僕はイーゼルに自作のデッサン画を乗せて、それを見ていた。



 デッサン画の中心から左上へ視線を泳がし、時計回りに細部を眺める。


 次に、自分の体を反らして離れたところから全体を見た。


 そして深いため息をついた。




 というのも今見ているデッサン画は、二月後半に行われたデッサンコンクールで選外となり、三月の上旬に早くも手元へ戻ってきた僕の作品なのだ。

渡利昌也

お早いお帰りで

 僕は自分の作品をポンポン叩きながらつぶやいた。

加藤むつみ

お互い残念だったね

 僕のすぐ隣に座っている加藤君が言った。

渡利昌也

うん、絶対に受賞してやるって思ってたんだけど、やっぱりそんな甘くないね

 僕は肩を落として、苦笑いしながら加藤君に言った。

倖田真子

あんた、同じ選外だからって加藤と同じデッサン力だと思ってないでしょうね

 僕と加藤君の間から顔を覗かせて悪態をついてきたのは、つり目っ娘の倖田さんだ。

倖田真子

渡利のデッサンは選外で当然。
比べて加藤のは基礎が出来てんだからね

渡利昌也

わかってるよ。
悔しいけど倖田さんの言うとおりだ

 僕は、落ち込んでるときに何もそんなこと言わなくても……。

 と心の中でふてくされた。

倖田真子

でもまあ、悔しがる資格はあると思うよ。
最近、頑張ってたしね。
大いに悔しがりな

 倖田さんはうすら笑いを浮かべて言った。

渡利昌也

ホント?

 いつも厳しい倖田さんに頑張りを認められたことが嬉しくて、僕の声が跳ねた。

倖田真子

ぷっ。
ばーか。
喜んでどうする。
悔しがれっての

 僕が喜んでいる顔を見て、倖田さんが吹き出した。



 僕と加藤君も釣られて笑ってしまった。



 受賞を逃したのは残念だけど、一生懸命やって良かった。


 僕は受賞以上の大切なものを得たような気がした。



 僕と加藤君が青春ドラマのように笑っていると、倖田さんはそんな僕らの様子を横目で見ながらクールに微笑んで自分の椅子へと戻っていった。

飯塚俊司

渡利君、加藤君。
ちょっといい?

 今度は飯塚さんが僕らに話しかけてきた。


 どうやら倖田さんが僕らの元から去っていくのを待っていたようだ。

加藤むつみ

ホワイトデーですか?
飯塚さん

 加藤君が言った。

飯塚俊司

そう、その件。
さすが加藤君。
察しがいいね

 加藤君は飯塚さんの様子を見ただけでピンときたらしい。



 それに対する飯塚さんの反応を見る限り、加藤君は普段からなかなかの切れ者のようだ。

渡利昌也

ホワイトデー?
そういえばそんな日もありましたっけ

 僕は加藤君と違い、言われるまでホワイトデーという存在すら忘れていた。



 そもそも僕は今までホワイトデーを意識したことがなかった。




 中学の頃や転校前の高校でもクラスの女子が男子全員に漏れなく義理チョコを配っていたが、ホワイトデーにお返しするなど考えたこともない。


 だいたいその日が近づいてくると、クラスのイケてる男子グループにお金を徴収される。


 そして僕の知らないところでお返しの品が女子に配られているわけだ。



 僕はこのやり取りに全くもって興味がわかなかった。



 そんなわけでホワイトデーの存在を忘れているのは、僕にとって至極当然のことなのだ。

飯塚俊司

ほう。
女子が多い我が部でホワイトデーのお返しを考えていないとは。
君はなかなか大物だな渡利君。
思い出したまえ、バレンタインデーのときの倖田さんの言葉を。
そして想像してみたまえよ。
お返しを忘れた後のことを

