気がつくと私は、見覚えのあるバーの中にいた。



 私の真後ろには扉がある。




 一度ここを訪れた時に入ってきたであろうドアは、少し離れた向かい側に存在していた。



 つまり最初にここへやってきた時とは違う入口から入ってきたらしいが、例によって記憶はない。




 私は身代わりの川というものを、小舟に乗って渡ったはずである。






 意識が薄れていき、これが死というものなのだと実感したはずなのに。







 私は何が起こったのかを整理するように、目の前に見えている物を一つ一つ確認していった。




 上から浴びせられるライトの光を反射させて、薄く光沢を帯びたカウンター。


 そのカウンターの奥の棚に並べられた酒瓶もまた、光を浴びてキラキラと光っている。


 カウンターと逆の方の壁際には、中性ヨーロッパを思わす弓、価値があるのか判断不可能な絵画、個人的には可愛いと思ってしまう鳩時計、そこになぜかフライパン……といったように、不規則な品々が陳列されている。


 もしかするとこれはこれでお洒落な飾り付なのではないかと思うのも、確かに覚えのある感想だ。



 私を身代わりの川まで案内してくれた、水樹と水実という二人の子供もそこにいる。






 水樹はカウンターの中でグラスを磨いている。


 水実はカウンターの席で頬杖をつきながら、一冊の本を読んでいた。

水樹

お帰りなさいませ、美由様

 先程まで、磨いているグラスに目を向けていた水樹が、私の方を見て言った。



 その言葉は帰ってきた意思のある人間に対して行う挨拶であって、状況を理解できていない私に使うのは不適切だと思った。





 そもそもなぜ私はこの場に立っているのか。



 なぜ生きた人間として思考を巡らすことができているのか。



 彼は一体どうなったのか。



 尽きることのないと思われた疑問の数々は、私の中である一つの仮説にたどり着こうとしていた。


 だけどその仮説を受け入れるのが怖くて、私はそこへ到達する目前で無理矢理に思考を捻じ曲げた。






 恐らく聞けば一言二言程度で理解できるであろう答えを水樹と水実が既に用意していることも、二人の顔を見るだけで察しがついた。




 私は震える唇を噛みしめ、ずっと止めていたかのように苦しい息を整えた後、覚悟を決めて二人に向かって問いかけた。

美由

私は死んだんじゃないの?
彼は?
冬弥は生き返ったのよね

 私の悲痛にも似た叫び声がバー全体を駆け巡り、棚に置かれた酒瓶をわずかに震わす。



 こぼれ落ちそうになる涙をグッと堪えて、私は二人の答えを待った。



 いや、本当は聞きたくなかったのかもしれない。

水実

彼はあなたの身代わりになって死んだわ。
あなたが身代わりになって、助かった命を使ってね

 手に持った本に目を向けながら淡々と言い放った水実の言葉で、私の中の意思、そして心に強く刻んだ望みが音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。




 全身から力が一気に抜けて、筋肉の支えを失った膝がストンと床に落下した。



 私の体がそのまま床でしゃがみこみ、手がダラリと垂れ下がる。



 顔の筋肉まで抜けてしまったように感じ、かろうじて抑えていた涙が一気に流れ出した。

美由

なんで?
彼には夢だってある。
彼に生きていて欲しかったのに……なんでなの?

水樹

冬弥様は、あなたに生きて幸せになって欲しいという願いを込めて、身代わりになることを選んだのだと思います

 私の幸せ。


 ならば私の気持ちはどうなるというのか。


 私だって冬弥の幸せを願っているのだ。


 幸せという言葉が私の心を掻き乱す。

水実

あなたが先に身代わりになったこと、彼には言ってないわよ

 水実は読んでいる本からは一切目を離さず、脈絡なくそう言った。



 もしも私の意志が冬弥に伝わっているなら、彼は生きる道を選んでくれたのかもしれない。



 私の『なんで』の言葉にはそういう疑念も含まれていることを、水実はきっちり読み取っていたらしい。



 私は悔しさを込めて水実を睨んだ。

水樹

このバーにも一応ルールがありまして。
身代わりの権利を得た者に、他のお客様の情報はお教えすることができないのです。
ただ、冬弥様に聞かせていただいたお話から推測できることを活用して、なんとか美由様の思いを伝えてはみたのですが

 私の心中を察したのか、水樹が説明を加えた。


 それが私をさらに落胆させた。





 私は冬弥の身代わりのことを聞かされている。


 つまり私にはもう身代わりの権利はないということになる。





 私の身体は再び力を失い、その場に座り込んだまま動けなくなった。





 流れていた涙もいつの間にか止まっていた。





 それを一言で表すなら放心状態というものだと思う。




 冬弥が私の幸せを願っている。



 そういう理由で私の身代わりになったのなら、冬弥は何も分かっていない。そう思った。




 なぜなら私はもう、手に入れた唯一の幸せを失ったのだ。




 私は無意識に自分の過去を振り返った。




 それは幸せの答えを探すためではなく、心が自動的に整理整頓し始めただけだった。

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