春香が岡と再会してからわずか1ヶ月の出来事だった。
岡昌司は、膵癌のためシンガポールから急遽帰国し、抗がん剤を開始。
しかし、抗がん剤も開始1クールで入院してしまった。
そんな岡を心配して、病室には姪で薬剤師の春香が毎日出向いていた。

春香ちゃん、新しく指名はとれたかい?

ううん。全然ダメ。

なんだよ。俺がいなくなったら指名ゼロじゃねぇか。

うん、そうだよ。だから・・・。

だから・・・?

ううん、なんでもない。

予後があとわずかの岡に、「死なないで」なんていう事は薬剤師という医療従事者として、間違っていると思い、春香は言おうとした言葉をぐっとのみ込んだ。

岡は、入院直後は元気に話していた。
仕事の電話もしている事も多かった。
それも、入院後1週間だけだった。
徐々に副作用が強く出るようになってきて、それに伴い少しずつ疲弊していった。

今日も背中の湿疹に薬塗ってくれるか?

いいよ、じゃあ背中まくって。

悪いな。

ううん、全然。

春香は軟膏を手に取り、岡の背中に塗っていく。
湿疹はエルロチニブの副作用だ。
しかし、湿疹が発現する人ほど効果があると言われる。
そのため、抗がん剤を中止する事は出来ない。
春香もそれはわかっていた。

春香ちゃん、俺よぉ、子供いねぇだろ?

うん。

それに、奥さんには逃げられちまったからな。

え?そうなの??

そうだよ。言ってなかったか?

うん、聞いてない。

岡が10年前結婚していた事は覚えている。
奥さんとはたまに一緒にいた記憶もある。
しかし、離婚していた事なんて、春香には初耳だった。

仕事でシンガポール行く事になったって言ったら、離婚だ!ってなってな。

うん・・・。

でも、シンガポール行かなくても離婚はしてたな。

え?

仕事ばっかりの俺にすでに愛想は尽きてたからな。
それに、子供いなかったから離婚はしやすかったんじゃねぇかな。

そうなんだ・・・。

あいつはどこ行ったかわからねぇし。

・・・。

つまらねぇ話しちまったな。

ううん。
はい、おじちゃん、塗り終わったよ。

おぉ、サンキューな。
どうだ?良くなったか?背中。

うん、少し良くなってきたかな。

そうか。よかった。
春香ちゃんのおかげだな。

どういたしまして。
また塗ってあげるね。

あぁ、ありがとうな。
しかし、腰痛ぇな。

おじちゃん、薬飲む?

おう、そうするよ。

そう言って、岡はトラムセットから切り替わったオプソを服用した。

1週間後、モルヒネのレスキューの回数が次第に増えていき、内服から皮下注へ変更された。
それに伴い、痛みは軽減されるかわりに、意識レベルは急激に落ちてきた。

おじちゃん。

春香が肩を揺すると岡はまぶたを開いた。

おう、春香ちゃんか。

おじちゃん、今日ね果物持ってきたの。
お父さんが持って行けって。

おう、ありが・と・・う・・・。

そう言うと、岡は眠ってしまった。
モルヒネが効きすぎて30秒も起きている事が出来ない。
そんな日が続いた。

その翌日、春香と春香の父は病院へ呼ばれた。
岡にとっての身寄りは、もう朝倉家しかいない。
その二人に主治医から改めて、病状の説明と、あと数日の命である事が告げられ、DNRの同意書にサインをした。

同意書には、
『心肺停止した時には、
心臓マッサージや気管挿管はしません。
自然な形でお看取りします。』
と、書かれていた。

おじちゃん。

春香ちゃんか。

岡はもう受け答えに目を開かない。

私、しばらくお休みもらったの。

そうかぃ。

だから、明日からね一緒にいれるよ・・・。

・・・。

岡は春香の言葉を聞く前に、眠りに落ちてしまった。

翌日から春香が休みをとって、岡のベットサイドにずっといる事となった。
その時から、岡の意識レベルは上がってきた。
それには理由があった。

春香が医師にモルヒネの量を減らすよう依頼したのだ。
医師も春香が薬剤師である事を知っており、その申し出はすんなり通った。
量を減らすと、時折強い痛みがでたが、レスキューですぐに痛みは楽になり、起きていられるようになった。

おじちゃん、何かしてほしい事ない?

春香は岡の顔にできた湿疹に薬を塗りながら聞いた。

してほしい事かぁ。もう無いかな。

じゃぁ、食べたいものとかは?

食べたいものか・・・。

ない?

あえて言えば、エリンギの森
かなぁ。

わかった。私、買ってくるね。

おう、頼むよ。

春香はナースステーションに外出する事を伝えると、急いで近所のスーパーマーケットに急いだ。

1軒目のスーパーマケットにはエリンギの森は無かった。
少し離れたところに、2軒目がある。
そこに急いだが、そこにも在庫はなかった。

あのー、エリンギの森は置いていないのですか?

