中学を卒業すると、私は進学せずにバイトに明け暮れた。


 そもそも高校への入学など認められるはずはないと思ったし、そんなことよりも早く家を出て行きたかった。




 一度こっそり不動産屋で一人暮らしができないか聞いてみたのだが、私の前には多くの障壁が立ちはだかった。


 年齢、親の許可、金銭、保証人。

 どれもこれもが十六歳の私にとって、超え難い壁だった。



 最低でも二年は我慢するしかないと覚悟を決め、それまでの間にできるだけお金を貯めようと考えた。



 夜九時頃。

 バイトを終えて家に帰ると、顔のアザを抑えながら割れた茶碗やグラスをゆっくりと拾い集めている母の姿を見ることが多々あった。



 この家は完全にあの男に支配されていた。



 家の奥の居室には、暴れ疲れていびきをかいてい
るあの男の背中が見えた。




 母は帰ってきた私の顔をチラっとだけ見上げると、わずかに微笑んで「おかえり」と、か細い声を出した。



 私はその消え入りそうな母の笑顔を見るたびに、幼い頃の記憶が微かに頭をよぎった。




 いつも逆光で見えないけど、優しい顔をしていたような気がする母の姿。


 だが温かい記憶の中でさえ、冷蔵庫から円柱型のタッパーを取り出し蓋を開けると、中身はいつだって空っぽだ。



 私の心が一気に冷え込んでいくのが自覚できた。




 私には母のことを憐れむ余裕などない。



 母がこうなったのは自業自得だし、母が連れてきたあの疫病神は私もろともこの家に取り憑いているのだ。



 いい迷惑だ。




 そもそも、今まで母が私にどのような仕打ちをしてきたか。



 今更だ。



 母がいくら私に笑顔を向けたとしても、それさえも私にとっては苦痛でしかない。



 もはやこの女性は私の人生にとって障害以外の何者でもないのだ。




 幸いなことに、あの男は私に手を上げることはなかったし、私が外で何をしようと気に留める様子も見せなかった。




 着々と家を出ていく準備は整い、計画は滞りなく進んでいるはずだった。




 だが、それから一年と半年ほど経ったある日。


 あの男はどす黒い欲望を私の方へ向けようとし始めたのだ。



 それは私がバイトから帰り、お風呂で湯船に浸かっている時のことだった。


 子供の頃の安息は、一人でご飯を食べている時間だった。


 この頃はお風呂場こそがくつろげる唯一のプライベート空間だった。


 心が油断しきっている一人きりの空間を、一気に凍てつかせる出来事が起こる。



 お風呂場のドアを開けて、あの男が入ってきたのだ。


 私はあまりの驚きと恐怖に声を失った。



 両手で自分の肩を押さえ込んで、湯船の中に身を縮ませた。


 体がガタガタ震えて呼吸がままならなくなり、全身から汗が吹き出してくるのがわかった。



 男は一通り体を洗い流した後、体を私の方へ向けた。


 私を見ているのだ。


 私はその時の男の顔を見ていない。


 だが、私はあの男の薄気味悪いニヤけた顔が完全に頭に浮かんでいた。


 男がこの家に来たばかりの時によく見せていた、口がニュイっとつり上がった気味の悪いあの笑顔だ。



 その後、男はそのまま風呂場を出ていった。



 私は体を震わせながら服を着た後、あの男を刺激しないようにゆっくりと家を出た。

 そしてそのままどことも知れずに走り出した。



 あの男の汚らわしい瘴気が追いかけてくる気がして、とにかく明かりのある方へと走り続けた。




 あの男は私の反応を観察しながら、タイミングを伺っているのだ。


 欲望をむき出しにして、私の心も体もズタボロにするタイミングを。


 もはや一刻の猶予もない。

 息が切れて脇腹が痛くなっても構わず全力で走り続け、いつの間にか家から徒歩二十分の駅前にたどり着いた。



 駅からまばらに出てくる、私となんの関わりもない人々が私の精神状態を支える唯一の救いだった。


 私に無関心な人間がこのまま途切れることなく目の前を行ったり来たりして欲しいと願いながら、駅の外壁にもたれてうずくまった。



 避けることのできない深夜の静寂は、もうすぐそこまでやってきている。


 目の前にある小さなコンビニや頭上の街灯の光だけでは、私の不安は埋まりそうもない。



 立ち上がって金網越しに物静かな駅のホームを眺めながら、終電までにはまだ時間があるなと思った。


 このまま何処か遠くへ行ってしまいたかったが、慌てて家を出てきたため、私は財布を持っていなかった。




 家にいるであろうあの男の恐ろしい笑顔が頭を過ぎり、金網を握る両の手が震えてカシャカシャと小さく音を立てた。



 下唇を噛んで目から溢れ出そうな涙を必死に抑えた。



泣いている場合じゃない。



 何とかして家に置いてきた財布や通帳を取りに戻らなければならない。

美由

 突然私を呼ぶ声がして、私の心臓が跳ね上がった。


 それはとても穏やかな声だったが、今の私には声をかけられることそのものが恐怖だった。



