冬弥と初めて出たってから二週間後。



 バイトから帰る道中でパラパラと雨が降りだした。


 雨は少しずつ強まっていき、家に着く頃には土砂降りになっていた。



 床に配置したコップやボウルが部屋の天井から滴り落ちる雨水を受け止め、一定のリズムを刻んでいる。


 住み始めた頃は割と綺麗な部屋だと思ったのだが、なかなかの雨漏り具合とシャワーの温度の不安定さだ。


 家賃が安いだけのことはある。



 外の雨音に気だるさを覚え、まったり読書でもしようか。

そう思って壁に配置した枕にもたれて座り込んだ矢先、私の携帯が鳴り響いた。



 冬弥の携帯の番号は自分の携帯のアドレス帳に登録していたから、彼の名前は液晶にちゃんと出てきていた。


 それなのに私は数秒の間、誰なのかわからなかった。


 墓参りの時に出会った彼だと気付いた途端に激しくなった心臓の鼓動を、深呼吸で落ち着かせて携帯に出る。


 それが冬弥からの初めてのお誘いだった。




 受話器越しの冬弥の声は一人で紅茶を飲んでいる時に聞こえてくるクラシックのように、私の体をサラリと通り抜けていった。


 私は心地いい音楽を聞きながら指でリズムを取るような感覚で、彼の声に相槌をうっていた。

冬弥

それじゃあ、来週の土曜で

美由

え?
土曜に何があるんでしたっけ?

 相槌に夢中で話の内容が頭に入っておらず、慌てて聞き返す。

冬弥

しょ……食事です。
今度こそ、おいしいとこ見つけたんで



 私が聞いてなかったのが悪いのに、何故か彼の方が慌てだして説明し直した。



 ちょっと申し訳ないという気持ちもあったが、彼に人の良さそうな印象を受けてなんだか嬉しくなった。



 改めて食事の約束をして電話を切ると、口元がゆるゆると動き出した。


 我慢できたのは二秒程で、一気に顔がほころぶ。


 部屋のあちこちから聞こえる水滴の着地音が、とりあえず落ち着きなさいと私に言っているようだ。



 外から聞こえる雨音を聞いてるうちに心が落ち着いてきて、私は母のことを思い出した。


 母はあの世から幸せそうにしている私を見て、羨み、嫉妬しているかもしれない。


 それとも喜んでくれているだろうか。



 ごめんなさいお母さん。


 でも、私はあなたのような不幸な人生だけは送りたくありません。



 天井を見上げながら、私は心の中で母に語りかけた。


 母に届いているかは重要ではなく、誰からともなく許されたいだけだった。



 部屋のあちこちで刻んでいた水滴のリズムが緩やかになり、私はそれを母の前向きな返答だと都合よく解釈した。






 人との付き合いにはそれぞれの色があるのだろうか。


 冬弥との約束で食事に行ったわけだが、今までとは明らかに見てきた色の質が異なっていた。


 例えば子供の頃、一人で惣菜を食べていた時の色は灰色に近い。


 灰色の人生なんて言葉があるが、思い返すと言葉の意味とは無関係に灰色や黒が主流の世界に見えた。


 バイトをしてる時は忙しいながらも、頭を空っぽにしている感じがなんとなくワインレッドを思い浮かべる。



 冬弥と向かい合って食事をしている今は水色だ。


 冬弥そのものがではなく、彼の後ろの窓から見える風景が晴れ晴れしすぎて、目に飛び込んできた色がそのままイメージとなったのかもしれない。


 だが子供の頃だって晴れた空を見てきたはずなのに、当時を思い出してもこの色は出てこない。


 冬弥といるから水色の空が映える気がした。



 冷えたビールが入った小さな冷蔵庫や、隅っこに積まれたみかんのダンボール箱、ビールのラック等がいかにも昔ながらだと物語る小さな食堂で、私と冬弥が向かい合って座る。


 彼は小さい子供とキャッチボールをしているように、世間話を一つ一つゆっくり投げかけては私の反応に笑顔を返した。

美由

始めて見た

 私はそう言った後、心の中で『こんなに素敵な笑顔』とつぶやいた。


 なんの脈絡もなくそう言った私の顔を、冬弥が不思議そうに覗き込む。

冬弥

何を?

美由

なんでもないよ。
話の続きをどうぞ



 冬弥のちょっと困惑した顔を見ていると楽しくて、私の顔が緩んだ。


 彼は少し照れくさい表情を見せた後、話題を探すように少し斜め上を見ながら再び世間話を始めた。



 彼の話に相槌を打ちながら食後に付いてくる紅茶を口にした時、とても懐かしい味がした。


 もう随分思い出すことのなかった記憶。


 幼き頃、コップに注いだ冷えた紅茶を手に持ちながら「ただいま」と言った私の目に写っていたのは、優しい光に包まれた母と、窓いっぱいに広がった水色の空だった。





 それ以後も、冬弥は何度も私を食事に誘ってくれた。


 私も冬弥に会いたくて、自ら美味しいお店を探して誘い出した。



 だが、彼から交際の申し込みがないまま時が過ぎていく。



 考えてみれば私は彼のことを知らないまま、彼の笑顔に惹かれていた。


 実際のところ私は冬弥にどのように見られているのか。


 そのようなことを、出会って半年にしてようやく気にし始めた。


 冬弥と過ごす時間が心地よくて、恋愛感情特有の焦りを忘れていたようだ。



 露骨な質問は冬弥との時間の質を下げてしまうと考え、まずは彼を知ることから始めた。

 彼は自分のことを一切隠す様子もなく、色々と教えてくれた。



 私に墓地で声をかけた日は、彼の母が亡くなって一年後の墓参りだったそうだ。


 父も小さい頃に亡くしており、冬弥は現在、小さな鉄工所で働きながら一人暮らしをしているらしい。


 境遇が私に似てて驚いた。



 私も母が亡くなったことや一人暮らしのことを彼に伝えたが、母からの虐待や、父の失踪、あの不気味な男の存在に母の無理心中など、後暗い過去についてはあえて語らなかった。


 話すことで思い出すのも嫌だし、彼と過ごす水色に灰色を混ぜて濁したくなかったからだ。



 共に互の境遇がある程度理解できた時、冬弥が同棲を持ちかけてきた。

美由

私達、付き合ってるって思っていいのかな

 私は冬弥から交際を申し込まれてはいない。


 それが一緒に住もうというところまで話がスキップしたものだから、私は少し戸惑った。

冬弥

ご、ごめん。
俺はそのつもりだった。
早とちりだったみたいだ。
なんせ、今まで女性とあまり接した経験がなくて。
ごめん

美由

ち、違うの。
恋人同士になれてたんだって、ちょっと嬉しくなっちゃって。
私、自信なかったから

 本音というか贅沢を言うと、きちんと告白という手順が欲しかった。


 冬弥が私の彼氏だとはっきりしたのは、このなんとも味気ない会話のやりとりからだ。


 冬弥にとって、いつから私を彼女として認めてくれていたのかがさっぱりわからず、モヤモヤした気持ちが残った。


 ただ私はこれまで恋愛とは無縁の生活を送っていたので、交際のあるべき姿など判断できず、色々な価値観があるから仕方がないと結論付けた。



 それに同棲という提案は私にとって嬉しい申し出だった。


 冬弥といつも一緒にいられるのはもちろんだが、金銭面でも相当助かる。



 私は多少周りに漂っているモヤモヤを振り払い、両手を上げて冬弥の申し出を歓迎することにした。

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