 飯塚さんは怪談話でもしているかのようにボソリと僕に言った。



 お返しを忘れた後のことを考える以前に、倖田さんのバレンタインデーのときの言葉が思い出せない。




 そんな僕のキョトンとした顔を見て、今度は加藤君が僕に顔を近づけて言った。

加藤むつみ

ホワイトデーが楽しみー

 そう言ったあと、加藤君は数秒の間を置いて

加藤むつみ

です

と言った。



 その瞬間、加藤くんの顔に影がさした。



 ここで僕はようやく、ホワイトデーのお返しの重大さに気がついた。

渡利昌也

僕が愚かでした。
僕らの未来のためにホワイトデーを真剣に考えましょう

飯塚俊司

やっと理解できたようだね渡利君

 飯塚さんは僕の肩に手を置いた。

飯塚俊司

それで、今度の土曜に俺が女子全員分のお返しを買ってこようと思うんだが、何を買えばいいか一緒に考えてくれないか

 そう言われて僕も考えてみたのだが、女子が喜びそうなものなんて逆立ちしても思い浮かびそうになかった。

加藤むつみ

今回の場合、キーになるのはやはり倖田さんです。
他の女子は定番のクッキーでもちゃんと喜んでくれると思いますよ。
そして問題の倖田さんですが……

 加藤君はここまで言うと飯塚さんにこっそり話の続きを耳打ちした。


 その内容は僕にもちゃんと聞こえているのだが……。

飯塚俊司

だ、大丈夫かなそんなんで。
なんかもっとこう、高価っぽいのをあげないと怒りそうな気がするんだが

 そう……僕も飯塚さんと同じことを思った。


 わざわざプレッシャーを与えてきた倖田さんなだけに不安だ。

加藤むつみ

いえ、これで大丈夫です。
これなら僕らの懐も安心だし、ちゃんと女子へのお返しもでき、さらに倖田さんにも喜ばれますよ

 僕と飯塚さんの心配をよそに、加藤君は自信たっぷりだ。

飯塚俊司

わかった。
加藤君がそこまで断言するなら

 飯塚さんはそう言って、自分の椅子へ戻っていった。

渡利昌也

大丈夫かな加藤君。
そんな簡単なお返しで

加藤むつみ

うん、問題ないよ。
それに美術部は男子四名に対して女子は十二名もいるからね。
全員に高価なものなんてどっちみち無理だ

渡利昌也

確かに……

加藤むつみ

でも種まきは必要かな。
それは僕の方でやっておくけど

 加藤君は何か考えがあるようだ。

加藤むつみ

それより渡利君にはちゃんとお返ししないといけない彼女がいるんでしょ

渡利昌也

え?
え?
なにそれ

加藤むつみ

ほら、漫研の彼女

渡利昌也

ちょ、ちょちょ!
いや、あれは義理だし!
彼女とかじゃなくって……ってなんで加藤君が知ってるの?

 と……言った後、鈍感な僕にでもすぐにわかった。


 喋ったのはあの人だ。

加藤むつみ

ふふ。
飯塚さんが皆に言いふらしてたんだ。
あの人、口軽いから

 加藤君がちょっと困った顔をして、予想通りの名前を口にした。

渡利昌也

はぁ……やっぱり飯塚さんか。
まいっちゃうよあの人には。
でもホント、彼女とかじゃないからね

加藤むつみ

そうなんだ。
でもチョコをもらったのは事実なんだよね。
じゃあ安いものでもいいからお返しはちゃんとした方がいいんじゃないかな

 確かに、僕にとって一番嬉しい義理チョコだった。



 山根さんへのお返しには特別なものを送りたいという気持ちになっていた。



 とにかく彼女の喜ぶ顔が見たいと思った。



 なぜ僕は山根さんに対してそんなことを思っているのだろう。

 不思議だった。




 単純に第三者からすれば、それは『恋』ってやつだと思うのかもしれない。


 だが、恋と聞くと、相手を見ただけでドキドキしたり、夜も寝付けないくらい相手のことを考えたり、デートしたいとかキスしたいとか、その他もろもろやっちゃいたいという感じではなかろうか。



 だが僕にはそういう感情がない。



 山根さんと一緒にいるときに感じているのは、まるで時間の流れが緩やかになったような安息、心の安らぎだった。




 果たしてこれが恋と呼べるのだろうか。





 僕は自問自答をしながらも、一方では山根さんの喜びそうなものがなんなのかを必死に考えていた。


ホワイトデーのお返しの重要さ

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