 恐る恐る声のする方へ顔を向ける。



 声の主が母だということは既にわかっていたが、何のためにここまで私を追ってきたのかがわからなかった。


 私を連れ戻すつもりなのか、暴力に耐えかねて私に助けを求めるつもりなのか。


 母が何を考えているのかわからない。


 私と母はこれまで共に生きてきた中で、血の通った会話をしなさすぎた。


 わかるはずがないのだ。



 母は街の光を背中に受けて、まるで黒い影のように突っ立っていた。


 私は目を細めて、暗がりの中から母の表情をなんとか垣間見ることができた。


 喜怒哀楽のどれでもない、いわば無表情だった。

美由、付いてきなさい。心配しなくても、家に戻れなんて言うつもりはないわ

美由

……

 先程までこの場から逃げ出すべきか迷っていたが、いよいよもって真意のわからない目の前の母に対し、これまで溜めていた不満をぶちまけたくなってきた。


 母に付いていったとして、その先に何があるのかわからないが、何があろうとそんなことはどうでもよかった。



 母のいうことを聞くのもこれが最後だ。



 だからとりあえずついて行ってやろう。



 母の用事が済めば、あとは私の言いたいことを片っ端から浴びせかけて、それでお別れだ。





 母は無言で駅と反対の方向を歩き出し、私はその三メートル程後ろを黙って付いていった。


 ほとんどの店のシャッターが下りている静まり返った商店街は、夏なのに空気が異様に冷たかった。


 所々に灯ったコンビニや居酒屋の明かりを辿るように、ただ黙々と歩く。



 やがて、母は古びたビジネスホテルの前で立ち止まった。

 そして母は、そのままビジネスホテルの中へ入っていった。


 わけがわからず立ち尽くしていると、母は自動ドアの向こう側からこちらを振り向き、手招きしてきた。



 私は、何がしたいのかまったくわからない母を睨みながら、中へと入っていった。

ここで待ってて

 母はそう言うとロビーに置かれたソファーの前に私を残して、フロントの方へと向かった。


 あまりフカフカとは言い難いソファーに座り、ソワソワしながら周囲を見渡す。


 テレビでたまに見かけるようなホテルとは全然違う。


 ロビーの狭さや天井の微妙な低さといい、高級感はあまりない。

 だが、今までに味わったことのない清潔感が私の緊張感を高めていく。


 なんだか落ち着かないではあるが、決して嫌な気はしなかった。

お部屋ガラガラですって。
私達が長年住んできただけあって、湿気た街よね

 受付から戻ってきた母が悪態をつきながら、ホテルの部屋の鍵らしき物を片手で摘んで左右にブラブラと振った。

 部屋に着くと、母はこの部屋で待ってろと言ってすぐに出て行った。





 それから再び母が戻ってくるまでの一時間弱、これからこの部屋で一体何が起こるのかを考えながら、私はベッドに座って部屋を観察していた。


 不思議なことに、ついさっきまで感じていた不安や恐怖はなくなっていた。





 戻ってきた母はボストンバッグを腕にぶら下げており、それを無表情でベッドの上に放り投げた。

出て行くつもりだったんでしょう?
荷物を纏めておいたわ。
あんたの通帳とか、財布も入ってるから

 そう言って母は背中を向けて出口へと向かい、ドアの前で立ち止まった。



 息が詰まる長い沈黙の後、母が背を向けたまま静かに口を開いた。

あんた、夢はある?

 そんなものあるわけないではないか。


 あんな汚らわしい男と、あなたのような愛の無い母がいるカビだらけの家で、いったいどのような夢を持てというのか。


 あの薄暗い家の中で、私は我慢して生きていくだけで精一杯だった。


 あえて言うならあの家を出ることが夢だろうかと考えるが、こんなもの夢でもなんでもない。

私はね。幸せな家庭を築くことだった。
三人くらいの子供に囲まれて、宿題しろだの歯は磨いたかだの叱ったり、運動会や遠足のお弁当を考えるのが大変だと愚痴ったり、夫の愚痴も聞いてやったり。
日々追われながら、休日を家族皆で笑って過ごす。
これが私の夢だったの。
笑えるでしょ

 母の鼻で笑うような自虐的な声が、私の憎しみを虚しいものに変えていく。

でもあんたの父親は、私に愛してるなんて一度も言ってくれなかった。
最初から捨てる気だったのよ

 父への恨み言をつぶやく母の声は、不思議と落ち着いていた。


 私はベッドに座ったまま、母の背中を見ていた。


 私にだって言いたいことが山のようにあったはずなのに、投げかけようと用意していた言葉を全て忘れてしまった。

大嫌いよ。
あんたの父親も、そいつの血が流れているあんたも。
出て行ってくれて清々するわ

 そう言って振り向いた母は、かつてないほどに優しい顔をしていた。







 それは私が最後に見た、一生忘れることのない母の顔となった。

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