私が冬弥と出会ったのは、母が死んで一年ほど経った、寒さが身にしみる真冬の墓地だった。





 私もあれからずっとメソメソしていたわけではない。


 そう言ってもいいと思える程度には生きてきたはずだ。



 母の死で自分を追い詰めた時期もあったが、一人で生きていくしかないともなると、落ち込んでばかりもいられない。


 不毛な過去と自責を忘れたくて、将来のやりたい仕事というものを無理やりに決めた。


 適当にかき集めた専門学校のパンフレットを部屋の床にばらまいて、何気なく眺めていた時、美容師という言葉が私の目に飛び込んだ。


 本当はそれを見た時も本気でやりたいと思ったわけではない。


 ただ、『将来の夢』っぽいと思っただけなのだ。


 あみだくじの感覚で将来の進む道を決めて、あとはそこに向かって進むだけである。



 そうしてバイトをこなして少しずつ貯金する日々を過ごしてはきたが、ふとした瞬間に思うことがある。


 それは、バイト仲間と気を遣いながら話をしている時や、一人で夕飯を食べながらバラエティ番組などを観ている時。

 預金通帳を見ながら。

 いずれ来るであろう専門学校での学生生活を想像する時。

 そんな、考え事をする余裕が生まれた瞬間である。



 私は今、幸せに向かっているのだろうか。


 はっきり言い切ってしまうが、母と生活していたあの頃に幸せが僅かにでも転がっていたとは思わない。


 だが、今もこれから先も幸せが来ることを想像できない、ある一つの感情が私を縛り付けていた。



 孤独。



 子供の頃に私を虐待し、愛を与えず、くだらない男を家に連れ込んで辛い生活を余儀なくさせた、あんな母であっても私にとって唯一継がりを感じる人間だったらしい。



 今、私の目の前には母の眠るお墓がある。


 私はお墓に手を合わせることで、更に孤独を実感する。


 静かに目を閉じて、最後に見せた母の優しく微笑んだ顔を思い出すと不意に涙がこぼれた。


 一粒、二粒と次々に溢れ出し、止まらなくなった。


 遂には声を上げて泣き出しそうになった。



 悲しみだけではなかった。


 未来に希望を見いだせない、生きてたってしょうがないと、脳裏に焼き付いている優しい目をした母に私は甘えていた。


 要するに駄々をこねたのだ。




 母のお墓から、元来た墓地の小道を泣きじゃくりならが歩く。


 しばらくして、小道から少し開けた空間がある場所までたどり着いた。


 そこは十字路になっており、中央に大きな木が一本だけどっしりと立っていた。


 その木の周りを、白いベンチが柵の代わりのように囲っている。



 私はそのベンチに腰掛けた。



 みっともない泣き顔のまま、墓地を出るわけにはいかない。


 気持ちが落ち着くまで、今のうちに泣いておこう。


 どんなに駄々をこねたって、明日も明後日もこれからも、生きていかなければならないのだ。


 私は涙でボロボロになったみっともない顔を、両手で覆い隠して泣き続けた。


 どのくらい泣いていただろうか。


 随分長いようでもあるし、実は数分程度だったんじゃないかとも思う。

冬弥

あ……あの。
どうかしましたか?
大丈夫ですか?


 突然誰かに声をかけられ、私は覆っていた手を恐る恐る下げて声のする方を見上げた。



 そこには二十代前半くらいのスーツ姿の男性が立っていた。


 それ以上の情報や印象は私の頭に入ってこなかった。


 他人に関わっていられる心境じゃなかったからだと思う。



 その後、彼は私の隣に座った。



 泣いている人間に声をかけたら、「ほっといて」と言われるのがセオリーではなかろうか。


 私がそれを言わなかったとしても、察してしかるべきではないか。



 無神経な人だと思った。



 だが、この後歩いて駅まで行き、電車に乗って家へ帰ることを考えただけでも腰が重くなる今の私には、彼を拒否する力など残ってはいなかった。

冬弥

よし!
ラーメン食いに行こう。
寒い日はラーメン美味い!



