美由

あんまり深く考えないで、今思ってることとか感じてることを素直に書いてみたら?

 俺が例のごとくパソコンの前で頭を抑えながら考え込んでると、美由が後ろから抱きつき、俺の肩に顔を乗せてきて言った。




 美由の言ってることは創作として正しいことだとは思うが、それを何らかのモチーフで表現するわけで、言われてポーンと出来るものではない。



 これこそが産みの苦しみというやつなのだ。



 ともあれ肩に乗っかったままのの美由の頭に自分の頭をもたれさせ、「やってみるよ」と返事をしてみた。


美由

がんばってね

 美由は俺に一言エールを送ると、立ち上がってそのままお風呂場へと向かった。





 脳からの指令に待ち疲れてキーボードの上でだらけている自分の手を見ながら、これまでの人生を思い浮かべてみる。


 そうすることで俺自身が何を思ってきたのか、今は何を思っているのかがわかる気がした。






 俺が高校を卒業したばかりの頃、母は既に死を覚悟していたみたいだったが、俺を残して死んでしまうことだけが気がかりだといつも言っていた。



 だが子供の頃から、壁の隅にキノコが生えてきそうなジメジメとした薄暗い部屋で、一人寂しさに耐えていた俺は、既に一人で生きていく心構えができていたと思う。




 母を安心させるため鉄工所に就職し、作業着をつけて母の病院を訪れては仕事の話を聞かせた。


 母が死んでからも、一人で生きていくことになんの不安もなかった。






 だが、今は俺の側に美由がいる。




 最初は美由を喜ばせようと必死だったのに、いつの間にか喜んでいるのは俺の方だったんだ。


 美由と出会って、俺は初めて母以外の人からも温もりを実感できるのだということを知った。


 二人で過ごした時間を思い返すと、心が安らいでいくのを感じる。




 美由に対する思いを一言で表すなら、きっとあの言葉だ。



 だが俺はあの言葉は言わない。




 代わりにありがとうなら今すぐ言える。

 これが俺の素直な気持ちだ。




 美由との思い出を振り返っていると、アイデアが少しずつ広がっていった。




 なんだか書けそうな気がする。




 俺は頭の中に浮かんできた言葉を、そのまま指に伝わらせた。先程までほとんど進まなかった原稿が、徐々に文字で埋め尽くされていく。




 とはいえ、これはこれで問題がある。


 ただ幸せが過ぎていくだけの話なんて読んでて退屈だろう。




 滑らかに動いていた指が一旦停止した時、美由がキーボードの横にそっとティーカップを置いた。



 カップから立ち込める湯気が周りの空気に溶け込み、俺の嗅覚を優しく刺激する。



 この匂いから察するに、中身は美由がお気に入りのいつもの紅茶だ。


 といっても美由のバイト先のスーパーに置いてある、リーズナブルなティーパック使用なのだが。



 置かれたティーカップから離れていく手を追うように振り返ると、パジャマ姿となった美由が風呂上がりの湯気を放出して立っていた。

美由

頑張ってるね。
いいもの書けそう?

 中腰でパソコンのモニターを覗き込みながら、美由が言った。

冬弥

まだ見ないでくれよ。
集中できないだろ

 モニターに映し出されている原稿には、美由への思いがつらつらと書かれているわけで、そんなものを当の本人に見られるのは、なんとも恥ずかしい。



 それでも美由は、視界を遮っている俺の手から逃れてどうにかパソコンのモニターを覗こうとしてくるので、先ほどよりちょっとだけ強く拒否反応を見せると、頬を膨らませてブーたれながら、部屋の隅へと離れていった。



 そして、押入れから俺の黒い歴史が詰まったダンボールを引っ張り出し、中身を出して読み始めたのだった。



 それはそれで恥ずかしいのだが。



 小説を書き始めてから三ヶ月ほど経った。



 この頃になると高校時代の感覚も戻り、書く事にストレスを感じなくなってきた。



 基本的に昼は仕事なので、小説を書くのは風呂を上がり、夕食を終えてからだ。





 ときどき予定のない休日を利用することもあった。




 俺が寒さでかじかむ手を無理くり動かしながら小説を書いていると、美由はそっと温かい紅茶を置いてくれた。



 しばらく経って後ろを振り返ってみると、美由は俺の過去作品に没頭している。


 最近ではこれが互いの時間の過ごし方になっていた。




 それはなんとも言えない心地よさが包み込む、とても静かな時間だった。




 だが、ここ最近の美由はパソコンに向かって集中している俺に、後ろから抱きついてくることが多くなった。


 なんだかんだ言っても、構ってもらえないのが少し寂しく感じるのだろうか。


 もっとも、それは毎日というわけでもないし、何度もちょっかいを出してくるでもないので、そのことについてはさほど邪魔に感じることもない。




 ただ、こういうことをしてくる場合、美由は決まって『確認』をしてくる。


美由

冬弥。
私のこと愛してる?

 美由の問いかけに俺はいつも笑ってごまかし、この件をうやむやにした。



 それに対して美由が口を尖らせるのも最近のお約束になっていた。



 美由は以前から定期的にこの質問を繰り返してきたが、その頻度は日に日に増しているような気がしていた。



 そんな安い言葉なんてなくとも、俺の気持ちはわかっているはずなのだ。



 それでも美由は俺の口から、その安い言葉を引き出したいらしい。

美由

一度も言ってくれたことないんだもん

 ある日、美由はそう言って普段よりしつこく俺にまとわりついてきた。


 それでも俺が苦笑いを貫くと、美由は渋々部屋の隅に戻り、壁にもたれて俺の小説を再び読み始めた。




 その様子を見ながら、少しだけ申し訳ない気持ちが湧き上がる。





 そんなにあの言葉を俺に言わせたいのだろうか。




 俺は美由の淹れてくれた紅茶をすすり、再びパソコンと向かい合った。


 ただでさえお互い忙しいのに、せっかくの二人の時間を割いてまで小説を書いている。



 もしかすると美由は少しずつ俺との生活に不満を抱いているのではないかと思った。




 いや、それは考え過ぎか。




 そもそも小説をまた書き始めて欲しいと願ったのは美由の方なのだし、美由は基本的には常に完全応援体制なのである。





 俺達の未来について語っている時もそうだ。



 俺の小説で売れることを前提とした将来設計を立てているのは、いつだって美由の方だった。



 だからこそ俺も頑張っている。



 ならば俺があの言葉を口にしないことが不満なのだろうか。



 愛情なら常に態度で示しているつもりだ。やはり俺の思いすごしだろう。



 きっと美由は俺にあの言葉を言わせてやろうと、少し意地になってるだけなのだ。




 最終的にはそう結論づけた。




 だが数日後、それが間違いだったことを知る。







 そして……後悔することさえできなくなるのである。

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