あー、あれね?最近じゃぁもう見ないねぇ。
取り扱ってるところ、無いんじゃないかな。

そうですか・・・。ありがとうございます。

春香は礼を言って、店を出た。
もう、エリンギの森は手に入らないのだろうか。

おじちゃんに食べさせてあげたいなぁ。
そう思って、春香は空を見上げた。

あっ、あそこならあるかもしれない。

春香は最後の希望として、20年前におじちゃんと行った駄菓子屋さんを選んだ。
そもそもお店がやっている事さえも、怪しい。
しかし、その店しか思いつかなかった。
そこに無ければ諦めよう。
春香はそう思った。

春香は急いでタクシーを捕まえ、駄菓子屋に向かった。
バスを使っていく事もできたが、ゆっくり探す気にもなれなかった。

駄菓子屋は10年前と変わらない佇まいで、そこだけ時間が止まっているように見える。

ごめんくださーい。

春香の呼びかけに中から返事は無い。
しかし、店の戸は開いている。
春香は再度大きな声で呼びかけてみる。

ごめんくださーい。

奥からわずかに声が聞こえると、ゆっくりとおばあちゃんがやってきた。

はいよ。

これ、これください!

ついに見つけた「エリンギの森」を握りしめ、春香は言った。

はい、百円ね。

あった、良かった・・・。

それね。全然売れないんだけど、たまーに買っていく人がいるんだよ。

まぁ、だいたい物好きの大人だけどね。
あんたも、これ好きなんかい?

はい!大好きです!!

そうかい、そうかい。

春香は、駄菓子屋を出ると、病院へ急いだ。

春香は病院に戻ると、真っ先にナースステーションに声をかける。

おじちゃん、かわりありませんでしたか?

変わり無いわよ。
あなたが来てくれてから、状態は安定してるもの。

良かった。
ねぇ、看護師さん、これおじちゃんに食べさせてもいいかな?

うーん、これかぁ。ちょっと待ってね。
先生に聞いてみないと。

その数分後、主治医が現れた。

朝倉さん。
看護師から、話は聞きました。

はい。
あの、これ食べさせてあげたいんですけど・・・。

その件なんだけどね。
少しお話しさせてください。

はい・・・。

朝倉さん、岡さんはご存知の通り、余命はあと数日です。

はい、わかっています。

余命数日の人が、大好きなものを食べると、その達成感からそのまま亡くなる事が少なくありません。

えっ?そうなんですか・・・。

朝倉さんの気持ちはとてもよくわかります。
ただ、もしそれを食べさせるのであれば、念のためお父さんを呼んで、そろったら私に伝えてください。

はい、わかりました・・・。

30分後、春香の父が病室に現れた。

ねぇ、お父さん。おじちゃんに、これを食べさせてあげたいの。
でも、食べたらそのまま亡くなる事も多いって先生が言ってて・・・。
だから、お父さん呼んだの。

そうか・・・。

数秒間、春香の父は考えたものの、結論はすぐにでた。

わかった。
春香の意思を尊重するよ。

ありがとう。お父さん。

おじちゃん。

おぉ、春香ちゃんか。

買ってきたよ。エリンギの森。

岡の周りには、春香と春香の父、主治医と担当看護師が集まっていた。

みんなそろってどうしたんだよ。

ううん。なんでも無い。

春香は岡を見守る人たちをぐるっと見渡してから言った。

じゃぁ、食べさせてあげるね。

ありがとうな。

もぐもぐ。
うめぇな。やっぱりうちの菓子は世界一だな。

うん・・・。

俺は世界一幸せだな。

岡は一粒食べ終わると、
そのまま息を引き取った。

春香はその日、ずっと考えていた。

私、おじちゃんに何が出来たんだろう。
薬剤師として何ができたんだろう。

翌日、クローバー薬局にて

春香、もう大丈夫なの?

はい、叔父は昨日無事天国に行きました。
あとは、お父さんがいろいろやってくれてます。

そう・・・。
いろいろ大変だったと思うけど、
仕事は、薬剤師は続けられる?

はい、わたし辞めません。

そう。良かったわ。

まだ、自分の中で答えが出てないんです。
薬剤師が人を幸せにできるかどうか。

・・・。

もし、薬剤師が人を幸せにできないとわかったら、その時に辞めます。
それまで、考え続けます。

そう、じゃぁこれからも一緒にがんばりましょう。

はいっ!

その後、春香はどんどんかかりつけ患者を増やしていくのだが、それはまた別のお話。

おわり。

かかりつけ薬剤師物語最終話 おじちゃん入院する

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