水樹

お飲み物をご用意致しますので、カウンターにお座りください

 先ほどのバーまで戻ると、水樹が笑顔を貼り付けたまま俺に向かって言った。




 俺はゆっくりと呼吸を整えて、再びバーカウンターに座った後、無言のまま頷いた。



 隣で水実がグラスを揺らしながら、鼻で笑うような冷めた笑顔を俺に向けていた。


 恐らく、現実離れした底なしの川を拝まされ、驚愕していた時の俺の顔でも勝手に想像しているのだろう。





 ここがあの世に近しい場所なのかはさておき、思い出すと鳥肌が立つほどに恐ろしくもあり美しくもある『身代わりの川』は、地球上のどこでもないと思わすには十分なインパクトがあった。

水実

もう少しだけ、私達とおしゃべりなんていかがかしら?

 水実はそう言うと、グラスに軽く口をつけてゆっくりと中の液体を喉に流し込んだ。

冬弥

何の話をするんだ?

水樹

身代わりについて……ですよ。
何度も言うように、ここは死んだ誰かの身代わりになることができる場所です。
あなたが心から美由さんの身代わりになりたいのなら、可能なのです

 カウンターの中へと戻った水樹が、水実の言葉に補足をつける。




 美由の幸せを願うならば、男として身代わりになるのは願ったりだ。


 男が女を守るというのはあらゆる小説で語り尽くされた美学であり、男なら誰もが憧れる美談である。


 そんなわけで自分の愛する女性の身代わりという選択肢を突きつけられれば、もはやそれは一択しかないも同然なのだ。

冬弥

決まってんだろ。
美由が死んだのなら、いくらでも身代わりになるさ

水実

せっかく拾った命を、そんな簡単に捨ててしまおうというの?

 意気揚々と言い放った俺のセリフをあざ笑うかのように、水実は疑問形で返した。

水実

ここに来る人間は不思議なもので、ほとんどの人が自分の気持ちに向き合うことなく、自己犠牲を美しきことと捉えて即決する。
もっとも、それはそれで一つの答えなのだけど。
もう少し悩んでみるのも悪くないでしょ

 水実は口元に笑みを浮かべた。



 一回り年上の酸いも甘いも知り尽くしたお姉さんに、勢いだけで物事を決めようとする落ち着きのなさを指摘されたような心境になり、俺は少し恥ずかしくなった。


 とはいえ、身代わりになることを思いとどまったわけではない。

冬弥

俺はもう決意を固めてしまったんだ。
それをわざわざ悩めというなら、それ相応の話題を振ってくれよ

水樹

お話の前にお飲み物……でしたよね。
冬弥様。
あなたにピッタリのお飲み物をご用意させていただきます

 水樹はそう言うと、目の前のカウンターに向かって両手をかざした。


 すると、カウンターの上に何かがぼんやりと浮かび上がり、徐々に色が濃くなって実態ある物として現れた。


 それはソーサーに乗せられたティーカップだった。




 カップから個体のような丸まった煙がゆらりと立ち上った後、優しい香りを振りまきながら周囲へ溶けていった。




 驚いて目を丸くしている俺の前に、水樹がそのティーカップを差し出した。

冬弥

これって……紅茶?

水樹

水実が今飲んでいるのと同じものですよ。
もっとも、水実はアイスにしていますが、冬弥様はホットの方がお好きだと思いまして

 ティーカップからゆらゆら出ている湯気からは温かい日差しに照らされた、どこか懐かしい思い出の匂いがした。



 俺はそっとカップの取っ手を摘んで持ち上げ、ゆっくりと紅茶を口に入れた。



 紅茶の匂いが口の中に広がり、嗅覚を刺激した瞬間、俺の脳裏に美由の笑顔が映し出された。



 回りの情景がゆらゆら揺れて、視界がぼやけていく。

水実

泣くほど美味しかった?
こんなにも安っぽい味なのに

 水実は悪態をついたが、なぜか腹立たしくはなかった。



 むしろその言葉からは人情味が感じられた。

冬弥

はは……。
なにせ、貧乏だったからさ

 俺の笑い声も発する言葉も、震えてうまく喋れない。

水実

美由さんはいつもあなたに紅茶を淹れてくれたんでしょ。
きっと、夢を追う彼に自分ができることといったらこれくらいのもの……なんて思いながら。
彼女の望みはそんなところにあるのだわ。
そんな美由さんの身代わりになることが、本当に彼女のためになるのか。
どうかしら?
悩むには十分な話題でしょう

 水実は言い終えて、自分の手に持ったグラスの中の冷たい紅茶を口に流し込む。




 あれほどまでに決意したと心中で息巻いていたのに、俺は水実の言葉でしっかりと悩んでしまった。



 もしこの場に美由がいたとして、どちらか一方しか生きられないと宣言されたとするとどうだろう。





 美由は俺のために何かしてあげたいといつも言ってくれた。


 美由ならむしろ、俺に生きてて欲しいと願うんじゃないだろうか。


 俺が死んで美由が生き残った後はどうだろう。


 美由は家族を失い一人ぼっちだった。美由には俺しかいない。



 俺だって同じだ。



 だからこそわかってしまう。



 お互いの寂しさを補える唯一の存在……大事な人がいなくなって独りきりになってしまう辛さは、想像するだけでも十分に息苦しさを体感できた。




 そんな苦しみをただただ、美由に与えてしまうだけではないだろうか。

水樹

冬弥様には夢があります。
でも、美由様にとってはあなたが全てでした

 俺の心の中で繰り広げられている葛藤を見透かすように、水樹がポソリと言った。




 水樹の言う通りかもしれない。



 しれないのだが俺の話を聞いただけで俺と美由との間柄を理解したというような言い草が、少し腹立たしかった。



 俺と美由との思い出は、そんな単純じゃないんだと思いたかった。

水実

知った風なことを言うな……と思ったのでしょうけど。
当たらずとも遠からずだと私も思うわ。
別にあなたを怒らせたくて言ってるわけではないのよ。
そういったことも踏まえて、それでも身代わりになりたい?
ってことなの。
身代わりになるとはそう単純ではないということね

