朝。
見覚えのない天井に少し驚き、寝ぼけた頭が少しずつ回り始めて数秒後、ビジネスホテルに泊まっていたことを思い出す。
薄いカーテンから差し込む朝の光が、新たな人生の始まりだと私に告げた。
母が持ってきたボストンバッグに、部屋の使い捨て歯ブラシやクシ、茶葉やマッチなど、使えそうなものを詰め込んだ。
これから一人暮らしをするのなら、節約のために必要な心構えである。
もちろん、持ち帰ってもいいとわかっている品物だけを選んでいるので問題はないはずだ。
朝。
見覚えのない天井に少し驚き、寝ぼけた頭が少しずつ回り始めて数秒後、ビジネスホテルに泊まっていたことを思い出す。
薄いカーテンから差し込む朝の光が、新たな人生の始まりだと私に告げた。
母が持ってきたボストンバッグに、部屋の使い捨て歯ブラシやクシ、茶葉やマッチなど、使えそうなものを詰め込んだ。
これから一人暮らしをするのなら、節約のために必要な心構えである。
もちろん、持ち帰ってもいいとわかっている品物だけを選んでいるので問題はないはずだ。
代金はお支払い済みですよ
フロントで部屋の鍵を渡して財布からお金を取り出そうとした時、受付の男性がそう言った。
まあ、そうでなければ母を改めて軽蔑する。
払ってくれていたということは、少なからず、母なりの謝罪みたいな気持ちがあったのだろうと思った。
それから。
あなたのお母様より、これを預かっております
そう言われて手渡されたのは、細長い茶色の封筒だった。
まさか、私に宛てたお涙頂戴の手紙が入ってるのではなかろうか。
そう思うと少し笑えてきた。
ホテルを出ると、すぐそばにある電柱に身を寄せて、封筒の中身を取り出した。
三つ折にされた紙が出てきた時、本当に手紙なのだと思うと、今度は少し腹が立った。
もし、今までの私への仕打ちや、家に居座ったあの疫病神のことへの謝罪が書かれてたとしても、私にはもう響かない。
これから一人で生きていこうという私にとって、口先だけの謝罪など枷でしかない。
私は大げさにため息をついて、取り出した紙を広げた。
だが私の予想に反して、そこに書かれていたのは、ある場所まで行けという指示だった。
その場所の最寄駅までの電車の乗り継ぎ方と、最寄駅からの簡単な地図も丁寧に書かれている。
電車に揺られること一時間。
そこは今まで住んでいた家より、私のバイト先から近い場所にあった。
私は家から少し離れた街でバイトをしていた。
家を出ていく時は少しでも離れた街に住みたいし、出て行った後もバイトを続けるならばと考えた結果だ。
私は母にも、無論あの男にもバイト先を教えてはいないが、母にはバレていたのだろうか。
そう思うと少し不安になった。
母に指示された場所、そこは不動産屋だった。
受付の女性に母の名前を告げると、女性は実に営業的な笑顔を私に向けた。
お待ちしておりました。
来月からの予定でしたが、本日からのご入居ということでよろしかったですね。
貸主の方の了承もいただいておりますので
全て母が私の知らないところで進めていたことだった。
入居者は母として契約がなされており、審査も手続きも完了していた。
敷金礼金も、二ヶ月分の家賃までもが支払い済みだった。
不動産屋の男性に車で送ってもらい、丁寧に案内されたのは、値段の割には住み心地の良さそうなワンルームの賃貸アパートだった。
リフォームされたばかりと思われるフローリングの中央に抱えてきたボストンバッグを置いて、ベランダ側の窓を開けた。
少し肌寒いが心地よい風が私の両頬を抜けていき、これからの生活への期待感を煽る。
閑静な住宅街と、その向こう側に見える川。
さらに少し離れた場所を電車が走っていくのが見えた。
私はそれらの風景を眺めながら、小一時間ほどぼーっとしていた。
すっかり肌が冷えてしまった私は窓を閉めると部屋の中へ向き直り、これから揃えなければならない家具や電化製品とそれらの配置について考えた。
ボストンバッグの中から私の通帳を引っこ抜き、残金を確認する。
明らかに私の把握している金額と合わなかった。
あの家にいた頃、宿代、光熱費、食事代と称して稼ぎの半分以上を母に渡していた。
だから今見ている通帳の金額の半分未満のはずである。
私は母があの男に有り金をむしり取られる様を何度も見ていた。
恐らく母はなんとか誤魔化し、こっそりコツコツとお金を貯めてきたのだろう。
その苦労して貯めていたであろうお金を、母は私の通帳に振り込んだということになる。
私は壁にもたれてうずくまり、ビジネスホテルで見せた母の笑顔を思い返した。
母はこの時間だとパートに出ている頃だ。
疫病神が住み着いた、あんな家での生活を守るために汗水たらして働きに出ているのかと思うと切なくなってくる。
私は母のことが気がかりになった。
実のところ、母が実際に殴られているのを見たことはない。
私は毎日バイトだったし、休みの日もなるべく外出していたので、ほとんど家にいなかったのも理由の一つだろう。
また、あの男が私の前で……というよりも人前での暴力は避けていたのもあるだろうか。
だからどれほどの頻度で暴力が行われているのか、わからなかった。
時々、母の服の下からアザらしきものが見え隠れしていたことから察するに、服で隠せる部分を選定していたらしい。
それでもあの男のうっかりによって付けられた顔のアザから、ひどい仕打ちを受けていると想像はできた。
だが今までの私は、母に対して自業自得だと割り切れるほどに無関心だった。
あの男にまた暴力を振るわれているのだろうか。
私はこの時、始めてあの男にひどい目に合わされている母の悲痛を、具体的に想像していた。