私と同じ立場に立った時、どれほどの人間が最良の行動を選択できただろう。


 おおよそ私に関わりのない人々がこうするべきだと唱えるであろう行動を、どれだけの人が実行できただろうか。


 そんなことを考える自分が言い訳がましくて愚かで、一番タチの悪い偽善者なのだと思った。



 私の罪は母のことを心配しておきながら、自分の生活を優先したことだ。


 いくらでもやりようがあったはずだと、きっと誰かが私を軽蔑している。


 私はそんな誰かに必死で懺悔した。




 私が一人暮らしを始めて三ヶ月ほど経ったある日。



 バイトを終えて夕飯の支度に取り掛かろうと、冷蔵庫を開けて中の食材を確認しているときのことだ。


 突然ドアをノックされた。

吉澤さん、いらっしゃいませんか?

 少し雑なノックに警戒心を強めていると、外からしゃがれた声が聞こえてきた。

吉澤美由さんですね

 チェーンをかけたまま少しだけ開いたドアの間から、五十代くらいの見知らぬ男性が警察手帳と呼ばれるものを私に向けて言った。

大変申し上げにくいのですが、あなたのお母様が昨夜、お亡くなりになりました

 もう一人の三十代くらいの男性が、大げさに申し訳なさそうな顔を作って言った。



 私は最初こそ耳を疑ったが、ものの数秒で頭の中が整理され、母の死を事実のこととして受け止めた。



 ずっと心の中でアラームは鳴っていたのだ。


 それがどのような結末を迎えるのかまで予想していたわけではない。


 ただ、ビジネスホテルのドアの前で私の方を振り向いた時の母の笑顔を思い出す度に、なぜか不安でたまらなかった。



 だから唐突に突きつけられた母の不幸も、割と素早く理解できたのだ。



 顔から一気に血の気が引く感覚を受け、口元がブルブルと震える。


 口を手で押さえても下唇を噛み締めても、震えを止めることができない。


 二人の刑事は私の様子を見て何かを察したかのように、お互いの顔をチラリと見た。

美由

母は……なぜ死んだのですか?

 予感があったとは言え、予想していたわけではない。


 私は知るべきだと思い、五十代くらいのおじさん刑事の方に聞いた。



 もしや、あの男に殺されたのではないだろうか。


 そんなおぞましい想像も可能性の一つとして考えていた。

あなたのお母様には、付き合っている男性がいる……というのはご存知ですね。
その男性とドライブの最中に事故を起こしてしまいまして。
運転していたのはあなたのお母様でした。
それで、男性の方もお亡くなりになってですね

 私の予想を大きく外れた回答だった。


 母が運転免許を持っていたのも知らなかったが、そもそも車だって持っていない。


 しかもあの男とドライブというのも想像できなかった。



 私が眉を寄せて困惑していると、若い方の刑事が頭を掻き、いかにも言いにくそうに切り出した。

実はですねぇ。
事故と片付けるには妙な点がありまして。
まず、車はレンタカーでした。
その車で走行中、ガードレールを突き抜けて森に突っ込み、大きな木に衝突したのですが、どういうわけかブレーキの跡が一切ないんです。
しかも車の状態から推測すると、八十キロは出てたらしんですよ

 私は壁にもたれて座り、膝を抱えて部屋の隅っこをじっと見ながら、先ほどの刑事の話を何度も思い返した。



 ビジネスホテルで私に向けた時の優しい顔。


 あれは死を決意したものだったのではないだろうか。



 死の選択に巻き込まないために、母は私を家から追い出したのではないか。


 だとすると、あの時よりさらに前から計画していたことになる。


 なぜなら私が今住んでいるこの部屋は、母が以前から契約を済ませており、私に引き渡す準備を進めていたからだ。



 私は神様を信じてるわけでも、否定しているわけでもない。


 でもあえて思った。


 神様なんていない。


 いたとすれば、母に対する仕打ちはあまりにも酷ではないか。


 愛する男に捨てられて、一人娘から憎まれて、挙句にはあのような男と一緒に無理心中。

 こんなにも救いようのない人生を与えるなんて、そんなのを神様として崇めることなど私にはできない。


 だからといって、神様が悪いなどと言う資格は私にはない。


 母にとって神様は赤の他人であり、私こそが唯一の身内だったはずなのに、私は母に何もしてあげられなかった。




 家を出たあの日から、私は母のことばかり考えていた。


 あの男の暴力に耐え続けているのかもしれない。


 そう思うとどうにも落ち着かず、私は度々あの大嫌いだったアパートの近くまで行き、少し離れたところから様子を伺っていた。


 アパートの前まで近づくと、あの男の不敵な笑顔がちらついてしまい、どうしてもそこから先へ踏み込めなかった。


 私はあの家から母を連れ出して、一緒に逃げるべきだと考えていたが、結局のところ遠くから眺めているだけだった。


 母のパート先を知っていれば家に行かずに済むのだが、私は知らなかった。


 仕方ない、どうしようもないと諦めては、やはり気になってただただ遠くから眺める。


 そんなことを繰り返していた。



 だが、もっと私が勇気を持っていれば。


 もっと本腰を入れてたら。



 それでも、もしかしたら駄目だったのかもしれないが、まだまだやれることはあったはずだ。



 警察へ訴えたか?


 誰かに相談したか?


 あの男が留守になるまで、もしくは母が家から出てくるまで粘ることだって出来たはずだ。




 私は息が苦しくなり、嗚咽のような声が漏れて、顔がくしゃくしゃになるくらい涙が流れた。


 そのまま子供のように声を上げて泣きじゃくり、むせ返った後、更に泣き声を上げた。



 母を見捨ててはいないという形だけを見繕って、馬鹿みたいに心配そうに眺めていただけだ。



 私は自分を責め立てた。



 傍観していただけという過ちを責め終えたら、今度は『元々母を捨てるつもりだったくせに今更』と、別の方向から自責の追求を始めた。







 責めつづけて泣き疲れて、壁にもたれたまま目を覚ますと、私の沈んだ気分などお構いなしに、朝日が容赦なく顔を照らした。

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