雪の福音亭のドアを開けると、中から活気と料理の熱を帯びた空気が溢れてきた。客はたくさんいて給仕たちは忙しく歩き回っているが、騒々しさは全くない。
雪の福音亭のドアを開けると、中から活気と料理の熱を帯びた空気が溢れてきた。客はたくさんいて給仕たちは忙しく歩き回っているが、騒々しさは全くない。
盛況の割に静かなのは、入り口を入ってすぐ正面にある、店の中央を占める大テーブルを囲む数十名の団体様が、非常に上品に会食しているのが最大の理由だろう。このお上品なお客様達は、魔王討伐隊を歓待する巡礼騎士団達だ。大テーブルの料理に舌づつみを打っている顔ぶれの中には、ヴァルター達や先ほど会った騎士のマルクもいる。
あたしとエリザはそんな彼らを尻目に、窓際の二人掛けの席に通された。給仕からメニューについて簡単に説明を受け、気になった料理をいくつか注文する。
ほどなく運ばれてきた料理は、どれも一級品だった。子羊の香草焼きは噛みしめると柔らかな肉からうま味があふれ出して口の中にじゅわりと広がっていくし、ほくほくしたじゃがいもにバターを乗せただけの簡単な料理さえ驚くほど美味しく、厳選された素材を使っていることが想像できた。
クレソンを添えられた白身魚のソテーをナイフで切りながら、何気なくヴァルター達の方を見ると、フォルケールが立ち上がって何か話し始めるところだった。
さて、実はこのフォルケール、この店にて毎晩、ヴァイオリンの演奏を行わせていただいております。芸術に疎い武骨者ですが、ヴァイオリンの腕だけはちょっとしたものだと自負しております。魔王討伐隊の方々にも、是非お聞きいただきたく。
そういって彼は、店の正面奥の、テーブルの置いていないスペースに歩いて行った。彼の従者がさりげなく近寄って、彼にヴァイオリンを渡す。
スポットライトが当てられると、彼は深く一礼して、おもむろに演奏を始めた。
彼は自分の腕前について、「ちょっとしたもの」と言っていたが、最初の一小節を聞いただけで、それが謙遜であった事を思い知らされた。
そしてその認識は、演奏が進むにつれてますます強まっていった。ある時は情熱的に、と思うと急に優しく、まるで前人未到の深山でひっそりと湧き出た川が、厳しい急流やなだらかな流れ、時には滝とさまざまに姿を変えるように、彼の演奏は一曲の中で様々な表情を見せた。
ほえー……。
すっごい上手い……
白身魚を口に運ぶのも忘れて、ひたすら聴き入っているうちに演奏は終わり、フォルケールは弓を持つ手を胸の前に添えて、ゆっくりと一礼した。
鳥肌の立つような優れた演奏でした
エリザも演奏に聞き惚れて食事がおろそかになっていたと見え、シチューに黒パンを浸しっぱなしにしている。パンを持つ手の辺りにまでシチューがしみてきたらしく、慌てて口へ運んだ。
そんな演奏の余韻をかき消すように、数人の男たちが店の中へ入ってきた。メレクの信徒たちが着る衣装に身をつつみ、天上教の巡礼者が多いこの店では少し浮いた格好をしている。彼らは店の奥までずんずんと歩いていき、ちょうど厨房から顔を出した店主らしき男に詰め寄った。
なあ、お願いだ。
先月までずっと、この店で演奏するのは俺たちだったじゃないか。今月も演奏させてくれ。
この仕事がないと、俺たちは明日のパンを買うのにも事欠くありさまなんだ
店主はしかし、全く取り合おうとしない。
今月は巡礼騎士団の総長様がこのザンクトフロスに逗留なさることになってる。
ヴァイオリンの名手と名高いフォルケール総長様が演奏してくださるのに、お前たちなんか必要ないだろ
彼らの会話を聞いていると、事の次第がなんとなく把握できた。
巡礼騎士団はザンクトフロスだけにいるわけではなく、巡礼の道が通るエリアをいくつかの管区に分けて各地に分隊を置いている。総長フォルケールはそれぞれの管区を見て回ったり、王都で庶務をこなしたり飛び回っているが、今月はずっとザンクトフロスにいるらしい。
フォルケールがザンクトフロスにいる今月中、毎晩雪の福音亭でヴァイオリンの演奏を買って出たのだが、それによって先月まで雪の福音亭で演奏の仕事をしていた楽団、つまり、今店主に詰め寄っている男たちが仕事にあぶれてしまったというわけだ。
来月、フォルケール総長様がこの街を出立なされたら、あんたらの仕事もあるかもしれんね
だから、来月まで食べていける金がないんだよ!
