押し入れを開けると、以前から気になっていたダンボール箱がある。


 それは乱雑に放り込まれた掃除用具やアイロン、衣替えの時期がくるまで眠らされた冬服、積まれて紐で縛られた小説などと共に、一番奥の壁際で窮屈そうにしていた。



 最初にそのダンボール箱を見つけたのは、冬弥と同棲し始めてすぐのことだ。



 あれから二年もの間、彼との生活という小さな世界に存在するパンドラの箱のように、例のダンボール箱は私の好奇心と理性をくすぐり続けた。


 開けてはいけないもののような気がするが、中を見てみたい。


 だが、冬弥との関係が崩れるほどの秘密が入っているかもしれない。


 そんな風に思ってはいたが、よく考えてみれば押入れを開けるとすぐに目に付く箱だし、そんなに深く考えるものじゃない。



 二年間あれこれ悩んでおきながら、何故あれほどの迷いがあったのかと思えるほど楽観的になった。

美由

なんだろな

 冬弥が留守中の一人きりの部屋であえて独り言をつぶやき、私はダンボールの箱を開けた。


 中から出てきたのは、文字がびっしり埋められたノートや原稿用紙だった。

美由

なんだろ

 今度は自然と声が漏れた。



 予想外ではあるが特に驚く代物でもなく、純粋に感じた疑問だった。



 無意識に文字を目で追っていくうちに、これらが全て手書きの小説であることに気付く。


 恐らく冬弥が書いてきたものだ。


 私は押し入れのふすまの前で正座し、夢中になって読み始めた。



 冬弥と共に過ごす朗らかな休日が文字を通して蘇ってくる。



 もしかしてこれは冬弥が描いてきた夢の形なのではないかと思った。

あんた、夢はある?

 母を見た最後の日、生活感のないビジネスホテルの部屋で言われた言葉が不意に頭をよぎった。



 私には夢などない。



 だけど、もし冬弥に夢があるのなら、それが叶ったらどんなに素敵なことか。


 それこそが私の夢のような気がしてきた。

 その日の夜、私は洗濯物を畳みながら冬弥の夢を応援したいと彼に伝えた。


 だが、冬弥はそんなことを私に望んではいなかったようで、強引に話題を変えようとしてきた。

美由

今は冬弥の話をしてるの

冬弥

美由は自分のことだけを考えてりゃいいんだ

 そんな感じでお互いに主張を譲ることなく、楽しくなるはずだった夢の話は次第に口論へと発展していった。


 二人して声を張り上げ、重苦しい沈黙が辺りを包む。



 場の空気に耐え兼ねて、私の方から冬弥に声をかけてみる。

美由

あの……私のことはいいからさ。
冬弥は自分の夢を追いかけて欲しいな

 本当はまだ気持ちが昂ぶってはいたが、それが表に出ないようになるべくいつも通りの声で言った。


 冬弥と喧嘩したまま会話を終わらすのは、やはり寂しいと思ったのだ。

冬弥

なんでそこまで俺の夢にこだわるんだ?
美由にだって夢があるんだろ?

 冬弥はまだ少し怒っているような口調だ。


 冷静に考えると、彼の意思も尊重せずに自分勝手なことを言っていたと思う。

美由

なんでって……冬弥のことを愛してるから……かな。
なんちゃって

 冬弥の機嫌が直ってほしくて、少しおどけた感じで言った。


 ただ、愛しているという言葉だけは本当の気持ちだった。



 冬弥と過ごした二年間は、これまでの辛いことを全て忘れさせてくれる幸せな日々の連続だった。



 バイトが早く終わった日は彼を出迎える喜びがあり、バイトが遅い日は彼に出迎えられる喜びがあった。



 だが、私は自ら愛という言葉を使うことで、私と冬弥の間に恋人として決定的に欠けているものに気が付いた。


 冬弥と出会ってから今日まで、私は一度も冬弥から好きだとか愛しているという言葉を聞いたことがなかったのだ。



 私からもこの言葉を使ったのは、これが初めてのことだった。



 ちょっと悪ふざけにも似た愛の言葉だったのに、冬弥がどのような反応をするのかとても興味が湧いてきた。



 私はうつむき、祈るように冬弥の答えを待った。

冬弥

俺達まだ結婚したわけでもねぇじゃん。
愛なんてくだらない言葉、軽々しく口にするなよ

 冬弥はきっぱりとそう言い捨てた。


 この言葉が耳に入ってきた時、私は単純にショックを受けた。



 言葉の意味をそのまま受け止めて、ひどいことを言われたと感じ、当たり前のように泣きそうになった。



 この時はそれだけだった。

 後日、冬弥は仲直りの印にと、プリンを二つ買ってきた。



 その時は私も自分の行動を冷静に見直していた。



 冬弥の夢が私の夢でもあるだなんて勝手に一人で盛り上がっていた私は、冬弥の気持ちを考えることもなく、とにかく彼の力になりたいという欲求に駆られていたのである。


 自分に非があることも認めていたので、仲直りの儀式は滞りなく終わらせることができた。




 はずだった。




 プリンの容器の底に溜まったカラメルソースをプラスチックのスプーンでカリカリ集めていた時、不意に母が残した言葉が頭をよぎった。

あんたの父親は、私に愛してるなんて一度も言ってくれなかった。
最初から捨てる気だったのよ

 冬弥がそんな男性であるはずがない。



 もちろんそう思ったが、この時から私の心の奥底に、母が残した呪いのようなものがこびりついた。

pagetop