私が小学校に入学して間もない頃のことだ。



 突然父がいなくなった。




 当時は幼すぎて理由がわからなかった。




 父がいなくなって以来、母は私を事あるごとに叩いた。


 母の言うことには、私は顔も性格も父に似ているらしい。


 だがそれは、何でもいいから理由が欲しかっただけなのだと思う。




 母は何度も何度も私を産んだことに対する後悔と、父の血が通っている私への嫌悪を吐き出しながら、手を振りかざした。



 私は自分に向かって幾度となく振り下ろされる母の掌を見上げながら、訳も分からず謝り続けた。





 父が失踪する前の母がどのような人だったかは思い出せないが、少なくとも私は大好きだったはずだ。


 遥か昔のように微かな記憶からかろうじて思い出されるのは、私が家の玄関を開けた時にいつも聞いてた「おかえりなさい」という母の優しい声と、



 冷蔵庫の中にいつも常備されていた円柱型のタッパーに入っていた紅茶の味。



 私はいつも、紅茶をコップに入れて、立ったまま飲み干してから「ただいま」と言った。



「この子ったら。帰ってきたら、まずただいまが先でしょ」



 私の記憶の中でそう言っている母の表情は、窓から差し込む太陽の光に霞んでまったく見えないのだが、きっとにっこり微笑んでいたと思う。




 その頃の記憶が私の脳裏にきっちりと刷り込まれており、大好きな母が暴力を振るうのは、私が悪いからなのだと自分を責め続けていた。












 小学校四年生くらいの頃には、ある程度世の中の常識を理解できるようになり、ようやく父が私と母を捨てて、愛人とともに蒸発したのだということを知った。





 そんな大人の醜い色恋沙汰を理解したばかりの頃、母に新しい恋人ができた。



 それ以来私への暴力はほとんどなくなったが、母は私のことを見向きもしなくなった。



 それでもご飯はちゃんと与えてくれたので、私は母に感謝していた。


 思い返せば母は、他人から仕方なく預かった犬に、ため息をつきながら餌を与えるような、そんな顔をしていた。



 カーテンが締め切られた薄暗い部屋の壁際に寄せられたテーブルに、母がスーパーから購入してそのまま持ってきたお惣菜が二品ほど置かた。



 私はいつも、そのお惣菜に向かって小さくお辞儀をした。



 そんな私を数秒ほど見下ろしてから、母はそのまま家を出て行く。





 お惣菜のラッピングを破けないように綺麗にはがすと、台所の洗い物かごに刺さりっぱなしのお箸を手に取り、はがしたラップをゴミ箱へ捨てる。


 その時、生臭い匂いが鼻を突き刺すのだが、それがあまりにも日常なので特に気にすることはなかった。


 冷蔵庫を開けると、物心ついた頃から馴染みの、円柱型のタッパーが入っている。


 何となく期待しながら蓋を開けては、いつも通り中身が空なのを確認して落胆した。




 テーブルに戻ると、私はもう一度お惣菜に少しだけ笑顔でお辞儀をしてから、おかずを箸で摘んで口に入れた。



 私はこの瞬間だけ、もしかすると幸せを感じていたのだろうか。


 私は家のお留守番があったから、学校が終わると真っ直ぐ帰らなければならず、お友達と遊ぶことができなかった。


 そのうち私と遊んでくれる子が減っていき、学校にいるのが辛くなっていた。


 だから給食ではなく、一人で食べる夕飯が一番安心できた。



 一人の時しか安心できなかったのだ。






 唯一と言えるこの時間を、幸せと感じていただろうか。





 いや、そうではない。




 目の前の壁にあるシミを数えながら、ご飯を食べている時にしか心が休まらない。


 こんなゴミのような生活が幸せであるはずがない。


 そんなことくらい、四年生にもなって理解できないはずがないのだ。




 私は既に、ご飯を与えることへの感謝とは裏腹に、母のことが大嫌いになっていた。



 そして、笑顔でかじったお惣菜が大爆発を起こして、自分の体がこの薄暗い家ごと吹っ飛んでしまえばいいと思いながら、いつもいつも味がなくなるまで噛み続けていた。











 私が中学へ上がる頃、母は恋人を家に連れてくるようになった。



 母の恋人である男性は、私にとってとても不気味な存在だった。



 私がいてもまったく気にすることなく家に寝泊りし、平気で母とのスキンシップをやってのける光景に吐き気がした。



 この男が家に来ると、母は私に千円だけ渡して、外でご飯を食べてくるよう促した。



 男はそれじゃ可哀想だと言って、家で一緒にご飯を食べようと言ってくるのだが、その時の据わった目と、口がニュイっとつり上がった気味の悪い笑顔が怖くて、私は逃げるように家を出た。



 そのまま人通りの多い夜の商店街へと向かい、裏通りを避けて、目的もなく徘徊した。



 見た目だけを頼りに、なるべく善良そうな人間の側を歩きながら、不良になる勇気すらない自分を呪った。



 もはや安心できる場所も時間もなくなっていた。





 母からもらった千円札でファミレスに入り、お店の人に不審がられる一歩手前まで粘り抜いて時間を潰した後、夜十時頃まで外をうろつき、そのまま帰りたくない家へと向かう。





 所々ペンキが剥がれ落ち、むき出しになったコンクリートが金槌で砕いたように駆け落ちているボロボロの二階建てアパート。



 そのアパートの前に立ち止まり、二階の角部屋を見上げると、その部屋の窓から薄暗い明かりが漏れている。



 これからあの部屋へ入るのだと考えると、気分が落ち込み、無意識に下を向いてしまう。


 だが行く宛もないので、とにかく自分を勇気づけてから階段を上がり、その部屋の入口である錆びた鉄の扉の前で一旦立ち止まる。



 深呼吸した後、ギィッという嫌な音を立てながらドアをゆっくり開けると、雑に脱ぎ散らかった母と男の靴が見えてきた。



 私はいつも、あの男が帰っていることを願うのだが、その願いが叶った日はほとんどない。



 あの男が家に来る日は、そのまま泊まっていくのが通例だ。





 そして、そこから地獄が始まる。




 その地獄は、熟睡さえできればとりあえず回避できた。




 この男が寝泊りする日は、私は進んで台所に布団を敷き、そこで睡眠をとることにしていた。



 水道の蛇口から時々垂れる水の音に邪魔されながらも、私は羊が柵を飛び越えるのを必死に数えた。




 こんな夜があるたびに、1DKの狭いアパートを憎んだ。
 熟睡に失敗すると聞こえてくる。



 全身の毛が逆立ち、胃の中のものを全て吐き出したくなるような、あの男と母の乱れる声だ。






 布団を頭までかぶり、耳を塞いでも、その声は闇の中から低く、重く響いてきた。










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