そんなことは俺の知った事じゃない。
じゃ、じゃあ、総長様の演奏の前座でもなんでもいい。俺たちも演奏させてもらうことは出来ないか?
こっちにも予算ってものがあるんだよ。
二組分の出演料を払う余裕はないね
男たちと店主が押し問答を続けている間、フォルケールはヴァイオリンを持ってたたずんだまま、そのやり取りを黙って聞いていた。だがいつまでも話が平行線をたどり、埒があかないと見るや、男たちの方へと近づいて行った。
私は諸君らの仕事を奪ってしまったのかもしれない。
だが、諸君らは私より上手いのかね?
そう問われて、男たちは押し黙る。彼らの実力はあたしにはわからないが、フォルケールより上手い演奏家など、グラマーニャ中を探しても数えるほどしかいないだろう。
よしんば諸君らの方が上手いとしてもだ。
風体を見る限り諸君らはミタン人で、ミタン人の伝統音楽をやるのだろう。この店の客はほとんどが天上教徒の巡礼者なのだから、私が弾く天上教の宗教音楽の方が好まれる
要するに、諸君らは不当な理由で仕事を奪われたのではない。実力不足かつ需要に合わない音楽ゆえに、より優れた腕前を持つ、より客に好まれる曲を弾く者に追い落とされたにすぎん
くやしかったらさっさと帰って練習でもして、実力で私から仕事を奪い返してみせるんだな
彼の言い分は、正論には違いなかった。
しかし正論を吐かれたからと言って、男たちに他の仕事が来るわけでも、明日食べるパンがもらえるわけでもない。彼らからしてみれば、正論で反論されたからと言って引き下がるわけにはいかないのだ。
くそっ。
お前のせいで俺たちは飢え死に寸前だ。
てめえの腕をへし折って、ヴァイオリンを弾けなくしてでも、俺たちは仕事を手に入れる!
そう宣言するや否や、男たちは懐から次々にナイフを取り出し、フォルケールに襲い掛かった。
騎士団の騎士たちが気色ばんで立ち上がり、総長を守ろうとするが、彼らの出番はなかった。
フォルケールはヴァイオリンを床に置くと、弓を剣のように構え暴漢たちをあっという間に打ち倒したのである。
最初に斬りつけてきた男のナイフを弓で受け止め、腹を蹴って転倒させる。間髪を入れずにその後ろにいた男の右手を弓でしたたかに打ち据えてナイフを落とさせる。電光石火の早業に他の男たちが驚いている隙に、暴漢の一人の後ろに回り、ナイフを持つ手を捩じり上げる――。
そんな調子で彼は一人で、五人ほどいた暴漢を倒してしまったのである。
すべてが終わると彼は、息を飲んで見守っていた客達の方へ向き直った。そして演奏が終了した時と同じく、弓を持つ手を胸に当てて一礼した。
客の皆さまの団欒の時を血で穢すわけにはいかぬゆえに、打ち据えるだけに留めたが……
お前たちがまだ懲りていないというなら、外で続きをやってもいい。――次は真剣でな
暴漢たちに向けてそう言うと、男たちは恐れをなして店の外へと逃げていった。
やっぱ、巡礼騎士団の総長って強いんだね
確かに強いのですが……
なんというか、危うさのようなものを感じます
エリザは、フォルケールの方を見つめながらそうつぶやいた。
危うさって?
