全てを語り終えると、俺はバーカウンターに両肘をつき、組んだ手に頭をのせて考え込んだ。



 俺は美由を押しのけて食器棚の下敷きになったはず。



 俺の中の記憶をいくらひっくり返してもこれが最後のワンシーンであり、何が起きたのかは全て思い出したつもりだった。



 にも関わらず、ここへ来た……このアルケスティスという名のバーを訪れた経緯だけがすっぽり記憶から抜け落ちている。

水樹

ここは俗に言う、この世とあの世の境目にある……と申し上げたら少しは理解していただけますか?

 水樹はワイングラスを磨きながら、頭を押さえて考え込んでいる俺に向かって言った。




 下敷きになって気がついたらここにいた。そしてここはこの世ではないという。それはつまり……。


冬弥

俺は……死んだってことなのか?

 実在しているとしか思えない俺の体とこのバーのリアリティーを目の前にすると、とても信じられない話だ。



 だが現実として起こったことを考えると、むしろそのように考えるのが自然な気がする。

水樹

いえ、あなたは死んではいませんよ。
ただ気絶しているだけなのです

 ようやくまとまりかけた俺の考えを、水樹があっさり否定した。

水実

ここは死んだ誰かの身代わりになる場所。水樹が最初にそう言ったでしょ。
死んだ人間がどうやって身代わりになれるというのかしら

 水実はそう言った後、クスクスと笑って手に持っていたグラスに口をつけた。

冬弥

どういうことだ?
君達の話の先が見えない。もっとわかりやすく教えてくれよ

 俺の質問に水樹がにっこり微笑むと、ひと呼吸の間を置いてから説明を始めた。

水樹

まず、ここには死んだ人間は来れません。
そして、身代わりになりたいと願える人物がいない者も同様です。
つまり冬弥様には大事な人がいて、その人の身代わりになることを願っているからこそ、ここへ来た……というわけです。
先ほどの冬弥様の話を聞く限り、その人物は美由様以外に考えられないと思います

 何を言っているのだろうか。





 俺は地震の時に美由を助けて下敷きになった。



 既に身代わりになったということじゃないのだろうか。

水実

つまり、死んだのは美由さんの方なのよ

 唐突に放たれた水実の一言に俺は絶句した。

冬弥

そんなバカな!
なんでそうなるんだよ!
なんで……なんで美由が死ななきゃならねぇんだ!

 思わず立ち上がり、水実に向かって怒鳴り散らした。




 助けたはずの美由が死んで俺が生きている。


 これが叫ばずにいられるだろうか。




 まず、あの状況で私が死んでいないというのは理解できなくもない。


 重傷には違いないのだろうが、当たり所が良かったということだろう。




 では、なぜ美由が死んでしまったのか。




 時間にすると数秒程だったのかもしれないが、その間に俺の脳はフル稼働であらゆる可能性を模索していた。



 俺が突き飛ばしたせいで、美由が頭を強くぶつけてしまったのだろうか。


 それとも俺が突き飛ばしたことで美由は食器棚からは逃れられたが、瓦礫か何かに押しつぶされ、俺は食器棚で守られて助かったと……そういうことなのだろうか?