 水実にまで心の中を見透かされたことで、もはや認めざるを得ないと感じた。





 俺と美由は普通の平凡な恋人同士なのだ。




 そういう間柄であれば、相手のことを第一に考えるのも平凡なことである。



 水樹も水実も俺を悩ませるであろう題材を提示してきたが、それがかえって俺の心を冷静に、そして素直にさせた。



 俺は水実の言葉を聞きながら、目の前の紅茶をすすった。



 再び思い起こされる美由との休日。



 美由の笑顔。




 俺は目を閉じて美由との思い出に浸ると、大きく深呼吸をしてゆっくり目を開けた。

冬弥

俺は……美由の身代わりになるよ

 そう言った瞬間、目から大粒の涙がこぼれ落ち、そのことに俺自身が驚いた。




 だがすぐに、これは先ほどの勇み足による回答とは違う、美由とのお別れを正しく決意したからこその涙なのだと理解した。

「どうぞこちらへ」

 いつの間にか先ほど通った身代わりの川へと続くドアの前に水樹と水実が二人並んで立ち、高級ホテルのドアマンのように手をドアの方に向けて差し出していた。




 俺は椅子から立ち上がり、もう一度深呼吸をして二人のもとへと歩いた。


 長い一直線の廊下を、水樹と水実が同じ歩幅でズレることなく歩く。


 その後ろを、俺は黙ってついていく。





 歩きながら身代わりになるということと、俺自身があの世へ旅立つということを改めて考えた。





 美由との生活は、俺が生きてきた人生の中で最も幸せな日々だった。



 美由がいたからそう思えたのだ。



 俺が一番に思うことは、夢より何より美由の幸せなのだ。



 俺が死ぬことで美由がつらい悲しみを背負うかもしれないが、死ねば幸せもなにもない。




 生きていれば幸せを掴むチャンスはいくらでもあるはずだ。



 その可能性に望みを託し、俺はきっちりと死を受け入れた。


 そう。


 俺は倒れる食器棚の下敷きになりそうだった美由を突き飛ばした時、既に死を受け入れたはずだったのだ。


 元の鞘に収まるだけ。


 本当はこれからもずっと一緒にいられたらと、こうして一歩ずつあの世に向かっている今でも悔やんでしまう。


 だがそれが叶わないのなら、せめて美由は生きて幸せを掴んで欲しい。









 もうあの大きな扉の前まできてしまった。


 あの小舟に乗って、俺はあの世へと流されていくのだろう。

水樹

最後に一つ、よろしいでしょうか

 水樹が手を綺麗に前の方へ組み、今までとは打って変わって真面目な顔をして言った。

水樹

先ほどのバーにも、ここまで歩いてきた廊下にも色々な品物が飾られておりますが、これらは全てここを訪れた人達の置き土産だというのは、先ほどご説明致しましたね

冬弥

つまり、俺も何かを置いていけってことか。
だけど俺は何も持ってないぜ

 俺は両腕を広げて持ち合わせなど何一つないことを示し、今着ている服でも持っていくかと心の中で訴えて力なく微笑んだ。

水実

強く念じるだけでいいわ。
そうすればそれは形となってこの場に現れる。
ここでは念じればなんだって出すことができる。
さっき水樹がやってたでしょ

 そう言われて、水樹が紅茶を出した時のことを思い出した。

水樹

ここではなんでも出せるのですけど、元になるイメージがなければ出せる物などありません。
だからお客様に思い入れのある品を一つずつ出してもらうことで、そのイメージを頂いているのです

 思い入れのある品と聞いて真っ先に浮かんだ物があった。



 俺はまるで漫画に出てくる超能力者のように、目を閉じて目の前に現れるよう強く念じた。



 すると本当に念じた通りの物が目の前の空間に現れ、そしてドサリと床に落ちた。

水樹

ありがとうございます

 水樹は一礼し、大きな扉を開けた。





 そこには先ほど見た小舟が、やはり宙に浮いていた。




 水樹と水実の差し出す手に促されて小舟に乗ると、驚くほど揺れがなかった。



 足場が安定しすぎるのが予想外過ぎて、浮力に備えていた俺は逆に少しよろめいた。


 改めてここが自分の知っている世界のルールから外れた場所なのだと認識する。





 船床に座ると、いよいよお別れの時が来たのだと痛感した。




 俺の生きてきた世界との、今までに出会ってきた人々との、そして美由とのお別れの時が来た。

「お達者で」

 水樹と水実は揃ってそう言った後、水樹は右手を体に添えた紳士的なお辞儀を、水実は両手でスカートの裾をつまみ、少しだけスカートを持ち上げるカーテシーと呼ばれるお辞儀をした。




 バー・アルケスティスの建物からゆっくりと離れていく小舟に身を委ね、俺は二人の綺麗な立ち振る舞いを見据えた。





 そして徐々に消えゆく意識の中で強く願った。






 ただ一つ、美由のこれからの幸せを。


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