あの男たちは、はじめから乱暴をしようと思って店にやってきたのではありません。平和裏に彼らを説得して、帰らせることもできたはずです
実際彼らはそこらのゴロツキではなく演奏家だ。そこらで頻繁に暴力事件を起こしているような奴らだったら、こんな高級店での演奏をさせてもらえるわけがない。収入がなくなり切羽つまっていたとはいえ、簡単に暴力に訴えるような人達ではないはずだ。
フォルケールはそんな彼らを追い詰めるような正論を吐き、ナイフを抜くように仕向けたとさえ言えなくもない。そんな様子を指して、エリザは危ういと言ったのだろう。
それってつまり……
彼はトイフェルに憑かれている疑いがあります。
突出した能力を持ち、それでいてどこか危うい。フォルケールはまさに、トイフェルに憑かれた人の特徴にぴったりと当てはまる。
もう少し、フォルケールについて調べる必要があるね。
エリザはうなずくと、巡礼騎士団たちのテーブルへと近づいて行った。そして先刻の騒ぎがなかったかのように平気な顔で飲み食いしている面々の中にマルクの顔を見つけると、彼に話しかけた。
あの、マルク様。
少しお話を伺いたいのですが
君は……グレーテルの友達だったね。
いいとも。なんでも聞いてくれたまえ
ここでは話しにくい内容ですので、こちらで……
そう言って彼女は、マルクをあたし達のテーブルへと連れてきた。マルクが中座したことを騎士団員たちに咎められるのではないかと危惧したが、エリザが幻術を使って、マルクがいなくなったことを他の人々に気付かせないようにしているとのことで、マルクが席を立っても見咎めるものはいなかった。
お聞きしたいのは、あなた方の総長、フォルケール閣下についてです。
ヴァイオリンの腕は素晴らしく、剣もとてもお強い方ですが、その反面、少し冷徹な印象を受けます。あの方は、昔からそうなのですか?
エリザはいきなり核心を突く質問から入った。フォルケールがトイフェルに憑かれているなら、憑かれる前は今のような冷徹な人物ではなかったはずである。
いや、それがさ、五年くらい前かな。
俺が巡礼騎士団に入って、最初に配属された管区の管区長がフォルケール様だったんだけど、その頃はあんな厳しい人じゃなかったんだ
マルクによると、フォルケールは総長になる前、巡礼騎士団のある管区の管区長だったそうだ。その頃のフォルケールは今ほど厳しくなく、非番の日にヴァイオリンを弾くことだけが生きがいの、気のいい上司だったそうだ。
思えばヴァイオリンも剣の腕も、今ほど卓越してはいなかったな。でも、俺はあの頃のフォルケール様の方が好きなんだ
そんなフォルケール管区長が担当する管区は、グラマーニャの東の果て、異教徒が治める国との国境付近にあり、頻繁に越境してくる異教徒の野盗に悩まされる過酷な地域だったそうだ。
最初のころは野盗にすら情けをかけることもあったフォルケールだが、野盗の襲撃による被害が繰り返されるにつれて、部下や地域住民を守るために、次第に野盗に対して厳しい対処をせざるを得なくなっていったという。
決定的だったのは、フォルケール様が自分の右腕として全幅の信頼を寄せていた、副管区長のテオドール様が、野盗との戦いで亡くなられた事だな。それ以来、フォルケール様は完全に変わってしまった
ある時、管区内の町で多数の野盗による大規模な略奪が行われたことがあり、駆け付けた巡礼騎士団と激しい戦闘となった。その時、フォルケールの親友でもあり副管区長でもあったテオドールが、野盗の矢を受けて亡くなったのだという。
俺もフォルケール様も、戦闘中は他の人がどうなってるか気にかける余裕はなかった。ようやくある程度の野盗を倒し、残る野盗も退却を始めた時、ようやくテオドール様がやられたのに気づいたんだ。
その時の様子は、未だに昨日のことのように覚えているという。フォルケールは激しく慟哭し、こう言ったという。
神よ! いや、私に復讐する力を与えてくれるなら悪魔でも構わない
奴らを一人残らず、我が手で八つ裂きにする力を与えたまえ!!
そう叫んだ直後、フォルケールは逃げる野盗を単騎駆けで追い、たった一人で全員を斬り殺したという。
それからだな。フォルケール様がああなったのは。剣もヴァイオリンも達人級になったけど、そのかわりなんか冷たい人になってしまった
フォルケールはその後、鬼神のごとき活躍でその管区の治安向上に貢献し、その功が認められて総長に抜擢された。それ以降はマルクはフォルケールとあまり会っていなかったが、最近マルクがこのザンクトフロス管区に異動になったのと丁度同時期に、フォルケールもこの地にしばらく逗留することになり、久しぶりの再会を果たしたのだという。
なるほど。
お話しくださりありがとうございました。
エリザは丁寧にお礼を言って、マルクを解放した。
ねえ、今の話からすると、やっぱりフォルケールはトイフェルに憑かれてるんじゃない?
その可能性が高いですね
ならば、救わなければならない。
フォルケールに取り憑いたトイフェルをどうやって引き剥がすか、あたし達は作戦を練ることにした。
(続く)