 何を思ったのか、隣で空を見上げていた彼が突然そう切り出すと、私の手首を掴んで墓地の出口目指して歩き出した。


 この時、笑う元気はなかったのだが、彼の行動が滑稽に思えて心の中でクスリと笑った。



 抵抗するのも面倒だし、このまま流れに身を任そう。


 それで何かが変わるのなら、どこへなりと連れてってください。


 手を引かれて無機質なアスファルトを見下ろしながら十分程歩いていると、彼の足がピタリと止まった。



 薄ぼけた黄色い雨よけに、所々がかすれている『ラーメン』の赤い文字。


 スライド式のドアの随所が水垢とカビで汚れている。



 まず外観から期待値が急降下なのだが、知る人ぞ知るお店なのかと思い、私の手を握ったままの彼の横顔から自信の程をうかがった。



 彼はラーメン屋のドアを真面目な顔で睨んでいたが、不意に口元に笑みを浮かべた。



 彼の目線の先には『量より質! 激ウマラーメン』と書かれた張り紙。



 これを見た彼の不敵な笑みが何を意味するのかは不明だが、ひょっとして初めて入るお店ではあるまいか。


 張り紙を信じ込んで私まで巻き込むなど、とんだ自爆テロである。



 私の不安をよそに、彼は店の中へと突入していき、私は外に置いてけぼりの形となった。

 私は小さくため息をついた後、仕方なく彼の後を追った。





 案の定である。


 油こってりなのに味は浅く、とんこつなのになぜか甘い。


 出されたものに口をつけないわけにもいかず、麺と具は何とか平らげたがスープは無理でした。

 ごめんなさい。



 私達が食べた『オヤジのこだわりラーメン』は、こだわりが間違った方へ向かっているのだと思った。


 周りの人達がまずいと言っているのに「素人にはわかるめぇ」と腕を組んで威張っている頑固おやじの姿を思い浮かべた。

冬弥

どうやったらあんなまずいラーメンが作れるんだ?

 彼がそう言った後、眉を寄せて口をへの字にした。

冬弥

出されたからには全部食わにゃならんし。
多分、あの店の場合こだわりってところが駄目なんだろうなぁ。
客観的に見れてないんだきっと

美由

ふふ

 自信満々に店に入っていったのに、今になって愚痴をこぼす彼の自由さも然ることながら、私とまったく同じことを考えていたことが可笑しくなって自然と口から笑い声がこぼれた。

美由

人を誘う時に、まずい店に連れて行きます?
普通

 私は彼の顔を見上げて笑った。



 その時、私は初めて彼の顔を真正面から見た。


 彼はとても優しい目をしていた。



 私は彼の目に見とれてしまい、彼もまた私をジッと見ていた。

 お互いが見つめ合うという恥ずかしい状況になる。

美由

でも、少しだけ元気が出ました。
ありがとうございます


 我に返り、目を逸らすようにお辞儀をして、そのまま彼に背を向けた。



 このまま立ち去るのが当たり前の対応のような気がした。


 彼は出会ったばかりの男性なのだ。

 例えばこの後も行動を共にするとか、連絡先を交換するなどといったことを女性として軽々しくやってはならない。


 そのように考えてしまうのは、本音を隠したかったからだろうか。



 もうだいぶ歩を進めた。


 このまま数秒後には彼の元を立ち去ってしまい、二度と会うことはなくなるだろう。


 いや、私の対応が本当に正しいのだろうか。


 美味しくないラーメンをご馳走になったではないか。


 お礼に今度は私がご馳走すべきではないか。


 私がその答えにたどり着いた刹那、彼が私に向かって叫んだ。

冬弥

ちょ、ちょっと待って。
今度またリベンジさせてくれ。
絶対、もっと元気が出るうまい店に連れて行くからさ




 その言葉を聞いた瞬間、私の顔は間違いなくほころんでいた。


 私はずっと母を恨んできた人間だけあって、とんだ親不孝者だ。


 母のお墓参りに来たというのに、心が浮き足立っている。



 母に心の中で謝った後、私は振り向き、彼の言葉に素直な答えを返した。

美由

私、美由っていいます。
ご迷惑でなければ、また連れて行ってください

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