1週間後、クローバー薬局に現れた岡は少し疲れた顔をしていた。

よぅ、春香ちゃん。

あっ、おじちゃん。

今日も頼むよ。

はーい、じゃぁ処方箋お預かりしますね。

春香は岡から両手で処方箋を受け取り、レセコンを打っている薬局事務に渡した。
薬局事務は、処方箋に記載されている薬を次々の入力していく。

薬が調剤されて、準備ができると、春香は岡を呼んだ。
しかし、春香に笑顔はない。

岡昌司さーん。

おぅ。

岡が右手を上げてゆっくりと投薬カウンターまで来た。

おじちゃん、今日の薬って初めて飲む薬?

調剤されたタルセバを見て、春香は聞いた。

おう。初めてだ。
先生からは、これをもらったよ。

岡は1枚の紙を春香の前で広げた。
『ゲムシタビン+エルロチニブ併用療法を受ける患者様へ』と、書かれいる。

「ゲムシタビン」と「エルロチニブ」は抗がん剤だ。
エルロチニブを1週間服用後、ゲムシタビンを8日目、15日目点滴する。その治療法の一連の流れが記載されている。

おじちゃん…。

今日からこの治療が開始だ。

・・・。

本当は先週から開始する予定だったんだけど、熱出たから今週からになっちまった。

春香は先週の事を思い出していた。
先週は、春香と岡が10年ぶりに再会した時だ。

そういえば、先週おじちゃんは風邪薬をもらいに来て、トラムセットを腰痛で飲んでて、その時処方されたカロナールと、トラムセットに配合されているアセトアミノフェンが重複していたから、薬が変わったけ。

その時変わった解熱剤って、ロキソニンやボルタレンじゃなくて、普段あまり使用されない「ナイキサン」だった。

それに、腰痛にトラムセットが処方されていた。
腰痛にトラムセットを使う事もあるけど、オピオイドを選択したって事は・・・。

熱が出たのは、風邪じゃなかったんだ。
熱の原因はたぶん「腫瘍熱」!!
癌患者では感染症じゃないのに熱が出る事がある。
腫瘍熱には「ナイキサン」がよく効くもの。
だから、わざわざ「ナイキサン」に変わったんだ。
トラムセットも「癌性疼痛」に使ってたんだ。

わたし、どうして気づかなかったんだろう・・・。

それに、この抗がん剤を使うって事は・・・。

春香の頭の中で、今まで得た知識が掘り返される。
「ゲムシタビン+エルロチニブ併用療法」を使用する患者の状態は・・・。

膵臓癌ステージⅣbだとよ。

春香はもう、岡の状態は言われなくても、想像がついてしまっていた。

岡が言ったステージⅣbとは、一番悪い状態だ。

いろんなとこに転移してるから、手術はできねぇ。
余命を延ばすために今日から抗がん剤をやる。
余命はあと半年。

・・・。

春香の頭の中では、パズルのピースが一つづつ埋まっていく。しかし、そのパズルに描かれているものに光は無い。

おじちゃんがシンガポールから急遽帰国したのも、きっと病気の治療のためだ。
膵癌の進行は早いから、医師から余命半年と言われても、あてになんか出来ない。

まぁ、半年っつても、ガッツであと1年は生きるけどな。
がっはっは。

・・・。

春香は岡にかける言葉が見つからなかった。

なんだよ、そんな暗い顔するなよ。

だって…。

人間はいつか死ぬ。
ただそれだけじゃねぇか。

おじちゃん…。

春香は今にも泣き出しそうになったが、ここで泣いてはいけないと思い、唇を強く噛んだ。
春香の薬剤師として内に秘めるプロ意識がそうさせたのかもしれない。

春香ちゃん、今日の薬がどんな薬か教えてくれねぇかな?

…。
うん。説明するね。

春香は溢れそうな涙を拭うと、スラスラと薬について説明していった。
抗ガン剤は作用も難しく、副作用や注意事項も多い。
しかし、これほどスムーズに説明できるのには、理由があった。

春香が薬学部5年生の病院実習の時、症例発表のテーマで選んだのが、岡のレジメと同じ「ゲムシタビン+エルロチニブ併用療法」だったからだ。
病院実習での春香の指導薬剤師はとても厳しかった。
その分、記憶には卒業して3年経った今も明確に覚えている。

でね、特に注意してほしいのが、肺炎と発疹。
肺炎は息苦しくなったり、咳がよく出るようになり、熱がでたら、肺炎の可能性があるからすぐに教えてね。
それと、発疹は手足を乾燥させると起こりやすくなったり、ひどくなりやすいから、保湿は十分にしてね。

わかった。ハンドクリームとか塗った事ねぇけど、しっかり塗る事にするよ。

春香は抗がん剤の副作用以外にも、一通り薬の飲み方や注意事項の説明を行った。

どう?薬の事で、気になる事は無かった?

おう、大丈夫だよ。

服薬指導は終了したが、その重苦しい空気のため、二人とも席をそのまま立つ事ができなかった。
そのまま5分くらい過ぎた頃に、岡が言った。

なぁ、春香ちゃんに一つだけ頼みがあるんだ。

なあに?

岡は春香を目をじっと見つめ、こう言った。

俺があの世に行く時、見送ってくれねぇか?

も、もちろんです!
わたし、おじちゃんのかかりつけ薬剤師だもん!!

ありがとうな。

そういって、岡はクローバー薬局を出て行った。
次に春香が岡に会ったのは、病室だった。

つづく。

かかりつけ薬剤師物語第2話 おじちゃんの病名は

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