだか男らしくて、少しドキッとした。

美由

えへへへ。
夢あるねー。
でも私は冬弥が側にいてくれたら、それだけで幸せだよ

 私はこれから先も一緒にいて欲しいと思い、それを少しだけ回りくどい言葉に変えて彼に伝えた。


 だが、私がしゃべりだした時にこっちを見た冬夜の目がフイッとそ逸れた。



 心の奥底にこびり付いた母の言葉が、チクリと小さな痛みを私に与えた。


 でもすぐに、冬弥は照れているだけなんだと、私は気持ちを切り替えた。

美由

あ、今目を逸らした。
冬弥ってこういう時いつもそうだよね

 私はおどけた感じでそう言って、自分の中にあった小さな痛みをごまかした。

冬弥

ゆ、夢といえばさ。
その、なんだ。
小説……また書いてみようかって……

 冬弥が話を意図的に逸らしたのは、何となく気がついていた。


 本気で夢を追うつもりでもなく、言葉の通り書いてみようという気まぐれでしかないのも雰囲気で伝わった。


 だが、私は素直に喜ぶことにした。


 そうすることで、私の中に芽生えている小さな不安を消してしまえそうな気がした。


 冬弥は日に日に、小説を書く喜びを思い出しているみたいだった。


 小説を書くから必要だという理由で購入したパソコンも、最初のうちはインターネットをするためだけのツールに成り果ててしまうかもしれないと思ったが、今ではしっかりと小説のために使われている。



 パソコンに向かっている冬弥は目が悪くならないか心配になるくらいに集中していて、時々両手を上げて背を伸ばす姿がとても楽しそうに見えた。


 そんな彼の側にそっと温かい紅茶を置く瞬間が、私に幸福感をもたらしてくれた。



 私が淹れるのは決まって、幼き記憶を包み込んだ思い出の紅茶だ。


 記憶を頼りに近所のスーパーで探し当てたティーパックなので、本当は違っているのかもしれないが、そこはあまり重要ではない。


 幸せを感じられるのならなんでも良かった。

 冬弥と私の休日が重なるも、雨で外出を断念する日があった。


 そういう日は、冬弥が小説を書いている後ろで、彼の過去の作品を読んでいたりする。


 冬弥の側には私が淹れた紅茶が湯気を揺らめかせ、私も同じものを手にとって啜る。



 実のところ、私が一番好きな休日の過ごし方だ。



 私は間違いなく幸せを感じていた。


 だが一方で、幸せを感じれば感じるほど、心の奥に潜む不安は大きくなっていた。


 私はこんなにも幸せだが、冬弥はどう思っているのだろう。

美由

冬弥。
私のこと愛してる?

 どうしても冬弥の気持ちを確かめたくて、こんなくだらない質問をしてしまう自分自身が嫌で仕方なかった。



 冬弥が『愛している』と言ってくれない。


 そのこだわりをくだらないと頭では思っていても、心が愛を形として欲してしまう。


 生まれて初めて実感した幸せは、常に不安と隣り合わせだった。



 不安は日を追うごとに、母のように捨てられてしまうかもしれないという恐怖へと変貌していく。


 私は冬弥を信じるべきだと思いながらも、どうしようもない強迫観念に駆られていた。




 そして。


 その気持ちは解消されないまま、運命の日を迎えてしまったのである。

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