水実

ふふ、落ち着きなさい。
これでわかったでしょう。
あなたがここに来た理由が……

 水実は片手でグラスを揺らし、中の氷をカラカラさせて微笑した。



 そんなことを言われても、すぐに納得することはできない。できるわけがない。




 ここがこの世のどこでもないだとか、美由が死んだとか、それは全てこの二人が言っただけのことではないか。





 全てデタラメに決まっている。




 ここに来た経緯こそ思い出せないが、この二人のドッキリ企画だと考える方がよっぽど自然だ。



 俺は自分が入ってきたであろうこのバーの入口へと向かい、ドアノブを掴んだ。

水実

そこから出たら身代わりの権利を失うわよ。
もっとも、それがあなたの選択であれば別に良いのだけれど

 水実の冷めたようなその言葉で、俺はドアを開けるのをためらった。



 万一にでも水樹と水実の言っていることが事実なら、美由を助けるチャンスを潰すことになる。

水樹

仕方ありませんね。
では、ここがどういうところに存在しているのかをお見せ致しましょう

 水樹はそう言うとカウンター側にある部屋の中へと消えていき、カウンターの外側の壁にあるドアから出てきた。



 どうやらそのドアはカウンターの中へとつながるスタッフルームのようなものの入口らしい。



 壁には他にも別の部屋の入口と思わしきドアが三つ存在している。

水実

面倒なことね

水樹

いつものことさ。
そうそう簡単にこの状況を理解できる人なんていないよ

 水実のため息まじりなつぶやきに、水樹が落ち着いた声で答えた。

水樹

冬弥様、私についてきてください

 水樹はそう言って、自分が出てきたところとは別のドアの前に立った。




 俺は軽く深呼吸をしてから、無言で水樹のいる場所へと向かった。





 俺が水樹のところまで来ると水樹は俺の顔を見て、ぶれることなくニッコリと微笑み、ドアを開けてそのまま中へと入っていった。


 俺はスタスタと奥へ歩いていく水樹の一歩後ろを、黙ってついて行った。

 ドアの中は一直線の廊下になっており、壁際には先ほどの部屋と同様に、絵やら鞄やら古めかしい鳩時計やら日本人形にフランス人形などなど、あらゆるものが置かれていた。



 それらは決して散らかしているといったわけでもなく、ちゃんと管理されて飾られているように感じる。



 とはいえやはり統一性はなく、悪く言えば飾り方にセンスがないと思った。

冬弥

あのさ、この飾られている物っていったいなんなの?
随分いろんな物があるけど

水樹

このバーをご利用いただいたお客様から譲り受けた品々です

 水樹は歩きながら俺の方へ顔を振り向かせ、笑顔で答えた。




 もしかして俺からも何かをもらおうとしているのではなかろうか。



 めぼしい物なんて何も持ってないんだが。


 うつむきながらそのようなことを考えていると、不意に水樹の足が止まった。





 目の前には、俺が手を広げても幅が足りないくらいの大きなドアがあった。



 水樹がそのドアをゆっくり開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。

冬弥

な!
なんだこれは!

 俺はドアから外側へ半身を乗り出して周りを見渡した。





 真っ暗というよりも真っ黒。
 ずっと先の先まで暗黒の世界なのだ。




 少なくともこの世に存在する世界とは思えないほどの黒さ。



 そしてドアの外側には、一艘の小舟が足元に浮いていた。



 下を見ると、周囲と同様に底が測れないほどの暗黒が続いていた。

水樹

この川は冬弥様の世界で言うところの三途の川の一部で、『身代わりの川』と呼ばれています

冬弥

川?

 俺は一瞬聞き間違いかと思ったが、その場にしゃがみこんでドアの外の何もないように見える空間をジーッと見下ろした。



 もしやと思い、手を下の方へゆっくり伸ばしていく。

 水に触れたような感覚もないのに、俺の手を中心に小さな波紋が周囲へと広がっていく。



 恐ろしいくらいに静かで透明で波一つ立たないが、確かに川と呼べるものがそこにはあった。

水樹

普通の死者はずっと上流を渡っています。
このバーを訪れるのはとても幸運なことなのですよ

 目の前に広がっている川はあまりにも透き通りすぎてて、ここから落ちたら浮力の恩恵を受けることもなく、そのまま永遠に落下してしまうような気がした。




 俺は、ここから落ちたらどうなるのかを水樹に問いかけてみた。

水樹

さあ。
落ちたことないので、私にもわかりかねます

 再び微笑んだ水樹の顔が、俺の背筋にヒヤリとしたものを感じさせた。

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